第65話:不在のギルドと、白鼠の影
聖歴九九八年、一月二十日。
この大陸で広く使われる歴の起源は、遠い昔、現在の帝国の地に存在したという、古い聖国に遡る。
その国では、一年の始まりである一月一日は、夜空から月が完全に姿を消す「新月」と、一年で最も太陽の力が弱まり、そこから再び日が長くなっていく「再生」の日が、奇跡的に重なる日とされていた。
闇の底から月が満ち始め、光の沈黙から太陽が力を取り戻す、その荘厳な一日を、古の人々は畏敬の念を込めて『時の源泉』と呼んだという。
その再生の祭典から二十日が過ぎ、新年祭の熱狂も今は昔。辺境都市ニューログレインは、冬の日常へと戻っていた。
二日前、ギルドマスターのマードックが、アウロラから来たという一人の老戦士と会談した後、慌ただしく動き始めた。彼は「一週間ほど不在にする」と言い残し、いくつかの準備を整えると、今朝早く、ギルドを飛び出していった。
理由ははっきりとは言わなかったが、事務長のギデオンだけが、その深刻な事情を把握しているようだった。
ギルマスが不在にすること自体は珍しくない。だが、彼のあの準備の様子から、「何かよからぬことが起きている」と直感したのは、おそらくハンナだけだろう。
絶対的な主を失ったギルドホールは、どこか気の抜けた、しかし、妙な緊張感をはらんだ空気に包まれていた。若い連中は解放感に浸っているが、古参の者たちは「ハンナを一体誰が止められるんだ」と、別の意味での不安を感じているようだった。
前回のギルマスの不在時、ハンナが好き勝手に依頼を差配し、ギデオンまでもが振り回されて大混乱に陥ったことを、彼らはまだ忘れていない。
カウンターに立ちながら、ハンナは内心で悪態をついていた。
(あのクソ爺、一体どこへ行きやがったんだい。置き土産は、山のような書類と、この中途半端な静けさだけか)
ベテランの勘が、この静けさが嵐の前のものに過ぎないことを告げていた。マードックが、あれほど性急に動くからには、何か、とんでもない凶報が舞い込んだに違いないのだ。
ギルドの重い扉が、ギィ、と低い音を立てて開いた。
入ってきたのは、ひょろりとした、どこにでもいそうな風体の中年男性だった。上質な、しかし全く飾り気のない旅装。彼は、壁の依頼ボードには目もくれず、まっすぐハンナのカウンターへと歩み寄ってくる。
その、あまりにも淀みのない動きと、周囲の空気を支配するような静かなオーラに、ハンナは本能的に警戒を強めた。
「これはご丁寧に。少し、この街の地理について、個人的にお伺いしたいことがありましてね」
男は、人の良さそうな笑みを浮かべ、ごく普通の依頼人のように話しかけてくる。
「依頼なら、あっちのボードだ。地理についてなら、専門の斥候を紹介するよ」
ハンナは、いつものように面倒くさそうに、しかし、決して視線を逸らさずに応じた。
その時だった。事務所から出てきた事務長のギデオンが、その男の姿を認めた瞬間、まるで幽霊でも見たかのように、その顔からさっと血の気が引いた。彼は、慌てて二人の間に割り込んでくる。その、普段の彼からは考えられない狼狽ぶり。ハンナの疑念は、確信に変わった。
「ほ、本部長! なぜ、このような辺境に、何の連絡もなく……!」
ギデオンの声が、上ずる。
(本部長……?)
ハンナの脳裏に、一つの名前が浮かんだ。アウロラ地方本部長、オルド・ホワイト。マードックが、年に一度の会議のたびに「あの狐狸親父め」と、苦々しくも楽しそうに語っていた、ギルドの最高幹部の一人。
「これは、ギデオンではないか。息災そうで何よりだ」
本部長と呼ばれた男は、動揺するギデオンを意にも介さず、穏やかに微笑んだ。
「は、ハンナ君! この御方は、アウロラ地方本部長の、ホワイト様だぞ!」
ギデオンが、ハンナにだけ聞こえるように囁く。
「これは、失礼いたしました。本部長が、どのようなご用件で? あいにく、うちのマスターは、急用で席を外しておりまして」
ハンナは、プロの受付嬢として、表情一つ変えずに応じた。その声には、隠しきれない警戒の色が滲む。
その、張り詰めた空気に、全くそぐわない、明るい声が割って入った。
「ようこそお越しくださいました、本部長。長旅でお疲れでしょう。お茶でもいかがですか?」
リヴィアだった。彼女は、相手が誰であろうと全く動じない。完璧な「仕事モード」の笑顔でオルドに深々と頭を下げ、ハンナとギデオンの間に、まるで滑り込むようにして立つ。
その、あまりにも堂々とした接客態度に、オルドは初めて、面白そうに目を細めた。
「おや、これはご親切に。では、お言葉に甘えましょうか。ところで、そちらのお嬢さん。あなたのその爪の彩色は、実に興味深い。近頃、王都でも見かけない流行ですな」
オルドは、リヴィアの爪に施された、ノエル直伝の『指先革命』を一瞥で見抜き、その本質を探るような視線を向けた。リヴィアは、その視線に一瞬だけ怯むが、すぐに営業スマイルで返す。
「あら、お目が高い。これは、うちの後輩が考案した、最新の『おまじない』でして」
ハンナは、その会話を聞きながら、オルドという男の底知れなさに、背筋が寒くなるのを感じていた。彼は、ただそこにいるだけで、このギルドの情報を、根こそぎ吸い上げようとしている。
オルドは、三人の反応を楽しんだ後、にこやかに、しかし、有無を言わせぬ響きで告げた。
「これはこれは、大変な時に来てしまったようだ。マードック先輩がご不在の間、後輩である私が、ギルマスの代行を務めましょう。何か、問題でも?」
その言葉に、隣に立つギデオンの顔が、紙のように白くこわばるのを、ハンナは見逃さなかった。
◇
それから数日間、ギルドは、オルド・ホワイトという異質な存在を内に抱えたまま、奇妙な日常を続けた。
(……あれから、二日か)
夕方のギルドの喧騒を捌き終えたハンナは、カウンターからホールを眺めながら、内心で舌打ちをした。
オルドは、マードックが使っていたギルドマスターの執務室を、当然のように自らの宿舎としていた。昼間は、ふらりと街へ出かけては夕方に戻り、夜は、ホールで若い冒険者たちの武勇伝に、人の良さそうな笑みを浮かべて耳を傾ける。その姿は、どこからどう見ても、人の良い隠居老人にしか見えなかった。
しかし、ハンナとギデオンだけは知っていた。彼の目は、笑っていない。
ギデオンは、あの日以来、オルドと顔を合わせるたびに、まるで蛇に睨まれた蛙のように体をこわばらせていた。
手持ち無沙汰を装い、オルドが、冒険者たちが群がる壁地図へと、ゆっくりと歩み寄る。
そこに書き込まれた情報の価値と、地形、魔物の生態、天候、そして危険情報といった、複数の透明なシートによって構成される多層的な構造を一瞥で見抜くと、彼は満足げに頷いた。
「……なるほど。情報を重ね合わせることで、あらゆる状況を多角的に分析できる、というわけですか。マードック先輩も、面白いことを考える」
その呟きを聞いた若いCランク冒険者が、待ってましたとばかりに自慢げに語り始める。
「だろ、おっさん! これ、うちのギルドの自慢なんだぜ! 『地図の妖精』様のおかげで、俺たちの生還率は、他の支部の比じゃねえんだ!」
オルドは、その言葉に興味深そうに耳を傾けながら、ハンナのほうをちらりと見た。その瞳の奥が、剃刀のように鋭く光るのを、ハンナは見逃さなかった。
(……こいつ、全て分かってやがる)
ハンナは、オルドが「さて、そろそろ本格的な『お仕事』の時間ですかな」、「ギデオン君と、少し『おはなし』をしなければなりませんね」などと、楽しそうに呟く姿を目撃し、背筋が凍るのを感じた。
その日の午後、オルドが事務長のギデオンを執務室に呼び出すのを、ハンナは目撃した。
「ギデオン。あなたは、まだ、お仕事はこなせますよね?」
オルドの、その静かな問いに、ギデオンが青ざめた顔で頷くのが見えた。
ハンナは、ギデオンが出てきた後、彼にそれとなく探りを入れるが、彼はただ「……本部長の、個人的な、お使いですよ」とだけ答え、青ざめた顔で、誰にも行き先を告げずに、ギルドを去っていった。
特に変わりばえのない一日が過ぎ、その後数日も、何も知らないパーティーは依頼に精を出す。ギルドは、表面上は、いつもと変わらぬ日常を繰り返していた。
しかし、その水面下で、何かが静かに、そして確実に動き出している。その正体不明の不気味さが、ハンナの神経をすり減らしていた。
◇
そして、一月二十五日の昼過ぎ。
外套に雪を積もらせた『竜の咆哮』の五人が、半年ぶりにニューログレインのギルドへと帰還した。
彼らは、ホールの隅で優雅に茶を飲んでいるオルドの姿を認めると、即座に臨戦態勢に近い警戒心を示した。アウロラの酒場で彼から受けた「裏の躾」は、この男の情報収集能力と、盤面を支配する恐ろしさを、彼らの骨身にまで叩き込んでいたのだ。
オルドは、そんな彼らの警戒心を柳に受け流し、人の良い笑みを向けるだけだった。
「おや、早いお帰りですね。ご苦労様でした」
グレンは、オルドに無言で、しかし丁寧な一礼をすると、カウンターのハンナへと向き直った。
「ハンナさん。ギルマスから伝言だ。白沢村での任務を終え、領主一行と共に明日にもこちらへ到着する、と。……特に『俺が戻るまで、ギルドを、そしてあの壁地図を、何があっても守り抜け』だとよ」
その、あまりにも素直な報告。ハンナは、かつての、功を焦るだけの若者だった彼らからは考えられない、その落ち着いた態度に、わずかな違和感を覚えた。
ホールの端では、全てを把握しているかのように、オルドは静かに茶をすすっていた。
そして彼は、ハンナを振り返り、にこやかに告げた。
「ハンナ君。どうやら、近々、このギルドに、大変に興味深い『お客様』が、お見えになるようだ。最高のおもてなしの準備を、しておきたまえ」
その言葉が、マードックの帰還とは全く別の、巨大な何かがこの街に近づいていることを、ハンナに予感させる。
一体、ギデオンはどこへ行ったのか。この男は、何を企んでいるのか。
ハンナは、オルドの底知れない笑みを、ただ、険しい表情で見つめ返すことしかできなかった。
窓の外では、昨日から降り始めた雪が、勢いを増し、街の音を静かに吸い込んでいた。この雪は、明日まで続くだろう。
彼女は、この雪の向こう側、遥か西の森で、自分たちの仲間が、今まさに、この吹雪と戦っているであろうことを、まだ知る由もなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
明日も【朝6時更新】です!
少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価ポイントで応援していただけると、執筆の大きな励みになります。
感想や誤字報告なども、お気軽にいただけると嬉しいです。





