表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【第三部開始】『辺境の軍師』~職能ギルドの受付嬢は、戦術の知識で静かに世界を救いたい~  作者: かわたん
第三部 第一章 思惑

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

76/81

第65話:不在のギルドと、白鼠の影

 聖歴九九八年、一月二十日。


 この大陸で広く使われる歴の起源は、遠い昔、現在の帝国の地に存在したという、古い聖国に遡る。

 その国では、一年の始まりである一月一日は、夜空から月が完全に姿を消す「新月」と、一年で最も太陽の力が弱まり、そこから再び日が長くなっていく「再生」の日が、奇跡的に重なる日とされていた。

 闇の底から月が満ち始め、光の沈黙から太陽が力を取り戻す、その荘厳な一日を、古の人々は畏敬の念を込めて『時の源泉』と呼んだという。


 その再生の祭典から二十日が過ぎ、新年祭の熱狂も今は昔。辺境都市ニューログレインは、冬の日常へと戻っていた。


 二日前、ギルドマスターのマードックが、アウロラから来たという一人の老戦士と会談した後、慌ただしく動き始めた。彼は「一週間ほど不在にする」と言い残し、いくつかの準備を整えると、今朝早く、ギルドを飛び出していった。

 理由ははっきりとは言わなかったが、事務長のギデオンだけが、その深刻な事情を把握しているようだった。

 ギルマスが不在にすること自体は珍しくない。だが、彼のあの準備の様子から、「何かよからぬことが起きている」と直感したのは、おそらくハンナだけだろう。


 絶対的な主を失ったギルドホールは、どこか気の抜けた、しかし、妙な緊張感をはらんだ空気に包まれていた。若い連中は解放感に浸っているが、古参の者たちは「ハンナを一体誰が止められるんだ」と、別の意味での不安を感じているようだった。

 前回のギルマスの不在時、ハンナが好き勝手に依頼を差配し、ギデオンまでもが振り回されて大混乱に陥ったことを、彼らはまだ忘れていない。


 カウンターに立ちながら、ハンナは内心で悪態をついていた。

(あのクソ爺、一体どこへ行きやがったんだい。置き土産は、山のような書類と、この中途半端な静けさだけか)


 ベテランの勘が、この静けさが嵐の前のものに過ぎないことを告げていた。マードックが、あれほど性急に動くからには、何か、とんでもない凶報が舞い込んだに違いないのだ。


 ギルドの重い扉が、ギィ、と低い音を立てて開いた。

 入ってきたのは、ひょろりとした、どこにでもいそうな風体の中年男性だった。上質な、しかし全く飾り気のない旅装。彼は、壁の依頼ボードには目もくれず、まっすぐハンナのカウンターへと歩み寄ってくる。


 その、あまりにも淀みのない動きと、周囲の空気を支配するような静かなオーラに、ハンナは本能的に警戒を強めた。


「これはご丁寧に。少し、この街の地理について、個人的にお伺いしたいことがありましてね」

 男は、人の良さそうな笑みを浮かべ、ごく普通の依頼人のように話しかけてくる。


「依頼なら、あっちのボードだ。地理についてなら、専門の斥候を紹介するよ」

 ハンナは、いつものように面倒くさそうに、しかし、決して視線を逸らさずに応じた。


 その時だった。事務所から出てきた事務長のギデオンが、その男の姿を認めた瞬間、まるで幽霊でも見たかのように、その顔からさっと血の気が引いた。彼は、慌てて二人の間に割り込んでくる。その、普段の彼からは考えられない狼狽ぶり。ハンナの疑念は、確信に変わった。


「ほ、本部長! なぜ、このような辺境に、何の連絡もなく……!」

 ギデオンの声が、上ずる。


(本部長……?)

 ハンナの脳裏に、一つの名前が浮かんだ。アウロラ地方本部長、オルド・ホワイト。マードックが、年に一度の会議のたびに「あの狐狸親父め」と、苦々しくも楽しそうに語っていた、ギルドの最高幹部の一人。


「これは、ギデオンではないか。息災そうで何よりだ」

 本部長と呼ばれた男は、動揺するギデオンを意にも介さず、穏やかに微笑んだ。


「は、ハンナ君! この御方は、アウロラ地方本部長の、ホワイト様だぞ!」

 ギデオンが、ハンナにだけ聞こえるように囁く。


「これは、失礼いたしました。本部長が、どのようなご用件で? あいにく、うちのマスターは、急用で席を外しておりまして」

 ハンナは、プロの受付嬢として、表情一つ変えずに応じた。その声には、隠しきれない警戒の色が滲む。


 その、張り詰めた空気に、全くそぐわない、明るい声が割って入った。


「ようこそお越しくださいました、本部長。長旅でお疲れでしょう。お茶でもいかがですか?」

 リヴィアだった。彼女は、相手が誰であろうと全く動じない。完璧な「仕事モード」の笑顔でオルドに深々と頭を下げ、ハンナとギデオンの間に、まるで滑り込むようにして立つ。


 その、あまりにも堂々とした接客態度に、オルドは初めて、面白そうに目を細めた。

「おや、これはご親切に。では、お言葉に甘えましょうか。ところで、そちらのお嬢さん。あなたのその爪の彩色は、実に興味深い。近頃、王都でも見かけない流行ですな」


 オルドは、リヴィアの爪に施された、ノエル直伝の『指先革命』を一瞥で見抜き、その本質を探るような視線を向けた。リヴィアは、その視線に一瞬だけ怯むが、すぐに営業スマイルで返す。

「あら、お目が高い。これは、うちの後輩が考案した、最新の『おまじない』でして」


 ハンナは、その会話を聞きながら、オルドという男の底知れなさに、背筋が寒くなるのを感じていた。彼は、ただそこにいるだけで、このギルドの情報を、根こそぎ吸い上げようとしている。


 オルドは、三人の反応を楽しんだ後、にこやかに、しかし、有無を言わせぬ響きで告げた。


「これはこれは、大変な時に来てしまったようだ。マードック先輩がご不在の間、後輩である私が、ギルマスの代行を務めましょう。何か、問題でも?」


 その言葉に、隣に立つギデオンの顔が、紙のように白くこわばるのを、ハンナは見逃さなかった。


 ◇


 それから数日間、ギルドは、オルド・ホワイトという異質な存在を内に抱えたまま、奇妙な日常を続けた。


(……あれから、二日か)

 夕方のギルドの喧騒を捌き終えたハンナは、カウンターからホールを眺めながら、内心で舌打ちをした。


 オルドは、マードックが使っていたギルドマスターの執務室を、当然のように自らの宿舎としていた。昼間は、ふらりと街へ出かけては夕方に戻り、夜は、ホールで若い冒険者たちの武勇伝に、人の良さそうな笑みを浮かべて耳を傾ける。その姿は、どこからどう見ても、人の良い隠居老人にしか見えなかった。


 しかし、ハンナとギデオンだけは知っていた。彼の目は、笑っていない。


 ギデオンは、あの日以来、オルドと顔を合わせるたびに、まるで蛇に睨まれた蛙のように体をこわばらせていた。


 手持ち無沙汰を装い、オルドが、冒険者たちが群がる壁地図へと、ゆっくりと歩み寄る。

 そこに書き込まれた情報の価値と、地形、魔物の生態、天候、そして危険情報といった、複数の透明なシートによって構成される多層的な構造を一瞥で見抜くと、彼は満足げに頷いた。

「……なるほど。情報を重ね合わせることで、あらゆる状況を多角的に分析できる、というわけですか。マードック先輩も、面白いことを考える」


 その呟きを聞いた若いCランク冒険者が、待ってましたとばかりに自慢げに語り始める。

「だろ、おっさん! これ、うちのギルドの自慢なんだぜ! 『地図の妖精』様のおかげで、俺たちの生還率は、他の支部の比じゃねえんだ!」


 オルドは、その言葉に興味深そうに耳を傾けながら、ハンナのほうをちらりと見た。その瞳の奥が、剃刀のように鋭く光るのを、ハンナは見逃さなかった。

(……こいつ、全て分かってやがる)


 ハンナは、オルドが「さて、そろそろ本格的な『お仕事』の時間ですかな」、「ギデオン君と、少し『おはなし』をしなければなりませんね」などと、楽しそうに呟く姿を目撃し、背筋が凍るのを感じた。


 その日の午後、オルドが事務長のギデオンを執務室に呼び出すのを、ハンナは目撃した。

「ギデオン。あなたは、まだ、お仕事はこなせますよね?」

 オルドの、その静かな問いに、ギデオンが青ざめた顔で頷くのが見えた。


 ハンナは、ギデオンが出てきた後、彼にそれとなく探りを入れるが、彼はただ「……本部長の、個人的な、お使いですよ」とだけ答え、青ざめた顔で、誰にも行き先を告げずに、ギルドを去っていった。


 特に変わりばえのない一日が過ぎ、その後数日も、何も知らないパーティーは依頼に精を出す。ギルドは、表面上は、いつもと変わらぬ日常を繰り返していた。

 しかし、その水面下で、何かが静かに、そして確実に動き出している。その正体不明の不気味さが、ハンナの神経をすり減らしていた。


 ◇


 そして、一月二十五日の昼過ぎ。

 外套に雪を積もらせた『竜の咆哮』の五人が、半年ぶりにニューログレインのギルドへと帰還した。


 彼らは、ホールの隅で優雅に茶を飲んでいるオルドの姿を認めると、即座に臨戦態勢に近い警戒心を示した。アウロラの酒場で彼から受けた「裏の躾」は、この男の情報収集能力と、盤面を支配する恐ろしさを、彼らの骨身にまで叩き込んでいたのだ。


 オルドは、そんな彼らの警戒心を柳に受け流し、人の良い笑みを向けるだけだった。

「おや、早いお帰りですね。ご苦労様でした」

 グレンは、オルドに無言で、しかし丁寧な一礼をすると、カウンターのハンナへと向き直った。


「ハンナさん。ギルマスから伝言だ。白沢村での任務を終え、領主一行と共に明日にもこちらへ到着する、と。……特に『俺が戻るまで、ギルドを、そしてあの壁地図を、何があっても守り抜け』だとよ」

 その、あまりにも素直な報告。ハンナは、かつての、功を焦るだけの若者だった彼らからは考えられない、その落ち着いた態度に、わずかな違和感を覚えた。


 ホールの端では、全てを把握しているかのように、オルドは静かに茶をすすっていた。

 そして彼は、ハンナを振り返り、にこやかに告げた。

「ハンナ君。どうやら、近々、このギルドに、大変に興味深い『お客様』が、お見えになるようだ。最高のおもてなしの準備を、しておきたまえ」


 その言葉が、マードックの帰還とは全く別の、巨大な何かがこの街に近づいていることを、ハンナに予感させる。

 一体、ギデオンはどこへ行ったのか。この男は、何を企んでいるのか。


 ハンナは、オルドの底知れない笑みを、ただ、険しい表情で見つめ返すことしかできなかった。


 窓の外では、昨日から降り始めた雪が、勢いを増し、街の音を静かに吸い込んでいた。この雪は、明日まで続くだろう。

 彼女は、この雪の向こう側、遥か西の森で、自分たちの仲間が、今まさに、この吹雪と戦っているであろうことを、まだ知る由もなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


明日も【朝6時更新】です!

少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価ポイントで応援していただけると、執筆の大きな励みになります。

感想や誤字報告なども、お気軽にいただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
script?guid=on 小説家になろうSNSシェアツール
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ