第62話:消えゆく轍と、二人の覚悟
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【第一章開始】です!
カイの吐く息が、冬枯れの森の冷気の中で、真っ白な霧となって虚空に溶けた。
霜が降りた枯れ葉を踏む音だけが、やけに高く響く。葉を完全に落とした木々の枝は、まるで空を掴もうとする骸骨の指のように、重く垂れ込めた鉛色の空へと伸びていた。
空気は澄み切り、遠くの尾根の輪郭まではっきりと見えるが、そこには生命の気配がまるでない。鳥の声も、獣の気配も、全てが冬の到来を前にした深い静寂の中へと沈黙していた。
斥候としての長年の経験が、この森の空気が孕む、ただならぬ気配を肌で感じ取っていた。それは、魔物の殺気とは違う。もっと根源的で、抗いがたい、自然そのものが持つ意思のようなものだった。
数日前、白沢村で繰り広げられた帝国軍との激戦は、まだ記憶に新しい。
あの戦いで、ギルドの新人受付嬢であるはずのノエルが、神がかり的な戦術で白鴉隊を勝利に導いた。その事実は、カイにとって、自らの常識を根底から覆されるに足る、衝撃的な出来事だった。
(――ったく、とんだ『ひよっこ』を掴まされたもんだ。ただの受付嬢が、百戦錬磨の軍隊を盤上で手玉に取るなんざ、笑えねえ冗談だ)
戦いの翌朝、その小さな軍師は、置き手紙一つを残して姿を消した。『西の砦へ向かいます』とだけ書かれた、あまりにも無防備な宣戦布告。
パーティーのリーダーであるバルガスが「あの馬鹿を連れ戻すぞ!」と激怒する中、斥候であるカイは、誰よりも早く、そして冷静に動いた。
「俺が先に行く。あんたたちは冬の装備を整えてから追ってこい」
それが、この状況における唯一の最適解だった。
彼は、地面に残された微かな痕跡を追っていた。
村を出てすぐの足跡は、ひどく乱れていた。ぬかるみを避けきれず、小枝を無駄に踏み折っている。一つは、大股で、最短距離を突き進もうとする、強い意志を感じさせる足跡。もう一つは、その跡を、必死に、しかし少し遅れて追いかけている、小さな足跡。明らかに、先行する誰かを、ただがむしゃらに追いかけている者の痕跡だ。
しかし、半刻ほど進んだあたりから、その痕跡は変化していく。
二つの足跡が、つかず離れず、並行して続いている。時折、立ち止まり、向き合ったかのような跡。片方の足跡は深く、苛立ちを示すように土を抉り、もう一方は浅く、しかし決して引かない意志を示すように、同じ場所を何度も踏みしめている。
(……追いついて、何かを言い争っているのか? あの魔道士を、ひよっこが説得しているとでも……?)
カイは、その光景を想像し、訝しんだ。そして、さらに進むと、痕跡は再びその質を変える。
獣道を巧みに利用し、硬い岩盤の上を選んで歩くなど、追跡を困難にするための、明らかに専門的な技術が使われ始めていた。
(へっ、あの軍師殿、くだらねえ小細工を……)
カイは、その技術レベルの高さを認めつつも、皮肉な笑みを浮かべた。
しかし、その専門的な追跡回避技術とは裏腹に、道端には、いかにも素人らしい痕跡が残されていた。かじられた木の実の残骸、毒抜きが不完全な野草を試したであろう痕跡。
カイは、それらの痕跡から、一つの結論を予想した。
ノエルは、高度なサバイバル知識は持っている。だが、食料や装備といった、生きるために不可欠な『物資』を、一切持たずに飛び出したのだ。
知識だけでは、冬の森は越えられない。
「……馬鹿野郎が。戦場と森は違うんだよ」
カイは、誰に聞かせるともなく、そう吐き捨てた。その声には、弟子の失態を憂う師匠のような、複雑な苛立ちが滲んでいた。
◇
アストルは、夜明けと共に、誰にも告げずに白沢村を出立した。
自らの罪を償うため、そして、これ以上の悲劇を生まないため。西の砦で帝国軍の計画を阻止する。その、鋼のような決意だけが、彼の心を支配していた。
しかし、村のはずれの森の入り口で、彼の計画は、早くも最初の障害にぶつかった。
「どこへ行くのですか?」
息を切らし、肩で呼吸を繰り返しながら、ノエルが一人、その行く手を塞ぐように立っていた。その声は、か細かったが、瞳は、決して退くことのない強い光を宿していた。
アストルは、彼女の追跡を予測していたかのように、冷たく告げた。
「お前には関係ない。村へ帰れ」
「いいえ」
ノエルは、静かに首を横に振った。
「あなたのその力が、西の砦で何を引き起こすか、私には見届ける責任があります」
彼女は、仲間たちが眠る宿舎の机に、一枚の置き手紙を残してきていた。
アストルは、問答の無意味さを悟ると、踵を返し、森の中を疾走した。十九歳の青年の体力と、十五歳の少女。本来なら、勝負にすらならないはずだった。
ノエルの驚異的な持久力も、木の根が複雑に絡み合う急斜面の前では、徐々にその勢いを失っていく。アストルは、彼女の姿が木々の間に完全に消えたのを確かめ、しばらく走り続けた後、ようやく足を止めた。
(これで、諦めるだろう)
安堵と、そして、あの真っ直ぐな瞳を振り切ってしまったことへの、ほんのわずかな罪悪感が、彼の胸をよぎる。
しかし、彼が再び歩き出そうとした時、後方の木々の間を、一つの銀色の影が、ゆっくりと、しかし、彼が通った跡を寸分の狂いもなく辿ってくるのが見えた。ルミアだった。
彼は舌打ちと共に、再び走り出す。だが、しばらく進んで振り返ると、やはり同じ距離を保って、銀色の馬がついてくる。そして、その隣には、いつの間にか追いついたノエルが、息を切らしながらも、必死の形相で歩いていた。
半日後、アストルはついに諦め、足を止めた。
その夜、二人は小さな焚き火を挟んで、最初の野営をした。
会話はない。ただ、ぱちぱちと爆ぜる炎の音と、冬の森の、凍てつくような静寂だけが、そこにあった。
互いの存在を無視するかのように、張り詰めた空気。二人とも、一睡もしないまま、夜を明かした。
そして翌朝、二人は無言で歩き始める。
冬の森は、容赦がなかった。夜の間に降りた霜が、地面を滑りやすくし、ぬかるんだ斜面は容赦なく体力を奪う。骨身に沁みる風が、体温を無慈悲に削り取っていく。
昼が近づく頃、アストルは、すぐ後ろを歩いていたはずのノエルの足音が、不自然に途絶えていることに気づいた。
振り返ると、彼女は、一本の樫の木に寄りかかるようにして、小さく蹲っていた。その顔色は、冬の空のように青白く、唇は紫色を帯びている。浅く、速い呼吸を繰り返すその姿は、彼女の生命の灯火が、今にも消えかけていることを示していた。
彼女は、何も食べていないのだ。
そのあまりにも単純で、致命的な事実に、アストルは愕然とした。
彼は、自らの贖罪の旅に集中するあまり、この小さな同行者の命が、今まさに尽きようとしていることに、全く気づけなかったのだ。守るべきものを守れず、そして今また、目の前の小さな命一つにすら、思いを致すことができなかった。強烈な自己嫌悪が、彼の胸を焼いた。
アストルは、懐から、なけなしの携行食料を取り出した。白鴉隊の拠点を出る際に、最低限の補給として受け取っただけの、数日分の干し肉と硬いパン。西の砦での行動を考えれば、その一切れすら惜しいはずだった。
彼は、干し肉の一枚を串に刺し、手のひらに灯した小さな魔力の炎で軽く炙る。ぱちぱちと爆ぜる炎が、硬くなった肉から、香ばしい脂の匂いを引き出した。 それと同時に、水袋の水を革袋で少し温め、携帯用の塩と、滋養のある乾燥させた薬草をひとつまみだけ入れた、薄味のスープを作った。
そして、温められたそれらを、無言でノエルへと差し出した。
ノエルは、驚いたように顔を上げ、震える手でそれを受け取る。その、温かく、僅かな食料。それを、まるで何よりの宝物であるかのように、両手で大事そうに包み込み、小さな口で、少しずつ、何度も咀嚼しながら味わう少女の姿。その対比が、アストルの胸を強く打った。
彼女は、これほどの覚悟で、本当に「何も持たずに」自分を追ってきたのだ。その、常軌を逸した意思の重さを、彼は初めて、痛いほど理解した。
この少女一人の存在が、自らの計画の前提を、大きく、そして静かに狂わせ始めていた。
◇
森の空気は、昼を過ぎたあたりから、急速にその表情を変え始めた。
それまで、冬枯れの木々の間から、かろうじて差し込んでいた力ない陽光は、いつの間にか、厚く垂れ込めた鉛色の雲に完全に覆い隠されていた。
風の匂いが変わる。乾いた土の匂いから、湿り気を帯びた、鉄のような冷たい匂いへと。
アストルは、空から舞い落ちる最初の雪を見て足を止めた。
そのひとひらは、彼の黒いローブの上に、儚い白い点として落ち、そしてすぐに消えた。しかし、それは、この森が間もなく牙を剥くことを告げる、紛れもない前兆だった。
白沢村からは、既に丸一日以上、走り続けてきた。常人ならば二日以上かかる距離だ。今から引き返しても、吹雪になれば村へたどり着ける保証などどこにもない。
「ここまでだ」
アストルは、ノエルに向き直り、非情なまでの現実を突きつけた。
「このままでは二人とも死ぬ。一度、森を出る。お前は、この馬に乗って村へ帰れ」
彼が指さしたルミアは、その言葉の意味を理解したかのように、ただ静かにノエルを見つめている。彼女に乗れば、たとえ吹雪の中でも、必ず村へたどり着けるだろう。
しかし、その提案が終わるか終わらないかのうちに、ルミアが動いた。彼女は、まるで主の覚悟を試すかのように、一度だけ、その深い瞳でじっとノエルを見つめた。次の瞬間、ルミアはくるりと身を翻し、一陣の風となって、強まる雪煙の中へとその姿を消していった。
ノエルは、その銀色の残像が見えなくなるまで、ただ静かに見送っていた。そして、誰に聞かせるともなく、小さな声で、そっと呟いた。
「……ありがとう、ルミア。あなたは、先に村へ戻って」
「……何故だ」
アストルの声が、震えた。
「なぜ、止めない。なぜ、そこまでして……」
「離れません」
ノエルの声は、寒さと疲労で震えていた。しかし、その瞳から、鋼のような意志の光が消えることはなかった。
「私には、あなたを見届ける責任があります。あなたのその力が、また誰かを傷つけるのを見過ごすことはできません!」
「責任だと?」
アストルの声に、苛立ちが滲む。
「小娘一人が、何を背負えるという。お前一人の自己満足のために、俺の計画を、そしてお前自身の命を危険に晒すのか!」
二人の意見が、凍てつく空気の中で激しく衝突する。
その間に、雪は勢いを増し、地面はあっという間に、薄っすらと白く覆われていった。
その、張り詰めた空気を破ったのは、森の奥深くから響いてきた、ルミアの、高く、そしてどこか切迫したような嘶きだった。
「……ルミア!」
ノエルは、驚きに目を見開いて声のした方角を向いた。
(違う、あれは危険を知らせる声じゃない。でも、何かを、必死に伝えようとしている……!)
しかし、彼女がその意図を正確に読み解くよりも早く、隣に立つアストルの全身から、殺気にも似た緊張が迸った。
彼の顔からは、血の気が引いていた。今の嘶きは、彼の耳には、明らかに何かに襲われた者の、助けを求める悲痛な叫びに聞こえたのだ。
自らの判断ミスが、あの誇り高き馬を危険に晒したのかもしれない。そして、次に狙われるのは、この無力な少女だ。
(俺のせいだ……!)
「お前はここにいろ!」
アストルは、それだけを叫ぶと、声のした方へと、雪を蹴立てて一人で走り出した。自分の蒔いた種だ。これ以上、誰も傷つけさせるわけにはいかない。
ノエルは、一瞬だけ躊躇した。しかし、すぐにアストルの後を追う。あの嘶きが助けを求める声ではないと、彼女は確信していたからだ。
しばらく進むと、森の中に、不自然に崩れた岩棚が現れた。ルミアが、その前でこちらを向いて静かに立っている。その後ろには、岩に囲まれた、小さな洞窟の入り口が、暗い口を開けていた。
息を切らせて駆けつけたアストルは、その光景に呆然と立ち尽くす。彼は、まず警戒を解かずに洞窟の入り口を慎重に調べ、魔物の気配がないことを確認した。そして、ようやく、ルミアがこの吹雪をしのぐための場所を、自分たちのために見つけてくれたのだという意図を理解した。
彼は、後から追いついたノエルの方を振り返った。その表情には、安堵と、そして、この不可解な状況への深い困惑が浮かんでいた。
雪は、もはや吹雪と呼ぶにふさわしい勢いで、視界を白く染め上げていく。
アストルは、舌打ちと共に、天を仰いだ。
「……入れ。夜が明けたら、必ず帰ってもらう」
彼は、それだけを吐き捨てると、先に洞窟の中へと入っていった。それは、彼女の同行を、不本意ながらも、一晩だけ認めるという、彼なりの最大の譲歩だった。
ノエルもまた、唇をきつく結び、その後に続いた。
彼女たちの背後で、降りしきる雪は、その勢いをさらに増していた。
白いカーテンが、天と地の間を完全に覆い尽くし、音という音を全て吸い込んでいく。
二人が洞窟へとたどり着くために刻んだ、最後の轍。それは、降り積もる雪の下に、まずその輪郭を失い、やがて、ただのなだらかな雪の起伏へと姿を変え、そして、完全に消え去った。
風が唸りを上げ、重い雪を積もらせた木の枝が、どさりと音を立てて雪を落とす。その衝撃で、彼らの痕跡の最後の名残も、完全に掻き消される。
もはや、そこに二人の人間がいたことを示すものは、何も残っていなかった。
それは、まるで、誰にも知られることなく、二人の消息が、自然という名の、巨大な意思によって、この世界の地図から、意図的に抹消されていく儀式のようだった。
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