第61話:風の囁きと、予感
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【第三部開始】です!
雪が降る前、世界には無数の道があった
ひとひらが地に舞い落ち、ひとつの轍を白く染める
溶ければ消える、その一瞬のしるしを
我らは、ただ、見る
どの未来が選ばれたのか
どの過去が消されてゆくのか
答えはまだ、空の上
ただ、静かに降り積もる、沈黙の重さだけがそこにある
◇
その深い森は、冬の訪れを前にした、張り詰めた静寂に包まれていた。
空は、重く垂れ込めた鉛色の雲に覆われ、陽の光は、まるで厚い毛布に遮られたかのように、地上には届かない。
乾いた風が、葉を完全に落とした木々の枝の間を吹き抜けるたび、まるで、忘れられた笛を無理やり鳴らすかのような、骨に沁みるほどか細く、寂しい音を響かせていく。
その風の戯れが、かろうじて、この森に時間の流れがあることを思い出させる。
その森の呼吸に重なる和音。
まるで、幻聴であるかのように、一つの、囁き声が聞こえた気がした。
若い女の声。それは、眠りから覚めたばかりのような、少し気だるげで、ふんわりとした響きを持っていた。
「……んー……。あら、もうそんな季節なのね。少し、空気がひんやりとしてきました」
独り言のようでもあり、すぐ隣にいる誰かに話しかけているようでもあった。
風が、その言葉に答えるかのように、一度だけ、梢を優しく揺らす。
「それにしても、よく眠りました。……あらあら? 見てください。少し景色が変わってしまったみたいですね。あそこに立っていた、一番背の高い木は、どこへ行ってしまったのかしら」
その無邪気な声は、まるで、少しうたた寝をしてしまった子供のようだった。
ふわりと風が舞い、木の根元に隠されていた木の実が、ころりと顔を出す。
「まあ、可愛い。動物たちも、冬支度に忙しいのですね」
声は、地面を駆け抜けるリスの親子に、楽しげに注がれている。しかし次の瞬間、その声の響きは、ほんの少しだけ寂しそうな色を帯びた。
「でも、少し、静かになりすぎた気もします。昔は、もっと、魔物たちの賑やかな子がたくさんいたのに……」
しばらく、その声だけが森の静寂に溶けていたが、やて、その独り言を遮るように、別の声が、重々しく響いた。
「……お前の声が、うるさくて目が覚めたのじゃ」
若々しい、張りのある響き。しかし、その語尾は、まるで何百年もを生きた賢者のように、古風で、老成していた。
その奇妙な不釣り合いさが、聞く者の耳に、言い知れぬ違和感を残す。
「あら、ごめんなさい。でも、あなたも、そろそろ起きる頃合いかと思いません? ほら、風が…… いつもとは違う匂いを運んできているの」
「……ふむ。久しぶりの、大きな揺らぎが近いようじゃな。……面倒なことよのう」
男の声には、世界の変動すらも、ただ縁側から眺める退屈な出来事としか捉えていないかのような、絶対的な隔絶感が含まれていた。
「ふふ、そうおっしゃらないで? きっと、楽しいことが始まりそうよ。……ねえ、聞いてくれる? この辺りの、少し大きな子たちが、なんだか少なくなっているようなの」
まるで、庭で見つけた珍しい虫のことを、父親に報告する子供のような、純粋な好奇心に満ちた声だった。
「……ふむ。確かに、魔物が異様に少ないのう」
「ああ、そういえば!」
彼女は、そこで、ふと何かを思い出したように、言葉を続けた。
「昔、この辺りを住処にしていた子たちは、どうしているのかしら」
「……魔族のことか。彼らも、もう随分と数を減らしたと聞く。時の流れは、我らが思うよりも、ずっとせっかちらしいからのう」
「まあ、寂しいのね。では、また新しいお喋り相手を見つけないといけないのね」
その囁き声は、誰かに聞かせるためのものではない。
ただ、そこに在るだけの、自然現象の一部。
しかし、その何気ない会話が、これから始まる、世界の大きな変化と、小さな者たちの、過酷な運命を、静かに、そして無慈悲に、予言していた。
やがて、囁き声は、風の音の中に、溶けるように消えていく。
森は、再び、完全な沈黙に包まれた。
いや、完全には沈黙していないようだ。
上空から見れば、広大な冬枯れの森の中に、ただ、四つの、小さな気配が点在していた。
視座を下げ、木々の梢を抜けると、ようやくその姿が明らかになる。
かさ、かさ、と乾いた落ち葉を踏む音。
先頭を行くのは、黒いローブを纏った青年。その数歩後ろを、同じく黒髪の少女が、黙ってついていく。少女のすぐ隣には、月光をそのまま固めたかのような銀色の馬が、まるで守護者のように、静かに寄り添っていた。
三者の間には、言葉はない。ただ、冬の訪れを前にした、張り詰めた空気だけが、そこにあった。
そして、彼らが通り過ぎた、遥か後方。
もう一つの影が、ゆっくりと、しかし洗練された足取りで、その跡を追っていた。
彼は、時折立ち止まり、地面に残された微かな痕跡を、何かを見分するかのように、鋭い目で見つめている。
そして、誰に聞かせるともなく、ちっ、と一つ、小さな舌打ちを漏らした。
新しい千年紀へと続く冬。
それぞれの旅は、静かに始まっていた。
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