第6話:緩衝地帯と、姉妹の壁
秋が、終わろうとしていた。
かつて黄金色に輝いていた麦畑は、今はただ刈り取られた後の、静かな骸を晒している。
朝の空気は肌を刺すように冷たく、吐く息が白く染まった。クレアは、乾いた枯れ葉を踏みしめる音と、その砕ける匂いが好きではなかった。それは、生命が終わり、長い冬が始まることを告げているようで、胸の奥が少しだけ、寂しくなるからだ。
この数ヶ月、村の空気は、まるでこの季節のように、少しずつ色を失っていった。
夏の終わりの嵐で、村道にかかる小さな橋の欄干が落ちた。例年ならすぐに領主の要請で普請役が派遣されるはずなのに、数ヶ月経った今も、危険を示す縄が張られたまま無様に放置されている。
村の猟師たちは、寄り合いのたびに「近頃、森の奥で鹿の姿を全く見かけなくなった」「夜中に、鳥が一斉に飛び立つことがある」と、不安げに首を傾げた。
そして、最も大きな変化は、二月前にすでに訪れていた。
これまで一人で村を訪れていた行商人が、その日以降は、屈強な護衛を一人連れて来るようになったのだ。
男は使い古された革鎧に、腰には無骨な短剣を吊っている。多くを語らないが、その佇まいには、村の誰もが気圧されるような、歴戦の空気が漂っていた。
「いやはや、最近は物騒でしてな。街道筋で魔物が出るとかで……」
行商人はそう言って笑い、村人たちに不安を与えないようにしているようでった。
その時、ノエルは、他の子供たちの輪から少し離れた場所で、その男の姿をじっと見つめていた。行商人が、村の調整役である父に自慢げに話しているのを、彼女の耳は聞き逃さなかった。
「街のギルドで雇った、腕利きの『冒険者』でして。これでこの村まで、安心して荷を届けられますよ」
冒険者。
その言葉が、ノエルの心に静かに刻み込まれた。ノエルの母が毎晩姉妹に語り聞かせる物語には、必ず冒険者が登場する。しかし目の前の冒険者は、そんなキラキラしていなかった。
クレアは、街へ行くこともある。だから冒険者を見たことも、もちろんあるが、辺境で価値のないこの村では異質に見えた。
ただ、愛する妹の様子が、あの冒険者が村を訪れてから、明らかにおかしいことに、胸を痛めていた。
ノエルが、一人でいる時、寂しそうな目で、遠い国境の山々や、森の奥深くを、じっと見つめていることが増えたのだ。まるで、そこにいるはずのない誰かを探しているかのように、あるいは、そこから来るはずのない「何か」を、待ち構えているかのように。
そんな時のノエルの瞳は、年相応の無邪気な光のない、淋しい目をしていた。
その夜も、クレアは、眠れずにいるノエルの隣に、そっと寄り添った。
窓から差し込む月明かりが、妹の青白い横顔を照らしている。
「ノエル、最近、ずっと何かを心配しているでしょう」
クレアは、優しく、語りかけるように言った。
「私には、難しいことは分からないけれど…あなたの心が苦しいなら、話してほしいな。お姉ちゃん、あなたの味方だから」
その、ひたすらに優しい言葉と眼差し。
ノエルは、その温かさに触れ、思わず姉に甘えてしまいたくなる衝動に駆られる。
怖い夢を見たと、泣きついてしまいたくなる。四年前の森での出来事も、自分の中にいる得体の知れない「何か」のことも、全てを打ち明けて、楽になってしまいたい。
だが、その衝動を、小さい体に必死に抑え込む。
(お姉ちゃんを、不安にさせちゃいけない。この、温かい日常を、私のせいで壊しちゃいけない)
その、姉を想う純粋な気持ちと、自分の中に渦巻く冷徹な知識との間の激しい葛藤が、彼女の口から、無意識の呟きとして、か細く漏れ出てしまう。
静かな夜の部屋で、クレアの耳だけが、それを拾った。
「あの冒険者の人…普通の護衛じゃない。あれは、王国の人でもない…敵国の潜入工作員?。鎧は変えても、歩き方を見ればわかる。それに、飾り気のない量産品の機能性だけを追求した剣と靴……。主要な接近経路の価値を確認しに来たの?それとも擾乱?。森の鹿がいなくなったのは、複数の兵隊の気配を感じて住処を変えたってこと?」
潜入工作員。接近経路。擾乱。
クレアは、その言葉の意味は理解できない。ただ、妹が自分には分からない、恐ろしい夢にうなされていることだけは分かった。その声は、あまりにもか細く、助けを求めているように聞こえた。
彼女は、ノエルの呟きを遮るように、その小さな体をぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫よ、ノエル。あなたは、考えすぎなの。怖い夢でも見たのね。お姉ちゃんが、ずっとここにいるから。何も心配いらないわ」
姉の腕の温かさに、ノエルは安堵と、そして深い絶望を同時に感じる。
(……違う。夢じゃない)
ノエルは、姉の胸に顔をうずめ、そう心の中で呟くだけだった。
(お姉ちゃんは、何も知らないままでいてほしい。でも…)
クレアは、腕の中の妹の温かさを感じながら、胸が張り裂けそうだった。
ノエルは心配をかけまいと、クレアは妹を守りたいと、ただそれだけを願っているのに。仲のいい二人の間にこそ生まれてしまった、言葉では表せない薄い膜が、互いの心を隔てている。
そのもどかしさが、クレアをたまらなくさせた。
クレアはノエルを優しく、そして強く抱き締める。
そしてノエルは、クレアの体温に安心すると、緊張した身体を解き、眠りについた。
クレアは、腕の中ですうすうと寝息を立て始めた妹の髪を、優しく撫でた。
しかし、彼女自身は、とても眠れるような心境ではなかった。
静寂が支配する夜。妹の呟いた、恐ろしい言葉の断片が、クレアの頭の中で何度も何度も反響する。
潜入工作員。接近経路。擾乱。
意味は分からない。しかし、その言葉が持つ、血と鉄の匂いだけは、クレアの心を冷たく締め付けた。
(この子は、また、どこか遠くへ行ってしまっている。自分には見えない世界を見て、自分には聞こえない声を聴いて、たった一人で、その恐怖と戦っている)
(守らなければ)
その一心だった。クレアは、妹の言葉を、妹を守るための唯一の「情報」として、必死に理解しようと努めた。
行商人が連れてきた、あの冒険者。放置されたままの、橋。姿を消した、森の動物たち。バラバラだった村の変化が、ノエルの言葉をきっかけに、一つの不吉な絵として繋がり始めていく。
(どうすれば、父様に伝えられる? ノエルがおかしいなんて、思わせずに。ただの子供の空想だと、笑われずに。そして、この村を、守ってもらえるように…)
思考の夜は、あまりにも長かった。この、愛する妹の言葉を、自らの知恵として翻訳し、周囲に理解可能な形で伝えるという行為。これが、彼女が後に参謀として開花させる能力の、まさに原点となることを、この時のクレアはまだ知らない。
彼女が、一つの結論にたどり着いた時、窓の外が、ようやく藍色から白へと変わり始めていた。夜明け前の、最も冷え込む時間だ。
彼女は、音を立てないようにそっと寝台を抜け出すと、父の部屋の戸を、静かに、しかし強く叩いた。
**
父は、娘のただならぬ様子に、眠い目をこすりながらも真剣に耳を傾けてくれた。
「……父様。森へ薬草を摘みに行ったのですが、森の奥で、見慣れない靴跡をたくさん見つけたのです。まるで、たくさんの人が、何かを探すように歩き回ったような……。誰かが、鹿を密猟しているのかしら、と、なんだか怖くなってしまって」
それは、クレアが夜通し考えて捻り出した、精一杯の「方便」だった。
「……そうか。分かった、クレア。よく話してくれた」
父は、娘の言葉の裏にある何かを察したのか、深く頷くと、それ以上は何も聞かなかった。
クレアが、重い心を引きずりながら家の外へ出ると、冷たい朝霧の中に、見慣れた小さな人影が立っていた。
ノエルだった。
彼女は、村の広場で、ただ一人、じっと森の奥の空の色を見つめている。彼女の思考は、止まらない。その頭の中では、冷たい論理が、無慈悲に結論を導き出そうとしていた。
(……領軍は、橋を直さない。兵も送ってこない。王国軍の行動原則から考えて、この村は守る必要がない。緊要地形として敵に確保されないよう、価値を無くしたうえで見捨てられるんだ。敵の進攻を少しでも遅らせるための、生きた障害物…緩衝地帯として…)
その結論に、ノエル自身が恐怖で打ち震えた。
姉の視線に気づいたノエルが、ゆっくりと振り返る。その瞳には、諦めと、悲しみと、そして、導き出してしまった結論を受け入れるかのような、静かな覚悟の色が宿っていた。
姉妹の間に、言葉はなかった。ただ、互いの全てを理解したかのように、視線が交錯する。
その、永遠のようにも感じられた沈黙を破ったのは、遠くから響いてきた、統率の取れた蹄の音だった。
一つ、また一つと、その音は数を増し、確実に、村へと近づいてくる。
聞きなれない、鉄の足音。
それは、ノエルの予測が、現実となったことを告げる、運命の音だった。
家から出てきた父が、動かない右腕を垂らし、全てを覚悟した表情で、村道へと向かう。
村の名前の書かれた小さな看板が立つだけの広場には、何事かと、村人たちが不安げな顔で集まり始めていた。
そして、二頭の騎馬が、霧の中からその姿を現した。
領主の紋章を掲げた兵士は、馬上から村人たちを見下ろし、手にした巻物を広げる。
「――国王陛下の名において、通達する! 貴村の壮健なる男子は、来るべき戦に備え、ただちに……」
そして、運命が動き始める。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
これで第二章を「完」とします。
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このあと怒濤の第二章が始まります!
期待していただけると、頑張れそうな気がします!





