第67話:無限回廊と、進むべき道
いつも応援ありがとうございます。
【第二章開始】です。
ここから、物語は大きく動き出しますので、ぜひお見逃しなく!
カイのランタンが放つ、絞られた一筋の光が、濃密な闇をわずかに切り裂いていた。
鉄の街道の四人は、背後に塞いだ巨岩の壁を残し、未知の領域へと第一歩を踏み出していた。湿った冷気が肌を刺し、自分たちの呼吸音と、革鎧が擦れる音だけが、やけに大きく耳に響く。
「いいか、てめえら」
殿を務めるバルガスの、地の底から響くような低い声が、狭い洞窟の壁に反響した。
「ここは森じゃねえ。壁も、天井も、床も、全てが敵だと思え。絶対に一人で動くな。常に声を掛け合え。……特にカイ、お前は調子に乗って先行しすぎるなよ」
「へっ、誰に言ってやがる」
軽口を叩きながらも、先頭を進むカイの動きに一切の油断はなかった。
シャッター付きのランタンの光量を最小限に絞り、その光が壁に反射する僅かな陰影の変化から、地形の起伏や隠れた亀裂を読み解いていく。彼の背後には、槍をいつでも突き出せるように構えたレオンがぴたりと続き、中堅のエルラが弓に矢をつがえたまま周囲を警戒し、そして最後尾をバルガスが固める。長年の経験で培われた、未知の領域を進むための、安全を最優先した隊形だった。
最初の数時間は、自然が作り出した、ありふれた洞窟だった。天井は低く、ぬかるんだ床が足を取る。時折、頭上から滴り落ちる水滴の冷たさが、彼らの神経を鋭敏に研ぎ澄ませていく。
「――待て」
カイが、すっと右手を上げて一行を制止した。ランタンの光が、前方の天井の一点を照らし出す。そこには、半透明の粘液に包まれた、拳ほどの大きさの何かが、いくつもぶら下がっていた。
「……スライムか。音に反応して、眠り胞子を撒き散らす厄介な菌類だ。全員、息を殺せ。足音を立てずに、壁際を抜け…」
カイが指示を出し終える前に、最後尾のバルガスが、ごほん、とわざとらしく大きな咳払いを一つした。その音に反応し、天井のスライムたちが一斉に胞子を撒き散らす。
「てめっ、バルガス!」
「ああ? すまんすまん。ちいと喉の調子が悪くてな」
豪快に笑うバルガスの横を、エルラが呆れた顔ですり抜けた。彼女が放った矢には、燃える松脂を塗り付けた布が巻き付けてある。火矢は粘液に着弾するなり、轟音と共にそれらを焼き払った。
「あんたたち、いつまで遊んでるの。さっさと行くわよ」
「やれやれだ」
レオンが肩をすくめる。彼らにとって、この程度の危機は、日常の挨拶のようなものだった。
しかし、その日常が終わりを告げるのに、時間はかからなかった。
道は、いつしか、自然の洞窟から、人の手で掘られたかのような、どこまでも続く直線的な通路へと姿を変えていた。
幅も高さも、綺麗に三メートルほどで統一されている。床は平らで、壁には人工的な装飾も、生活の痕跡も、一切ない。
「……おい、なんだこりゃ。まるで、城の地下通路じゃねえか」
カイが、プロとしての違和感を口にする。罠も、魔物の気配も、一切ない。その「何もない」という事実が、逆に彼の警戒心を最大限に引き上げていた。
「ああ、間違いない」
最後尾のバルガスが、苦々しく吐き捨てた。
「こいつは、本物の『ダンジョン』だ。昔、帝国で見たやつと、同じ匂いがする」
彼の言葉が、この場所に満ちる異様な空気の正体を突きつける。ここは、もはや人間社会の理が通用する場所ではないのだ、と。
一行は、表情をさらに引き締め、未知の闇の奥深くへと、慎重に歩を進めていった。
◇
どれくらい、歩き続いただろうか。
ノエルの思考は、濃い霧の中を彷徨っているようだった。
アストルの炎が照らし出すのは、どこまで行っても変わることのない、灰色の石の壁と床だけ。規則正しく、しかし永遠に続くかのようなその光景は、徐々に時間の感覚を麻痺させていく。
半日か、あるいは丸一日が過ぎたのかもしれない。もはや、そんなことはどうでもよくなっていた。
疲労だけが、現実の感覚として、鉛のように体に蓄積していく。
魔物の気配も、罠の気配も、一切ない。
その「何もない」という状況が、逆に二人の精神を、内側から静かに蝕んでいた。
アストルの心にも、焦りと、そして忘れていたはずの過去の記憶が、澱のように沈み始めていた。
(……また、これか。光のない、閉ざされた場所……)
帝国に保護された後、彼は、その力の価値を理解した者たちによって、丁重に、しかし、徹底的に管理された。与えられたのは、十分な食事と、安全な寝床。そして、自らの罪悪感に寄り添うような、優しい言葉の数々。だが、それは、鳥かごの中の安寧でしかなかった。外の世界から完全に隔絶され、ただ、帝国の望む兵器となるための教育だけが、日々、繰り返された。
この、どこまでも続く回廊は、あの頃の閉塞感を、嫌でも思い出させた。
ノエルの心もまた、静かな悲鳴を上げていた。
彼女の魂に宿る、あの合理的な思考は、この場所に足を踏み入れてから、完全に沈黙している。地形に変化がなく、敵の気配もなく、分析すべき情報が何一つ存在しないからだ。
生まれて初めて、彼女は、自らの内に響く声が何もない、完全な「無」の状態に置かれていた。それは、静寂という名の、得体の知れない恐怖だった。
ついに、ノエルの足がもつれ、前のめりに転びそうになる。その小さな体を、すぐ前を歩いていたアストルの腕が、咄嗟に、しかし乱暴に掴んで支えた。
「……ちっ」
アストルは舌打ちと共に、その場に足を止めた。そして、まるで自分に言い聞かせるかのように、吐き捨てる。
「……休憩する」
それは、この終わらない道行きの中で、彼が初めて発した、明確な意思疎通の言葉だった。
ノエルは壁際に座り込み、アストルは、彼女を守るように、通路の中央に立ったまま周囲を警戒する。
アストルは、あのミレイという不思議な女性からもらった乾パンを取り出すと、ひとかじりしてその味と食感を確かめた。
その様子を横目で見ていたノエルもまた、懐から乾パンを取り出す。そして、彼を真似るように、恐る恐る、その一片を口に運んだ。
硬い食感が、疲弊した思考を現実に引き戻す。
そして、しっかりと噛みしめるごとに、穀物の素朴な甘みが口の中にじんわりと広がり、空っぽだった胃が、確かな満足感で満たされていく。
一片だけで、これほどの充足感が得られるとは。確かにこれなら、十日は持ちそうだ。
ノエルは、その不思議な滋養に、静かに驚いた。
気まずい沈黙が、続く。
その沈黙を破ったのは、アストルの方だった。
「……帝国は、西の砦を狙っている。あそこを拠点に、この地域一帯の魔物を完全に制御下に置くつもりだ」
ぽつりと、彼は語り始めた。それは、誰かに聞かせるためというより、自らの目的を、この暗闇の中で見失わないための、確認作業のようだった。
ノエルは、その言葉に、静かに耳を傾ける。そして、彼の言葉に応えるように、自らの秘密を、初めて他者に打ち明けた。
「私の中には、別の誰かがいるようです。いつも、私の知らないことを知っていて、物事の最適解を示してくれます」
アストルは、その告白に、驚きも、侮蔑も見せなかった。ただ、自らが灯す小さな炎を見つめながら、静かに相槌を打つ。
「……そうか」
それだけの言葉だった。しかし、その一言は、ノエルの心を、ほんの少しだけ、軽くした。
休憩中、ノエルは、疲労した体を癒そうと、両手に、か細い治癒の光を灯そうとした。村で母に教わった、不得意な生活魔法。
しかし、数秒と経たないうちに、くらりと、強烈なめまいが彼女を襲った。視界が白く染まり、壁に寄りかかっていなければ、倒れてしまうところだった。
「――馬鹿、やめろ」
アストルの、鋭い声。彼は、ノエルの手を掴み、無理やり魔法を中断させた。
「お前の魔力は、赤子同然だ。そんな使い方をすれば、すぐに枯渇するぞ」
彼は、初めて、ノエルの本質に触れた。森の民の色を持ちながら、その内に秘める魔力は、常人の、それも子供にも劣る。その、あまりにも歪なアンバランスさ。
「……魔力を酷使するな。完全に枯渇すれば、人は、記憶を失うこともあるらしい」
帝国で、力の暴走を繰り返した仲間が、廃人のようになっていくのを、彼は何度も見てきた。その、苦い記憶からくる、本心からの忠告だった。
二人は、再び無言で歩き始めた。
まだ、互いへの不信感は消えていない。しかし、その間には、先程までとは明らかに違う、互いの傷と秘密を、ほんの少しだけ共有した者同士の、微かな繋がりが生まれていた。
歩き出す直前、アストルが、ぽつりと呟いた。
「……なぜ、俺の心配をする」
その問いに、ノエルは答えなかった。
しかし、彼女は、アストルが初めて、自分という存在を「認識」し、その内面に興味を抱いたことを感じ取る。
彼の背中が、ほんの少しだけ、大きく見えた気がした。
もう、自分を置いて、一人で消えてしまうことはないだろう。そんな、根拠のない確信が、彼女の胸に、小さな灯火のように宿った。
先を行くアストルの思考は、既に、別の次元へと移行していた。
(違う……。自分のための贖罪なんて、初めから必要なかったんだ……)
彼の脳裏に、力の暴走によって失った家族の顔と、助けを求めるようにか細い光を灯す、この小さな少女の姿が、重なって見えた。
(俺は、二度と過ちを繰り返さない。この手は、守るためだけに使う。ただ、それだけだ)
彼の心の中で、一つの、あまりにもシンプルで、しかし揺るぎない決意が固まる。それは、帝国への憎悪でも、過去への贖罪でもない。ただ、目の前の、か細い灯火を守り抜くという、一人の人間としての、最初の誓いだった。
彼の歩みは、先程までとは比較にならないほど力強く、そして迷いがなくなっていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
明日も【朝6時更新】です!
少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価ポイントで応援していただけると、執筆の大きな励みになります。
感想や誤字報告なども、お気軽にいただけると嬉しいです。





