第64話:闇の入り口と、鉄の道
その猛吹雪は、まるで世界の終わりを告げるかのようだった。
パーティーの斥候として先行していたカイは、風を避けられる岩陰で、忌々しげに空を睨んでいた。
主力が冬の装備を整える間に、まずノエルの足取りを確保する。それが、彼に与えられた役割だった。しかし、視界は舞い狂う雪によって完全に白く閉ざされ、数歩先の木々すらその輪郭を失っている。これ以上の単独追跡は、自殺行為に等しい。
「……ちっ」
彼は、あらかじめ定められていた合流地点で、仲間たちの到着を待つしかなかった。
舌打ちと共に吐き出された白い息が、瞬時に吹雪に掻き消される。彼の脳裏には、追跡してきた道中で見た、あの小さな軍師の痕跡が焼き付いていた。
食料も、まともな冬装備も持たずに、ただ一点、北を目指す二つの足跡。その無謀さと、時折見せる、老練な狩人のような追跡回避技術との、あまりにも歪なアンバランスさ。
(あのひよっこ、一体何を考えてやがる……)
焦りと、そして、自分でも気づかぬほどの深い懸念が、カイの心を苛んでいた。
やがて、吹雪の壁の向こうから、三つの人影が、まるで幻のようにゆっくりと姿を現した。完全な冬山装備に身を固めた、バルガス、エルラ、そしてレオンだった。
「よう、無事だったか」
「ちっ、遅えんだよ」
軽口を叩き合いながらも、互いの無事を確かめ合う。その目には、長年、生死を共にしてきた者たちだけが持つ、揺るぎない信頼の色が宿っていた。
「話は後だ。まずは、この吹雪をやり過ごすぞ」
バルガスの号令一下、一行の動きは淀みなかった。
エルラの指示で、風下にできた巨大な雪庇の下に手早く雪洞を掘り、中で火を熾す。その手際の良さが、彼らが幾多の修羅場を越えてきた、本物の冒険者であることを物語っていた。
雪洞の中で、揺らめく炎を囲みながら、カイが追跡してきた道中の状況を報告する。ノエルが食料も装備も持たずに飛び出したこと、アストルと奇妙な二人旅を続けていたこと。そして、追跡を断念せざるを得なかった、最後の足跡があった地点について。
「……なるほどな。ひよっこは、あの魔道士を一人で行かせるわけにはいかんと、そう考えたわけか」
バルガスは、腕を組んで唸った。その声には、怒りよりも、呆れと、そしてどこか誇らしげな響きが混じっていた。
◇
夜が明け、嘘のように晴れ渡った空の下、世界は、分厚い雪に覆われた、静寂の銀世界へと姿を変えていた。
一行は、カイが最後に痕跡を確認した場所へと向かう。やがて、雪に半ば埋もれた、岩棚の下の穴倉を発見した。
「ここだな」
カイの短い言葉に、全員が頷く。
穴倉の中には、ノエルたちが夜を明かしたであろう、比較的新しい焚き火の消し炭と、食べ終えた木の実の殻が残されていた。
そして、壁際には、ノエルが情報整理のために木の皮に刻んだであろう、地形の起伏や風向きまで記された、精密な状況図の断片が、そっと置かれている。
「あの子らしいわね。こんな時まで、仕事のことなんて」
エルラが、その几帳面な仕事ぶりに、呆れたように、しかし優しく微笑んだ。
「ああ。少なくとも、昨日までの吹雪は、ここで無事にやり過ごせたようだ」
レオンが安堵の息をつき、一行の間に、つかの間の安心感が広がる。
しかし、バルガスだけは、その場の空気とは違う、別のものに気づいた。彼は、穴倉の壁面を削る、魔物のものらしき、微かな傷痕に、眉をひそめていた。
「……おい、こいつはヤベェかもしれねえ」
バルガスの、その低い声が、安堵しかけていた場の空気を、再び鋭い緊張で満たしていった。
彼は、かつて帝国での依頼で一度だけ足を踏み入れたことがある『ダンジョン』の記憶を呼び覚ます。
そこに生息していた魔物だけが持つ、特有の気配。それと、この穴倉に漂う空気が、あまりにも酷似していた。
バルガスの警告と、一行の頭上の暗がりから、何かが壁を擦る、乾いた音が響いたのは、ほぼ同時だった。
松明の光が届かぬ闇の奥から、まず現れたのは、大型のネズミのような、しかし鱗に覆われた醜悪な顔だった。続いて、その顔の下から、不釣り合いなほど細長い腕と、がっしりとした太い脚が姿を現す。その四肢の先には、岩肌を容易く抉るであろう、黒曜石のように鋭い爪が光っていた。
「散開しろ! 一匹だけだと思うな!」
バルガスの咆哮と共に、鉄の街道は即座に円陣を組む。魔物は、その長い四肢で、洞窟のでこぼこした壁や天井を、重力を無視したかのような速度で駆け回り、一行を攪乱する。
キィ、と甲高い鳴き声がしたかと思うと、天井から、バルガス目掛けて一直線に落下してきた。
ガキン! と甲高い金属音。バルガスの巨大な戦斧が、魔物の奇襲を紙一重で弾き返す。火花が散り、魔物の爪が岩壁に深々と突き刺さった。
その隙を、カイが見逃すはずがない。彼は音もなく側面へと回り込み、陽動の短剣を投擲する。魔物の注意が逸れた一瞬、レオンの長槍が、そのがら空きになった腹部を薙ぎ払い、体勢を崩させた。
「今よ!」
エルラの放った一矢が、腕の付け根の、わずかな装甲の隙間を寸分の狂いもなく射抜いた。
甲高い悲鳴を上げ、動きが鈍った魔物。その首筋に、カイの短剣が深々と突き刺さろうとした、まさにその瞬間だった。
「――カイ、上だ!」
エルラの切迫した声。カイが咄嗟に身を翻すと、彼の頭があった場所を、別の魔物の鋭い爪が、風を切り裂いて通り過ぎていった。さらに、レオンの背後からも、三匹目の気配。
「ちっ、三匹もいやがったか!」
バルガスが吐き捨てる。一対多の状況、しかも敵の主戦場である暗闇の中。状況は、圧倒的に不利だった。
しかし、この歴戦のパーティーは、絶望的な状況でこそ、その真価を発揮する。
「レオン、俺と背中合わせに! エルラ、目くらましだ! カイ、攪乱に徹しろ!」
バルガスの的確な指示が飛ぶ。彼は、二匹の魔物の猛攻を、その巨大な戦斧と屈強な肉体だけで、正面から受け止めてみせた。レオンの槍が、その防御の隙間を縫って、的確に敵を牽制する。
カイは、闇に溶け込むように姿を消し、石を投げては音を立て、魔物たちの注意を分散させ続けた。
すぐにエルラが、腰のポーチから特殊な薬草を厚く巻き付けた矢を取り出し、つがえた。彼女が矢に僅かな魔力を込めると、鏃が燐光を発し始める。
放たれた矢は、穴倉の天井に突き刺さると、溜め込まれた光を一気に解放するように、眩い閃光を放った。それは、マグネシウムを燃やしたかのように強烈な光で、一瞬だけ、穴倉の全てを白日の下に晒した。
闇に目が慣れていた魔物たちが、その光に怯み、動きを止める。
その、ほんのコンマ数秒の好機。
バルガスの戦斧が一体の頭部を粉砕し、レオンの槍が二匹目の心臓を貫き、そして、最後の魔物の背後に音もなく現れていたカイの短剣が、その首を深々と切り裂いていた。
◇
息を切らし、自らの傷を手当てしながら、一行は、絶命した魔物を見下ろしていた。
「……間違いない。こいつは、ダンジョンにしかいねえはずの魔物だ。……闇爪、と、帝国じゃ呼ばれてたな」
バルガスが、苦々しく吐き捨てた。
彼の脳裏には、若い頃、帝国の依頼で足を踏み入れた、あの薄暗く、常に死の気配が満ちる迷宮の記憶が蘇っていた。
「ダンジョン……」
レオンが戦慄の声を上げる。
「ギルドの文書でしか見たことがありません。なんでも、内部は独自の生態系を持ち、魔物を無限に生み出すとか……。ですが、なぜこんな場所に。王国西部には存在が確認されておらず、そのほとんどは帝国領にあると……」
「つまり、だ」
カイが、魔物が出てきたであろう、穴倉の奥の暗闇を指さした。
「ここが、ダンジョンの入り口になっている。そして、あのひよっこは、アストルと一緒に、この中に入っちまった。……そういうことだろ」
一行は、松明を手に、慎重に穴倉の奥へと進んだ。
そこには、岩が不自然に積み重なった場所があり、その隙間から、この世のものとは思えないほどの邪気と、悠久の時を感じさせる古い匂いが、冷たい風となって吹き付けてくる。
そして、その入り口付近の地面には、二人の人間が、つい最近ここを通ったことを示す、真新しい足跡が残されていた。
その、あまりにも絶望的な事実に、一行は言葉を失った。
レオンが、冷静に、しかし厳しい声で言った。
「……バルガス。これは、俺たちだけでどうにかできる問題じゃない。ギルドの規律に従うなら、即座に撤退し、ギルマスに報告するのが筋だ。ダンジョンの出現は、この地域全体の脅威になりかねん」
エルラも、苦渋の表情で頷く。
「ええ。ノエルちゃんのことは心配だけど、ダンジョンに無策で挑むなんて、自殺行為よ。それに、このまま入り口を開けておけば、中の魔物が外に出てくる危険性もあるわ」
ギルドの規律か、仲間への誓いか。その究極の選択を前に、バルガスは、三人の仲間たちの顔を一人一人見渡し、そして、暗いダンジョンの深淵を睨みつけた。
彼の脳裏には、ノエルの、あの少し困ったような笑顔が浮かんでいた。
彼は、一度、静かに息を吐くと、驚くほど冷静な声で、仲間たちに告げた。
「……ああ、分かってる。しかし緊急事態だ。まずは、ひよっこの救出。そして、ここからの魔物の流出を防ぐ。使っていないBランク特権の発動だ、事後報告でいいだろ……」
彼は、仲間たちを見渡し、にやりと、獣のような笑みを浮かべた。
「俺たち『鉄の街道』が、ダンジョンごときに後れを取るとでも思ってんのか? ひよっこを連れ戻し、ギルドに報告し、ついでにこの穴を塞いで帰る。全部やるんだよ。……行くぞ、野郎ども!」
「へっ」
「やれやれ、最初からそのつもりだったくせに」
「……承知しました。ですが、慎重に」
カイが鼻で笑い、エルラが肩をすくめ、レオンが深いため息をついた。
一行は、穴倉の入り口を、動かせる限りの巨岩で可能な限り塞いだ。そして、カイが、後から来るであろうギルドの追跡隊に向けて、簡潔なメッセージを岩肌に刻み込む。
彼らの答えは、最初から決まっていた。
その揺るぎない覚悟と、仲間への深い信頼。それこそが、彼らが『鉄の街道』と呼ばれる所以だった。
一行は、未知の闇が口を開けるダンジョンの入り口へと、静かに、しかし確かな足取りで、向き直った。
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