閑話6:竜の咆哮
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【閑話です】
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物語の小さなヒントが見つかるかもしれません。
また、このお話は、第二部第二章で『竜の咆哮』が偽装商隊の護衛任務を受ける、その数週間前の物語です。
王国中央、王都。
六十年ほど前の戦乱の果てに生まれたこの若い王国において、その王都は繁栄の象徴だった。
西の帝国との国境がきな臭さを増している今も、分厚い城壁の内側では、貴族たちの華やかな社交や、商人たちの活気ある取引が、まるで戦時下ではないかのような日常を紡いでいる。
王城とそれを取り巻く広大な貴族街。その外側に広がる公庁府、さらにその周縁を埋め尽くす商業区と居住区。隣接するいくつもの街と一体化し、巨大な都市圏を形成している。
そしてその巨大な都市圏の治安と経済活動の一翼を担うのが、職能ギルドだ。
王城近くに構える行政寄りの中央本部とは別に、王都には南街、東街、西街と三つの支部ギルドが存在する。それぞれが数百人規模の所属員を抱え、王都だけでなく、それに隣接する街々の広範な依頼までを処理していた。
帝国の脅威が現実味を帯びるにつれ、ギルドに求められる役割も変わりつつあった。
辺境での小競り合いが増え続ける中、腕利きの冒険者は、もはやただの便利屋ではない。国家の防衛を担う、重要な戦力と見なされ始めていたのだ。
そしてその気風は、純粋な『強さ』への渇望となって、ギルド全体を覆っていた。
誰もが、ギルドの頂点――Aランクという栄誉を意識しないではいられなかった。
そんな数多いるBランクパーティーの中に、『竜の咆哮』もいた。
王都南街ギルドを拠点とする、リーダーの重戦士グレン、魔法使いのシン、槍使いのイリス、双剣士のアッシュ、そして神官のフェリシアからなる五人組。個々の戦闘能力は高いが、まだ若く、経験が浅い彼らは、他のベテランBランクパーティーの影に埋もれがちだった。
「ちっ、また『鋼の獅子団』かよ」
南街ギルドの食堂。リーダーのグレンは、テーブルに置かれたエールジョッキを忌々しげに見つめながら、悪態をついた。
彼の視線の先からは、酒場の喧騒の向こう側、依頼を終えた冒険者たちが、ギルド職員に何やら報告しているのが見える。
「まあまあ、グレン。焦るなって。あいつらは、貴族に尻尾を振るのが得意なだけだろ」
双剣士のアッシュが、軽薄な口調で茶化すが、その表情にいつもの笑みはない。
「ですが、実績は実績です」
槍使いのイリスが、冷静に、しかし厳しい声で窘める。
「今、王都で動けるAランクはいない。王家の依頼で唯一のAランクパーティーが南の山脈に派遣されている今が、我々Bランクにとっては最大の好機です。このままでは、Aランクへの道は、彼らに先を越されてしまいますよ」
彼ら『竜の咆哮』は、まだ青かった。小細工や政治的な駆け引きで功績を稼ぐパーティーを嫌い、純粋な実力だけで依頼を完璧にこなすことこそが、真の強者の道だと信じて疑わなかった。周囲からは「甘い若造」と揶揄されることもあるその愚直さゆえに、貴族の思惑が絡むような、きな臭い依頼はこれまで意識的に避けてきたのだ。
「……何か、俺たちの実力を、誰の目にも明らかにするような、骨のある依頼はないのか」
グレンが、そう呟いた、その時だった。
「――でしたら、一つ、うってつけの依頼がありますよ」
声をかけてきたのは、受付嬢だった。彼女が差し出した一枚の羊皮紙。それは、一週間ほど前から、ギルドの依頼ボードに貼られていたものだった。
「依頼主、匿名。目的は、王都から東へ二日の森にある“清めの沢”の、源流の水を汲んでくること。報酬は、Bランク依頼としては破格です」
「なんだそりゃ。ただの水汲みが、Bランク相当だってのか?」
アッシュが、訝しげに眉をひそめる。
「ええ。ですが、成功条件が特殊でして。『源流で採取した証拠』を提出しなければならないのです。この時期、沢の水量は少なく、源流にたどり着くには、険しい道のりを進む必要があります。その地域に生息する魔物のことも考えれば、難易度は妥当かと。ただ……」
受付嬢は、少しだけ言葉を濁した。
「依頼主が匿名であること、そして何より、その効率の悪さから、他のBランクパーティーは、誰も手を出そうとしないのです」
その話を聞いていた魔法使いのシンが、静かに口を開いた。
「……子供のため、か」
依頼書の隅に、小さな文字で、その目的が記されていた。『病に伏せる我が子の治療のため、何卒』と。
その一言が、パーティーの空気を変えた。
神官であるフェリシアが、祈るように、そっと胸の前で手を組む。
「……可哀想に。私たちにできることがあるのなら」
グレンは、仲間たちの顔を見渡し、そして、決意を固めた。
「よし、決めた。この依頼、俺たちが受ける。人助けこそ、俺たちのやるべきことだ。それに、誰もやりたがらない困難な依頼を成し遂げてこそ、本物の実力ってやつを証明できるってもんだ!」
彼の、その純粋で、力強い宣言に、パーティーのメンバーは、力強く頷き返した。
◇
王都から東へ二日。冬枯れの木々が続く森は、静寂に包まれていた。
一行は、凍てついた沢を、慎重に遡上していく。
「――来るぞ! 全員、警戒しろ!」
斥候として先行していたアッシュの鋭い声が、森の静寂を破った。
「こいつら、わざと俺たちを西の谷に追い込もうとしてやがる。そっちに奴らの本隊がいるはずだ。逆を突くぞ!」
その言葉と同時に、左右の茂みから、銀色の毛並みを持つ狼の群れ――シャドウ・ウルフが、音もなく飛び出してきた。
「散開! 囲まれるな!」
アッシュの報告を受け、イリスが即座に的確な指示を飛ばす。
ウルフたちは、直接的な攻撃は仕掛けてこない。ただ、統率の取れた動きで、一行の周りを旋回し、じりじりと包囲網を狭めてくる。彼らは、獲物が疲弊し、陣形が乱れるのを、冷静に待っているのだ。
「ちっ、面倒な奴らだ!」
グレンが巨大な盾を構え、正面のウルフたちを牽制する。
「シン! 足止めを!」
「分かっている」
シンが短く応じ、精神を集中させる。彼の足元から冷気が走り、数瞬後、地面から背の低い氷の槍がせり上がって、ウルフたちの進路をわずかに妨害した。しかし、狼たちは怯むことなく、即座に陣形を変え、別の角度から襲いかかってくる。
その、一瞬の隙だった。
一匹のウルフが、神官であるフェリシアの死角から、鋭い牙を剥いて飛びかかった。
「させません!」
イリスの槍が、ウルフの脇腹を正確に貫く。しかし、そのウルフは囮だった。本命のリーダー格のウルフが、がら空きになったイリスの背後へと、音もなく回り込んでいた。
誰もが、間に合わない、と息をのんだ、その瞬間。
「――甘いんだよッ!」
アッシュの双剣が、リーダー格のウルフの首筋を、深々と切り裂いていた。彼は、最初の接触から、ずっとこの本命の一撃を狙っていたのだ。
リーダーを失ったウルフの群れは、一瞬にして統率を失い、森の奥へと散り散りに逃げていく。
『竜の咆哮』の、完璧な連携が生んだ勝利だった。
◇
いくつかの魔物との遭遇戦を乗り越え、一行がついにたどり着いた沢の源流。その水は、最近の小規模な崖崩れで口を開けたらしい、未知の洞窟の奥から湧き出ていた。
「待て。ギルドの地図にない洞窟だ」
シンが、一行を制止した。その声には、珍しく強い警戒の色が滲んでいる。
「未知の洞窟に入るなど、自殺行為に等しい。本来なら、一度ギルドに報告し、専門の調査隊を編成するのが定石だ。十分な装備もなしに入るべきじゃない」
「だが、源流は、この奥だろ?」
グレンは、ごくりと喉を鳴らし、洞窟の暗闇を見つめた。
「ここまで来て、引き返せるかよ。それに見てみろ、洞窟から風がほとんど流れてきていない。おそらく、そう深くないはずだ。新しい洞窟なら、強力な魔物の巣になっている可能性も低いだろう」
「楽観的すぎる……」
「それでも、行く価値はある。病気の子供が、待ってるんだぜ?」
グレンのその一言に、シンはそれ以上の反論を飲み込んだ。一行は、松明に火を灯し、慎重に、未知の闇へと足を踏み入れた。
グレンの予測通り、洞窟は入り組んでおらず、一行はほどなくして最奥の空間へとたどり着いた。
そこは、松明の光が届かないほどの闇が広がる、巨大な空洞だった。自分たちの足音と、どこかから滴り落ちる水滴の音だけが、不気味なほど高く反響し、空間の広さを物語っている。
彼らが松明を掲げると、眼下に広がる地底湖の湖面がその光を揺らめき返し、対岸に鎮座する巨大な水晶の塊をぼんやりと照らし出した。
湖の中心で眠っていたのは、巨大な亀の姿をした魔物だった。その甲羅は、まるで巨大な水晶の塊そのもので、地底湖のわずかな光を反射して、不気味に煌めいている。
彼らが湖の水を汲むために水際に近づいた、その瞬間だった。
安眠を妨げられたことへの怒りか、地響きと共に巨大な水晶が身じろぎし、その中から鎧のような皮膚に覆われた頭部がぬっと現れた。そして問答無用で、その口から凝縮された水の塊が魔法の砲弾となって彼らを襲う。
「伏せろ!」
グレンの叫びと同時に、水弾が彼らのいた場所の岩肌を砕き、凄まじい水しぶきを上げた。
湖の主は、ゆっくりと、しかし確かな足取りで陸へと上がってくると、その巨体に似合わぬ俊敏さで長い首を伸ばし、グレンの盾を的確に狙って、鎧のような頭部での頭突きを繰り出してきた。
湖の主との戦闘は、こうして始まった。
巨大な亀の魔物は、その水晶の甲羅に身を守られ、生半可な攻撃を一切受け付けない。
グレンが巨大な盾を構え、魔物の噛みつき攻撃や薙ぎ払うような前足の攻撃を、その身一つで受け止め続ける。
盾が軋み、腕の骨が悲鳴を上げるが、彼は決して退かない。
「今だ! 側面を叩け!」
グレンが作り出した、ほんの一瞬の隙。その巨大な盾の左右から、まるで二本の牙のように、イリスの槍が伸びて魔物の関節を狙う。
しかし、硬い皮膚に阻まれ、致命傷には至らない。
その間もアッシュは魔物の注意を引きつけるように周囲を舞い、絶えずその背後に回り込もうと急所を探し続けていた。
「――凍てつけ!」
シンの放った氷塊の魔法が、水晶の甲羅の一点に集中して着弾し、ついに、そこに蜘蛛の巣のような微かな亀裂を生み出した。
「そこだッ!」
グレンは最後の力を振り絞り、亀裂の入った甲羅に、渾身のシールドバッシュを叩き込む。
甲高い破壊音と共に、魔物はバランスを崩し、巨体を横転させた。無防備に晒された腹部に、五人は、満身創痍になりながらも、最後の一撃を叩き込んだ。
巨体が地響きを立てて完全に沈黙すると、洞窟には水滴が落ちる音だけが響いた。
「……はぁ……はぁ……」
グレンは、ボロボロになった盾を手放し、その場に膝をついた。アッシュとイリスも、荒い息をつきながら壁に寄りかかっている。フェリシアが、すぐにふらつく足で立ち上がり、仲間たちの元へ治癒魔法をかけに回った。
「……やった、のか?」
「ええ……。なんとか、みたいですね」
シンとイリスが、疲労の滲む声で言葉を交わす。誰もが、生きてこの場に立っていることへの、深い安堵を噛み締めていた。
◇
数日後。王都南街ギルド。
竜の咆哮は、依頼の完了を報告していた。
彼らが持ち帰った巨大な水晶の甲羅は、査定所で高額な値がつき、ホールにいた他の冒険者たちから驚きと、そして『運のいい若造どもだ』という少しの嫉嫉が混じった視線を浴びた。
同時に提出された、甲羅の最も美しい破片は、『源流の主』を討伐した絶対的な『証拠』として、依頼主に偽りない仕事ぶりを示した。
彼らは、子供を救えたという確かな手応えと、正当な報酬の重みを噛み締め、彼らの顔には、久しぶりに達成感に満ちた笑みが浮かんでいた。
◇
王都の一角、暖炉の火がマホガニーの床を照らす壮麗な執務室で、一人の男が、ギルドから届けられた報告書に静かに目を通していた。
仕立ての良い、しかし、過度に華美ではない上質な衣服をまとい、その銀の指輪をはめた指で、テーブルに置かれた水晶の破片を静かに撫でる。
報告書には、困難な状況への適応力、統率の取れた敵に対する連携能力、そして何より、人道的な理由で困難な依頼を引き受けた彼らの行動原理が、克明に記されていた。
「……ふむ」
有力者は、水晶片を指で弾きながら、小さく呟いた。
「純粋な力、困難な状況への適応力、そして民衆の心を掴みうる『物語性』。駒としては、申し分ない」
彼は、この依頼が、自分の計画の方向性に誤りがないことを証明したと確信した。そして、やはり『強さ』を競い合わせることで、より強力な駒が生まれる必要性を再認識する。
彼は、傍らの執事に命じた。
「計画を前倒しする。ギルドに、王都の全Bランクパーティーを対象とした、大規模な合同討伐依頼を出す準備をさせよ。予算は戦時費用として賄え。――英雄選抜の、始まりだ」
純粋な善意で成し遂げられた『竜の咆哮』の仕事は、皮肉にも、彼ら自身を、そして王都の全ての冒険者を巻き込む、巨大な政治の歯車を、大きく、そして静かに、回し始めてしまうのだった。
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