閑話7:白鴉隊のクレア
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【閑話です】
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森の民が暮らす避難地は、冬の陽光の中で静かな息遣いを続けていた。
白鴉隊によって保護された参謀「リナ」が、この地に身を寄せてから、数日が過ぎていた。
彼女の記憶は、依然として厚い霧の中に閉ざされている。しかし、その霧の向こう側から、時折、鮮烈な光景が、胸を締め付ける痛みと共に溢れ出すことがあった。
―――黒髪の、小さな少女の泣き顔。
―――温かく、柔らかだった、小さな手の感触。
その断片に触れるたび、リナは理由の分からぬ郷愁と、心の臓腑を抉られるような喪失感に苛まれた。
そんな彼女に、一人の女性が、ただ静かに寄り添っていた。
リノレア。自らを「あなたの母」だと名乗った、不思議なほど穏やかな瞳を持つ女性。
彼女は、記憶のない娘に何も問いたださなかった。ただ、リナが悪夢にうなされる夜には、その手を優しく握り、遠い昔のおとぎ話を、子守唄のように囁くだけだった。
「――悪い竜が、お月様を飲み込んでしまったから、夜の森は真っ暗闇に包まれました……」
その声を聞いていると、リナの荒ぶる心は、不思議と凪いでいく。
ある日、リノレアは、薬草をすり潰しながら、リナの指先をそっと取った。そして、何も言わずに、その爪に、守りの色を灯していく。リナが、ニューログレインのギルドで出会ったという斥候の話を聞いた後だった。
リノレアの指先が、自分のそれに触れる。その、温かく、懐かしい感触。リナの瞳から、理由の分からぬ涙が、一筋、静かにこぼれ落ちた。
◇
白沢村が解放されたという報せは、突然もたらされた。
変わり果てた故郷の地を踏んだ彼女は、やがて、全てを思い出した。今はもう黒い炭と瓦礫の山となった我が家の跡地で、あの銀の髪飾りを見つけ出した瞬間、閉ざされていた記憶の堰は、怒涛の如く決壊したのだ。
「―――あ……ああ……ッ!」
父の背中、母の絶叫、そして、最後に手を離してしまった妹の泣き顔。凄まじい記憶の奔流に耐えきれず、クレアはその場に崩れ落ち、髪飾りを強く、強く握りしめたまま、ただ嗚咽した。
そんな娘の肩を、リノレアは、静かに、しかし力強く支える。
「クレア。行きましょう。……あの子と、約束した場所へ」
母に促されるまま、クレアは、村を見下ろす小さな丘――「星の降る丘」へと、おぼつかない足取りで登っていく。
丘の頂に立つ、大きな樫の木。その幹に残る、幼い頃に二人でつけた、背比べの傷。
丘の上から見渡す、どこまでも広がる空の色。
二人で笑い合った、遠い日の記憶。
そこでようやく、荒れ狂っていた記憶の奔流は、一つの、あまりにも鮮明な物語へと収束した。
「―――ノエル……ッ!」
その名を、今度ははっきりと、妹を呼ぶ姉の声として、嗚咽と共に紡ぎ出す。
彼女は、もはや記憶のない少女「リナ」ではない。参謀としての知識と、妹への深い愛情を持つ姉、「クレア」として、完全に覚醒した。
その小さな背中を、リノレアは、何も言わずに、しかし、世界の全てから守るかのように、力強く抱きしめた。
◇
どれほどの時が経っただろうか。
クレアが、涙で濡れた顔を上げた時、その瞳には、もう、ただの悲しみだけではない、別の色の光が宿っていた。
リノレアは、そんな娘の成長を悟り、静かに、語り始めた。
「クレア。あなたに、伝えなければならないことがあります」
母の、その、どこまでも穏やかで、しかし、揺るぎない声が、丘の上の澄んだ空気に響いた。
「まず、『理の灯守』について。それは血筋や特別な力を持つ者の名ではありません。誰かの心の灯が消えぬよう、自らの意志でその傍に立つという『役割』そのものなのです」
クレアは、母の言葉を、一言も聞き漏らすまいと、その瞳をじっと見つめ返す。風が、彼女の髪を優しく揺らす。
リノレアは、娘の心がその言葉の意味をゆっくりと受け止めるのを待ってから、静かに続けた。
「あのアストルという子の心を守ろうとしたノエル。そして、そんなノエルの心を守ろうとしているあなた。二人とも、既に自らの『意思』で、『理の灯守』としての道を歩み始めているのですよ」
その言葉は、クレアの脳裏に、守るべき妹のあまりにも無防備で、そして気高い姿を思い浮かばせる。
その運命の重さに、彼女の肩が微かに震えるのを、リノレアは見逃さなかった。
母は、そんな娘の震える手を、そっと両手で包み込んだ。
「でも、決して一人で背負う必要はないの。私たち森の民は、理の灯守が、その重すぎる選択に一人で潰されてしまわぬよう影から支え、守ることを誓った者たち……」
母の、その温かい手のひらから、クレアの知らない、大きな物語が伝わってくる。
「それは決して逃れられない『使命』などではないの。その力をどう使うか、あるいは使わないかを選ぶのは灯守自身の心。そして、それを支えるかどうかも、私たち自身の『意思』です」
リノレアは、最後に、娘を安心させるように、その瞳を優しく細めた。
「だから、あなたも一人ではないのですよ。……リオもまた、私たちと同じ血を引く者。彼がどうするかは、彼の意思。でも、きっと、彼はあなたの力になってくれるはずです」
クレアの瞳が、わずかに見開かれる。孤独では、なかった。見えざる手によって、守られていた。その安堵が、彼女の心を温める。
しかし、だからこそ、彼女の決意は、より一層、鋼のように固まった。
「母様、ありがとう。でも、リオにだけ、全てを背負わせるわけにはいきません。守られるだけでは、私は、ノエルの『理の灯守』にはなれない……! 私自身の『意思』で、妹を守る道を、選ばなくては」
母の言葉を、参謀としての彼女の頭脳が、冷徹に分析する。
ノエルの存在が公になれば、彼女は、帝国だけでなく、王国の腐敗した貴族からも狙われる最大の駒となってしまう。
クレアは、そっと、母の手を離し、静かに立ち上がった。そして、その掌には、小さな銀の髪飾りがしっかりと握られていた。
◇
白沢村の外れ、白鴉隊の野営地。
クレアは、ダリウスがいる指揮天幕の前へと、迷いのない足取りで進み出た。
天幕へ入るクレアの横顔。
そこに浮かぶのは、記憶を失っていた頃の、どこか頼りなげな儚さではない。
全てを知り、全てを受け入れ、それでもなお、自らの意志で茨の道を選んだ者の、揺るぎない強さ。そして、その奥に隠された、どうしようもないほどの、深い悲しみ。
彼女は、ダリウスに、自らの記憶が戻ったことは告げなかった。
ただ、こう告げたのだ。
「大隊長。私は、あなたと共に戦います。辺境の軍師『レイヴン』……その力を、白鴉隊のために、この国のために、最大限に活用する策があります」
妹の名を、あえて「駒」として、冷徹に口にすることで、彼女は、自らの感情を封印した。
妹を愛する姉「クレア」の心を、完璧な参謀「リナ」の仮面の下に隠し、盤上で妹を守り抜くという、あまりにも過酷な戦いを続けることを、誓ったのだ。
テントの隅でうかがうリオは、その気高い姿から、一瞬たりとも、目を離さなかった。
彼の、その静かな瞳には、単なる仲間への同情ではない、もっと深く、そして個人的な、守るべきものを見つけた者の、揺るぎない光が宿っていた。
彼は、誰に命じられるでもなく、自らの『意思』で、この気高き魂の『理の灯守』となることを、今、この瞬間、静かに誓うのだった。
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8月13日(水)朝6時から
【第三部開始】します!
結構書き溜めたので、頑張れそうです……
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