第66話:盤上の駒と、王の紋
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【第一章最終話】です!
一月も下旬、昨日から降り積もる雪が世界を灰色に染める暗夜。
ニューログレインから北へ半日ほど行った、深い谷の中。そこには、地図には載っていない、白鴉隊だけが知るはずの、隠された中継拠点があった。
その、常人では決して見つけられぬはずの野営地に、一つの影が、音もなく滑り込んだ。
ギルド事務長、ギデオン。
ギルドでの、数字に追われる神経質な事務長の姿は、そこにはない。彼は、かつて斥候だった頃の、完璧に気配を殺した「静」の動きを取り戻していた。木の根を踏む音も、枯れ葉を揺らす気配も、何一つ立てない。まるで、彼自身が、この夜の森の一部であるかのようだった。
オルドの密命を受け、彼はこの拠点にたどり着いた。かつての斥候としての知識と、「白鼠」の情報網を頼りに、白鴉隊の秘密のルートを寸分の狂いもなく辿ってきたのだ。
彼は、拠点で篝火の番をしていた、一人の斥候の背後に、音もなく立つ。
「――伝言だ」
その、あまりにも唐突な声に、白鴉隊の斥候――『烏』の一員である男は、心臓が凍るほどの衝撃と共に、弾かれたように振り返った。
「白鼠より、親鴉へ。急ぎ、お会いしたい、と」
白鴉隊の斥候は、自分たちの機密ルートを正確に辿り、一切の感情を見せずに伝言を告げるギデオンの姿に、ただ者ではないことを悟り、戦慄した。この男の背後にいる『白鼠』という存在の、底知れない情報網の恐ろしさを、肌で感じ取っていた。
◇
翌日、領主一行が慌ただしく代官所へ入ると、ニューログレインまで同行してきたギルドマスター・マードックが、一週間ぶりに職能ギルドに帰還した。
絶対的な主の帰還に、ギルドホールは安堵と、そして新たな緊張が入り混じった、複雑な空気に包まれる。
マードックはホールを抜けるとまっすぐ二階へ上がり、自らの執務室の扉を開ける。そこには、当然のように、オルドが、優雅に茶をすすって待っていた。
「これは、先輩。少し、お疲れのようだ。辺境の旅は、骨が折れましたかな?」
「うるせえ、狐狸親父め。俺の留守中に、随分と、楽しそうなことをしてくれたみてえじゃねえか」
長年の好敵手である、二人のAランク。その視線が、静かに交錯する。
言葉は少ない。しかし、その間には、互いの腹の底まで読み合うような、鋼のような意志が、火花を散らしていた。ハンナは、執務室の扉の隙間からその光景を窺い、息をのんだ。
その、張り詰めた空気を破るように、執務室の扉が、遠慮がちにノックされた。
「――失礼します。大隊長がお見えです」
ギデオンの声だった。彼に案内され、ダリウス・アイゼンが、一人で部屋へと入ってくる。
マードック、オルド、そしてダリウス。辺境の運命を左右する、三人の傑物が、初めて、一つの場所に集結した瞬間だった。
マードックの、戦場そのものを体現したかのような圧倒的な存在感。オルドの、全てを見透かす、底なし沼のような静かな眼光。
ダリウスは、目の前の二人が、辺境のギルドマスターという肩書に収まる器ではない、本物の「傑物」であることを見抜くと、その口の端に、不敵な笑みを浮かべた。
「……なるほど。こんな辺境で、これほどの男たちと、言葉を交わすことになるとはな。面白い」
その言葉に、マードックが唸り、オルドが、楽しそうに目を細めた。
◇
ダリウスたちが会談に入っている間、クレアは、リオと共にギルドホールで待機していた。
その、落ち着いた、しかしどこか気品のある佇まいに、ハンナは、何かを感じ取っていた。彼女は、カウンターから出ると、クレアの元へと、まっすぐに歩み寄った。
「……あんた、もしかして」
ハンナの、その探るような視線に、クレアは静かに頷いた。
「ノエルの、姉です」
その、あまりにもあっさりとした肯定。ハンナは、言葉を失った。そして、堰を切ったように、ギルドでのノエルの様子――ポンコツな受付嬢としての一面と、『地図の妖精』としての、あまりにも健気な功績を、不器用ながらも、しかし、愛情を込めて語り始めた。
クレアは、ハンナの話を聞きながら、壁地図の前で足を止めた。
彼女は、そこに残されたノエルの思考の痕跡――その筆跡、戦術記号、思考の癖――から、この『地図の妖精』が、愛する妹ノエルその人であると、瞬時に、そして完全に理解した。
涙が、溢れそうになる。しかし、彼女は、それをぐっとこらえた。
「……この地図は、素晴らしいわ。でも、一つだけ足りないものがある。それは、『時間』という概念よ」
彼女は、自らの薬草学の知識を応用し、時間の経過と共に色が薄れていく特殊なインクの調合法を、近くにいた職員に教える。これにより、情報の「鮮度」が可視化される。
「それに、この地図を二つ並べれば……。左に『当面の脅威』、右に『将来の可能性』。同時に俯瞰することで、私たちは、より立体的な作戦を立てられるようになる、かもしれませんね」
その、あまりにも革新的な発想を、近くで聞いていた見習い査定員のフィンが、目を輝かせて見つめている。
「す、すげえ……!」
彼の、知的好奇心に火がついた瞬間だった。
クレアは、壁地図の隅、ノエルが使っていたであろう、少しだけ角がすり減ったチョークを、そっと手に取った。
(……そう。あなたは、昔からそうだったわね、ノエル。いつも、私の一歩先で、私には見えないものを見ていた。……でも、もう一人で背負わせはしない。今度は、私が、あなたのための『地図』を描いてあげる。あなたが、迷わずに帰ってこられるように)
彼女は、妹の成長を喜ぶとともに、参謀「クレア」としての、鋼の意志を宿した表情で、決意を新たにした。
◇
執務室では、静かに三者の腹の探り合いが続いていた。
ダリウスは、まず用件から問うことにした。
「王国軍偵察機動大隊、大隊長のダリウス・アイゼンだ。貴殿が、職能ギルド・アウロラ地方本部長オルド・ホワイト殿とお見受けする。して、ギデオン殿からの伝言にあった『急ぎの話』とは?」
白沢村で顔を合わせているマードックには、軽く目礼を送るだけだった。
オルドは、その問いに直接は答えず、にこやかに切り出した。
「おや、アイゼン大隊長。まずは、長旅の労をねぎらわせていただきたい。……それと、一つ、お願いがあるのですが。白鴉隊には、このまま西の砦を『偵察』してはいただけませんかな?」
ダリウスは、その言葉に眉をひそめた。
「軍の行動は、貴殿のようなギルドの者に指図される謂れはないと思うが。我々には、国王陛下に直接報告すべき任務がある」
その完璧な拒絶の言葉を待っていたかのように、オルドは、初めてその人の良い笑みを消した。彼は、懐から、国王の紋章が刻まれた一つの指輪を取り出し、テーブルの上に置いた。
「アイゼン大隊長。……この場での私は、オルド・ホワイトではない。国王陛下の『王紋守』がひとり、『影の紋』を預かる者と認識していただきたい」
『王紋守』。ダリウスも、その存在は噂では知っていた。
国王直属、五人の密使。それぞれが、王の権能の一部を預かり、影として動くという伝説の存在。しかし、噂だけを先行させて抑止力とし、実際には存在していないというのが情報分析の結果だったはずだ。
それが目の前にいるという衝撃の事実に、ダリウスでさえ、一瞬、言葉を失う。
「王命を宣下する。これより、偵察機動大隊は、直ちに『西の砦』を偵察せよ」
(……西の砦の領主が帝国と事を構えた上で、まとめて王国を売り渡そうとしている。そんなことは、この若造に言う必要はないか。今はただ、動いてもらうだけでいい)
オルドは、その真の目的は伏せたまま、淡々と告げる。
ダリウスは、すぐには応じなかった。情報を生業とする者として、目の前の男が本物か、そしてその王命が正当なものか、瞬時に思考を巡らせる。
「……ならば、王国騎士団長が預かるという『剣の紋』も、実在するのですかな?」
オルドは、その探りを楽しむように、笑ってかわした。
「おや、その問いは『情報の中で生きる者の躾』に反するのではないですか? もちろん私の口からは答えられませんが、実在したほうが抑止力にはなりそうですね」
その妥当な答えに、ダリウスはオルドが本物であるか判断するのを先延ばしにする。本物であれば国王への報告は「影の紋」に任せればいいし、我々が西の砦に速やかに向かえれば、それに越したことはない。何より、西の砦の偵察は、彼自身が望むところでもあった。
「……承知した。して、その作戦の指揮は、どなたが?」
その問いに、オルドは、楽しそうに答えた。
「おや、お分かりではない? 王命の下、この地域の全ての戦力は、一時的に私の指揮下に入ります。無論、あなた方『白鴉隊』も、職能ギルドも例外ではありませんよ」
その言葉に、ダリウスと、黙って話を聞いていたマードックの表情が、鋭く変わる。
「……なるほどな。つまり、あんたは、俺たちを、あんたの『駒』として使う、と。そういうことか、狐狸親父め」
「人聞きの悪いことを。私はただ、最も効率的に目的を達成するための、合理的な判断を提案しているだけですよ」
そしてオルドは、マードックに、宣下の立会人となることを求めると同時に、こう付け加えた。
「西の森の異変について、辺境の守り手として、引き続き警戒を願いたい。……これは、昔の仲間として、マードック先輩の力を頼りにしている、私個人からの『お願い』ですよ」
三者は、表面上は協力関係を結ぶ。しかし、その水面下では、新たな、そしてより危険な駆け引きが始まっていた。
◇
その日の夜。ニューログレインから遠く離れた、『西の砦』。
砦の一角にある、薄暗い傭兵の廠舎。ナルは、緊急補充された傭兵の一人として、その片隅で、黙々と短剣の手入れをしていた。
彼は、手入れの行き届いた刃に映る、自分の顔を無表情に見つめる。そして、誰に聞かせるともなく、静かに、しかし、深い諦念を込めて呟いた。
「……まだ、俺の死に場所は、決まっていないのか」
彼の脳裏には、誰かから託された密命と、自らが信じる歪んだ平和――たとえ国家が滅びようとも、民の命だけは守り抜く――という、あまりにも孤独な誓いが渦巻いている。
彼の呟きが、この砦が、次なる巨大な戦場となることを、静かに予感させていた。
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