第7話:せせらぎと、鼓動
いつも応援ありがとうございます。
【新章開始】です。
ここから、物語は大きく動き出しますので、ぜひお見逃しなく!
≪心の準備のお願い≫
本日のお話は、登場人物にとって、少し辛い展開となります。
お読みになる際は、どうかご無理なさらないでくださいね。
※【鬱展開】【残酷な描写】を含みます。
その日、ノエルは一人で森にいた。
姉のクレアに頼まれ、少し離れた沢沿いにしか生えないという、解熱効果のある薬草を採りに来ていたのだ。
ここは、彼女のお気に入りの場所の一つだった。
沢のせせらぎが、絶え間なく心地よい音色を奏で、風が通るたびに、木々の葉がさらさらと囁き合う。頭上を見上げれば、幾重にも重なった葉の間から差し込む木漏れ日が、まるで生き物のように地面で揺れていた。
湿った土の匂いと、苔の青い香りが混じり合い、胸いっぱいに吸い込むと、心がすっと澄んでいくような気がした。
最近のクレアは、村の古老から譲り受けた古い医学書を読み解き、独学で薬の調合を研究していた。
その熱心な姿は、妹であるノエルにとっても誇らしく、こうして手伝いをすることは、ささやかな喜びでもあった。
「この葉の裏に、銀色の産毛が生えているのが目印よ」
姉の優しい声が、耳の奥で蘇る。
ノエルは言われた通りの薬草を丁寧に見つけ出すと、手作りの小さなかごにそっと入れていった。思ったより早く見つかったな、と彼女は小さく微笑む。あと三枚ほど見つけたら、今日の分は終わりだ。早く帰って、お姉ちゃんに褒めてもらいたい。きっと、「ありがとう、ノエル。助かったわ」と言って、母さんが焼いてくれた木の実のクッキーを、こっそり分けてくれるはずだ。
今夜の夕飯は何だろう。昨日の残りのシチューかな。それもいいけど、お魚が食べたいな。明日は、お姉ちゃんと一緒に村の広場で縄跳びをして遊ぼうか。
そんな、どこにでもある、明日へと続く幸せな時間を疑いもせず思い描いていた、まさにその時だった。
ふと、森の空気が一変した。
今まで耳を楽しませてくれていた小鳥たちのさえずりが、まるで指揮者がタクトを振り下ろしたかのように、ぴたりと止んだのだ。
森が、不自然なほどの静寂に包まれる。
風が木々の葉を揺らす音と、遠い沢の音だけが、やけに大きく聞こえた。
なんだろう、と顔を上げたノエルの視界の端で、茂みから飛び出した鹿の親子が、パニックに陥ったように森の奥深くへと駆け抜けていくのが見えた。珍しいな、と思ったのも束の間、一羽の兎が、その後を追うように猛スピードで走り去り、木の枝からは聞いたことのない鳴き声を上げながら鳥の群れが一斉に飛び立つ。
動物たちが、何かから一斉に逃げている。
種類も習性も違う生き物たちが、皆、同じ方向へ。
胸が、ざわりと嫌な音を立てた。
本能が、危険を告げている。
そして、風向きが変わった。
今まで森の湿った土の匂いを運んできていた風が、今、村の方角から、まったく別の匂いを運んできた。
獣の毛が焼けるような、鼻をつく焦げ臭さ。収穫祭で豚を丸焼きにした時の匂いとは違う。もっと乾いていて、無機質で、命が不自然に奪われた時の、本能的な恐怖を掻き立てる不吉な匂いだった。
その匂いに混じって、もっと生々しい、肉が焦げるような強烈な異臭が、ノエルの感情を容赦なく突き刺した。
言いようのない胸騒ぎに駆られ、ノエルは考えるよりも先に走り出していた。
薬草の入ったかごが手から滑り落ち、地面に中身をぶちまけたのも構わず、村全体を見渡せる一番近くの丘へと、夢中で駆け上がっていく。
「気のせい、気のせいよ」
心の中で、何度も自分に言い聞かせる。きっと、誰かが大きな焚き火でもしているだけ。そうに決まってる。
でも、足は止まらない。この胸騒ぎの正体を、自分の目で確かめなければ、息もできない。
息が切れ、心臓が喉から飛び出しそうだった。
息も絶え絶えに丘の頂上にたどり着き、村の方角を見た瞬間、ノエルは息をのんだ。
故郷の村。
いつもなら、家々の煙突から、夕餉の支度をするための穏やかな白い煙が立ち上っているはずの時間。
だが、今見えているのは、そんな生やさしいものではなかった。
村の中心に近い、いくつかの家から、禍々しい黒煙が、空に向かって太く、高く、立ち上っていた。まるで、巨大な黒い指が、空を掴もうとしているかのようだ。
そして、風に乗って聞こえてくる、くぐもった音。
それは、人々の楽しげな声ではない。断続的に響く、硬い金属がぶつかり合う音と、誰かの悲鳴が、悪夢のように混じり合った、おぞましい音だった。
火事?
誰かが喧嘩でも?
まさか、魔物…?
思考が、最悪の可能性へと引きずられていく。
「お父さん……お母さん……お姉ちゃん……!」
ノエルの顔から、血の気が引いていく。
彼女は、転がるように丘を駆け下り、村へと続く獣道を全力で走った。足がもつれ、何度も転びそうになるのを、必死にこらえる。
村は、もうすぐそこだ。
しかし、いつもなら農夫たちが行き交う穏やかな村道は、見たこともない、無数の足跡で、めちゃくちゃに踏み荒らされていた。
それは村人たちの簡素なサンダルの足跡とは違う。すべてが同じ形、同じ深さ。まるで、一人の人間が何十回も同じ場所を踏みつけたかのような、無機質で統率の取れた硬い靴の跡。その跡が、畑を、道を、村の入り口へと向かう全ての地面を、容赦なく蹂躙していた。
村の入り口を示す、古びた木の看板が見えた。
その向こうで、複数の人影が、激しくもみ合っている。
その中の一つの影に、ノエルは見覚えがあった。
村の誰よりも大きく、頑丈な、見慣れた背中。
お父さんだ。
父が、農具の鍬を手に、何者かと戦っている。
希望と恐怖が、同時に胸を突き刺す。助けなきゃ。でも、どうやって?
思考が、完全に麻痺する。声も出ない。足も動かない。
しかし、その光景は、一瞬で終わった。
父の前に立ちはだかっていた影の横から、別の、新しい人影が滑り込んでくる。
その影が、何か鈍い光を放つものを振り上げたのを、ノエルは見た。
そして、父の大きな背中が、ゆっくりと、前のめりに崩れていくのが見えた―――気がした。
―――気がした、だけだった。
なぜなら、その全てを最後まで見届ける前に、別の敵兵の影が、無慈悲に彼女の視界を完全に遮ってしまったからだ。
何が起きたのか。
父はどうなったのか。
何も分からない。
世界から、色が消えた。匂いも、風の音も、何も感じない。
ただ、あの鈍い光と、崩れ落ちていく大きな背中の残像だけが、瞼の裏に焼き付いて離れない。
目の前で、自分の世界が終わっていく音だけが、ノエルの耳の中で、いつまでも、いつまでも響いていた。





