第69話:偽りの勝利と、守護者の違和感
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ノエルたちが雪深い森で、生きるための静かな戦いを繰り広げていた頃。
西の森の北端に位置する王国の辺境、「西の砦」では、全く質の違う、血と鉄の匂いに満ちた戦いの火蓋が切られようとしていた。
聖歴九九八年、一月二十八日。夜明け前の冷気が、西の砦の石壁を白く凍らせていた。
砦の主楼、その最上階。四方の壁が大きく開け放たれた監視塔で、守備隊長は一人、自らの領分を見下ろしていた。
東側――王国へと続く街道沿いには、小規模な城下町が広がっている。徴税のための広場と平屋の事務所、そして兵士たちの家族が暮らす家々が、山間の斜面を埋めるように、朝の眠りについていた。新年を祝う祭りの残り香がまだ微かに漂う、穏やかな光景だ。
さらに東へ半日も馬を走らせれば、より大きな街がある。ほとんどの商隊はそこを宿とするため、この国境の町は常に静かだった。ましてや、近頃の帝国との緊張の高まりで、商隊の数もめっきり減っていた。
守備隊長は、その視線を西へと転じる。
目の前には山間に挟まれるように平地が広がり、砦の門から延びる国境の街道が、一キロほど先で湾曲した山道に吸い込まれていく。その盆地を挟んだ隘路の西端に、この砦は築かれていた。その隘路のわずかな平地を横切るように、北の山脈から南の森林地帯まで、三本の石造りの防壁が完全に塞いでいる。
六十年前に王国の独立を勝ち取った戦乱期、この砦は王国を守る盾となった。だが、それ以来本格的な防衛戦は経験しておらず、当時を記憶する兵など一人もいない。今や、ただの関所と化した、静かな石の巨人。
その巨人の懐、第二防壁と第三防壁の間では数頭の馬が放牧され、いくつかの兵舎と整備所が点在し、第一防壁と第二防壁の間の練兵場では、兵士たちの訓練の掛け声が、冬の冷たい空気を震わせている。
練兵場では、彼の前職からの部下たちが、夜明け前から地元兵たちの訓練をつけていた。数ヶ月前、領騎士団長であった彼は、信頼する100名の部下と共にこの辺境へ異動させられたのだ。
ここに残されていた地元兵と、元精鋭の騎士であった彼の部下との練度の差は歴然だった。守備隊長と共に来た者たちの動きには揺るぎない規律があるが、数だけ揃えられた地元兵たちの動きは鈍重で、国境を守るという自覚に欠けていた。
彼らの腰に巻かれた、西の砦の紋章が入ったサッシュだけが、唯一の統一装備。しかし、その着こなしはだらしなく、革鎧は手入れもされず、士気の低さを物語っていた。
(……寄せ集めの三百で、本当にこの砦を、民を守りきれるのか)
彼の不安は、兵の練度だけに留まらない。この左遷そのものに、巨大な謀略の匂いを嗅ぎ取っていた。先代領主への忠誠を貫き、現領主の不正を告発しようとした矢先の、この辺境への異動。それは、あまりにも都合が良すぎる。
その、重苦しい思考は、帝国側の平地から響き渡った、恐慌の叫びによって無慈悲に引き裂かれた。
日の出と共に帝国へ向かったはずの商隊が、砂塵を巻き上げながら、ほうほうの体で砦へと逃げ帰ってくる。
「魔物だ! 見たこともない数の、魔物の大群だ!」
その絶叫が、砦の偽りの平穏を完全に終わらせた。
◇
けたたましい警鐘の音と共に、砦は瞬時に臨戦態勢へと移行した。
守備隊長は主楼を駆け下りると、馬に飛び乗り、即座に第一防壁へと前進する。その背を追い、伝令兵たちが続く。
高さ三メートルほどの石造りの第一防壁。幅300メートルにわたり空堀と壁道が続く。中央の跳ね橋を備えた門の左右には小さなタレットが突き出し、正面を守る。その上部には弓兵や槍兵のための狭間が等間隔に備えられている。
守備隊長が防壁の中央に到着する頃には、既に巨大な跳ね橋が上げられ、幅三メートルの空堀がその口を開けていた。
「弓隊、斉射用意! 槍隊は壁際の迎撃陣形を維持しろ! 怯むな、お前たちの背後には、家族がいることを忘れるな!」
その声には、兵士たちの恐怖をねじ伏せるほどの、絶対的な覚悟が宿っていた。
元騎士団の精鋭たちが即座に防衛線の核となり、その揺るぎない姿に、練度の低い地元兵たちも、かろうじて戦列を維持する。歴史上、対人戦しか想定してこなかったこの防壁が、今、初めて規格外の脅威――『魔物』という、未知の敵に直面していた。
地平線の向こうから現れた黒い津波が、平原を埋め尽くしていく。オークやゴブリンを主力とした、魔物の軍勢だった。
第一防壁の内側で待機する傭兵部隊の中で、ナルはその光景を冷静に分析していた。彼の脳裏には、数日前に密会した「古い友人」の言葉が反響していた。『帝国軍は動かない。無血開城の手はずは整っている』と。
(……話が、違う)
来るはずだったのは「帝国軍」。しかし、現れたのは想定外の「魔物」。それは戦略レベルでの、致命的な計画の齟齬だった。
この想定外の事態は、領主が目指す「無血開城による平和」という計画を、根底から覆しかねない。
彼は、この戦闘の背後にいる、領主ですら把握できていない、第三のプレイヤーの存在を確信していた。
「――放て!」
守備隊長の号令一下、無数の矢が空を覆い、魔物の軍勢の先頭へと突き刺さる。しかし、魔物たちは怯まない。まるで、痛みも恐怖も感じていないかのように、ただ、防壁の一点を目指して、自殺的な突撃を繰り返してくる。
槍兵が壁際でその突撃を受け止め、血飛沫が上がる。兵士たちの恐怖と、家族を守りたいという覚悟が、戦場で激しく交錯していた。
傭兵たちの任務は、第一防壁が突破された場合に、第二防壁までの間で敵を殲滅する白兵戦要員である。彼らはまだ戦闘に参加せず待機している。
傭兵であるナルは、第一防壁のすぐ後ろで守備隊長を見上げながら、その指揮――陣形変更のタイミング、予備兵の投入位置、矢の消費ペース――の全てを、まるでチェスの棋譜でも読むかのように、冷徹に観察し続けていた。
◇
戦闘は、およそ四時間に及んだ。
死闘の末、魔物たちは第一防壁を超えることはなく、砦側の勝利に終わった。しかしその代償は大きかった。
練度の低さから、矢の運搬中に防壁から足を滑らせて重傷を負う者。魔物が投げた石礫に当たり、命を落とす弓兵。そして、死体の山を乗り越えて壁上に現れたオークに、喉を掻き切られる槍兵。
生き残った兵士たちから、疲労と安堵が入り混じった、かすれた歓声が上がった。
しかし、守備隊長の表情は、勝利の喜びに満たされてはいなかった。彼は残敵掃討と周辺の安全確保を指示すると、跳ね橋を降ろし、門前の死体の山へと自ら進み出た。その脳裏には、戦術的な『違和感』が渦巻いていた。
(おかしい。なぜ、これほど統率の取れた軍勢が、最も防御の厚い中央に、ただ自殺的な突撃を繰り返した? まるで、こちらの防衛能力――特に、対『魔物の大群』という未知の状況への対処能力を、正確に『測定』されているようだ……)
ナルもまた、同じ結論に達していた。
彼は守備隊長の背中を、ただ静かに見つめている。他の傭兵たちが勝利の余韻に浸る中、一人、魔物の死体から微量な魔力の残滓が付着した土を採取し、誰にも見られぬよう懐にしまった。
◇
その夜。守備隊長の執務室。
彼は、地図を前に一人、今日の戦闘を反芻していた。そして、一つの恐るべき結論に行き着く。
この襲撃は、ただの魔物の暴走ではない。この背後には、こちらの戦力を正確に分析し、次の一手を打ってくる、見えざる『軍師』がいる。そして、この左遷そのものが、自分と部下を、その恐るべき軍師が描く盤上へと送り込むための、巨大な謀略であったことに、気づき始めていた。
同じ頃、城下町の傭兵宿舎。
ナルもまた、自室で、採取した土を分析しながら、思考を巡らせていた。
(この魔力のパターン……これは、帝国の正規の魔道士のものではない。もっと異質で、制御されていない何かだ……)
彼は、この襲撃が、帝国軍主流派の作戦ではない可能性に行き着く。そして、「領主」「帝国軍主流派」そして「魔物を操る何者か」という、三つ巴の複雑な盤面を認識し、自らの立ち位置を再考し始めた。
二人の「守護者」が、それぞれ異なる角度から、同じ「見えざる手」の存在を確信し、孤独な情報戦を開始した。
西の砦の、偽りの平穏は、既に終わっていた。
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