第60話:それぞれの道と、お月様の光
白沢村の長い夜が明け、冬の太陽が、戦いの爪痕を静かに照らし出していた。
瓦礫の山にはまだ煙の匂いが燻っていたが、その全てを洗い流すかのように、村には新しい朝の澄んだ空気が満ちていた。
戦闘の熱が冷めやらぬ村の一角で、バルガスは血と泥に汚れた手袋を外し、赤く彩られた自らの中指の爪を見下ろした。決戦直前にリノレアに施されたそれは、不思議と彼の力を引き出してくれた気がする。
「へっ、おまじないってのも、馬鹿にしたもんじゃねえな」
「気分の問題だろ」
カイが軽口で返すが、その表情はどこか晴れやかだった。アウロラからの追跡行で、この彩りがもたらす感覚強化を誰よりも実感していたからだ。
周囲では、白鴉隊が言葉もなく戦後処理にあたっていた。
衛生兵は仲間より先に村人を手当てし、斥候は帝国軍が残した馬防柵や壕を無力化していく。鐘楼からは、貴族が管理していた記録であろう羊皮紙の束が運び出され、帝国軍指揮官が覚悟をもって軍事機密を処分したのに比べ、貴族の無様さを際立たせ、戦いの完全な終結を物語っていた。
その日の午後、村に最初の槌音が響いた。到着した白鴉隊の後方支援隊が、すぐさま村人たちと協力し、瓦礫の撤去や仮設住居の建設に取り掛かったのだ。
その献身的な姿は、当初、王国軍へ警戒心を抱いていた村人たちの表情を、少しずつ和らげていった。
翌日にはセドに率いられた避難民の帰還が始まり、村は悲しみと喜びの入り混じる中、確かな再生の槌音で満たされていく。
その輪の中心で、村の子供たちに薬草の見分け方を教えていたリノレアの元へ、カイが一人、近づいた。
彼は自らの爪に施された彩りをリノレアに見せると、静かに、しかし真剣な眼差しで問いかけた。
「あんたたちの力は、一体何なんだ? この『おまじない』には、俺たちの知る魔法とは違う、何か別の理が働いている気がする」
その純粋な探求心に、リノレアは穏やかに微笑んだ。
「……これは、理を灯すための、ささやかな守りなのですよ」
彼女は、『理の灯守』の伝承をゆっくりと語り始めた。
「理の灯守は、血筋でも力でもありません。時代が必要とする時に現れる、役割の名。そして、その力が心を壊さぬよう調律するのが『爪の守り』なのです」
「……てことは、強化に応用したのは、ひよっこの奴が自分で考えたってことか」
カイが独り言のように呟くと、リノレアは愛おしそうに目を細めた。
「ええ。あの子は昔から、色や感覚に人一倍敏感でしたから。教わる前に、本当の使い方に気づいてしまったのでしょうね」
リノレアが、その言葉に深い愛情を滲ませた、その時だった。村の入り口が、にわかに騒がしくなる。
「――バルガスはどこだ! 『鉄の街道』は無事なんだろうな!」
土埃にまみれたマントを翻し、息を切らしながら村へ転がり込んできたのは、ギルドマスター・マードックその人だった。
供も連れず、最速の馬で駆けつけてきたのであろうその姿は、威厳よりも安否を気遣う必死さが滲み出ている。
「ギ、ギルマス!? なんでここに…」
驚くカイに、マードックは厳しい顔で詰め寄った。
「当たり前だろうが! うちの最高戦力と、軍師様が、とんでもねえ戦争に巻き込まれたと聞きゃ、飛んでも来るわ! ……それで、ノエルはどこだ。怪我はねえんだろうな」
「それが……」
カイが答えに窮していると、近くで村人たちの手当てを手伝っていたセドが、その会話に気づき、訝しげにマードックを見た。
「……あんたが、ニューログレインのギルドマスターか。娘が世話になったようだ」
「娘…? あんたは……?」
「セドだ。『片腕のセド』…と言えば、あんたほどの御仁なら、聞き覚えがあるかもしれんな」
その名を聞いた瞬間、マードックの動きが、ぴたりと止まった。彼はセドの顔と、その隣に立つリノレアの顔を交互に見比べ、全てのピースが繋がったように、天を仰いで深いため息をついた。
「……はぁー、そういうことかよ。あのひよっこ、とんでもねえ置き土産を残していきやがったな……」
◇
その夜。後方支援隊が設営した野営地の焚き火を囲みながら、マードックがバルガスに問いかけた。
「それで、お前たちはこれからどうするんだ」
「決まってんだろ、ギルマス」
バルガスは、にやりと笑って答えた。
「うちのひよっこが、一人で無茶な旅してんだ。放っておけるか。探しに行って、ケツを蹴り上げてやるのが、俺たちの仕事だ」
「へっ、たった一枚の置き手紙だけ残しやがってな」
焚き火の薪をいじりながら、カイが皮肉っぽく付け加える。
「ええ。それに、今の『西の砦』がどうなっているか……。ギルマス、何か情報は?」
エルラが心配そうに問いかけると、レオンも頷いた。
「『西の砦へ向かいます』じゃ、あまりに漠然としすぎているからな。あの魔道士と銀の馬も一緒とはいえ、心配だ」
その揺るぎない絆の強さに、焚き火の輪の少し外側で話を聞いていたグレンは、思わず息を呑んだ。
彼の脳裏に、その日の昼間に見た光景が蘇る。白鴉隊の兵士たちが、当初は警戒していた村人たちと分け隔てなく汗を流し、槌音を響かせる姿。その光景が、『名声』という虚像のために戦ってきた自分たちの姿を、無様に映し出しているようだった。
彼は一度、自らの仲間たち――黙って話を聞いているイリス、皮肉な表情の裏で何かを考えているアッシュ、静かに頷くフェリシア、そして、遠い目をするシンの顔を、ゆっくりと見渡した。
(あれが……『鉄の街道』か。俺たちが追い求めていたのは、ただの記号としての『Aランク』だった。だが、彼らは違う。仲間を、街を、そしてたった一人の少女を背負う、その背中の大きさ。それこそが、本物の『強さ』だ)
グレンは、静かに立ち上がると、バルガスたちの輪に歩み寄った。そして、決意を込めた目で、ギルドマスターであるマードックに告げた。
「ギルマス。俺たち『竜の咆哮』は、しばらくこの村の復興を手伝い、その後は、ニューログレインへ戻ります」
その言葉に、バルガスたちが少し驚いたようにグレンを見る。マードックは、ただ黙って次の言葉を待っていた。
「鉄の街道が留守の間、あの町をBランク不在にはできない。……俺たちが、あんたたちの背中を、守らせてもらう。Aランクへの道は、王都で名を上げることじゃなく、守るべき場所で、汗をかくことから始まるらしいんでな」
その表情に、もう若者の焦りはなかった。ただ、本物の強さへと至る道を見つけた、一人の男の、静かな覚悟が宿っていた。
その言葉を聞き届けたマードックは、静かに頷くと、再びバルガスたちへと視線を戻した。そして、昼間にカイから見せられた置き手紙の内容を反芻するように、地の底から響くような、抑えつけられた低い声で呟いた。
「……あの、大馬鹿者が。一人で何ができるというんだ……」
その静かな怒りは、大声で怒鳴るよりもずっと深く、彼の底知れない心痛と、弟子への案じを示していた。
誰もが、それぞれの道を見据える中、彼女の不在だけが、決して消えることのない大きな空白として、そこにあり続けた。
その短い言葉が、残された者たちの胸に、希望と不安の棘を突き刺していた。
◇
さらに数日後、地響きと共に銀色の風が村へと吹き込む。
アウロラ領主自らが率いる領軍の到着だった。
アウロラの老戦士を先頭に、一個中隊全員が誇り高きジルバスティードを駆るその威容は、王国軍とは全く質の違う、土地との絆を感じさせる力強さに満ちていた。
馬から降りた領主は、集まった村人たちの前に進み出ると、兜を脱ぎ、その深い皺が刻まれた顔を臆面もなく晒し、深く、深く頭を下げた。
「―――済まなかった」
遊牧民の長であった祖先譲りの、腹の底から響く声だった。
「我が領地でこれほどの悲劇が起きるまで気づけなかった。この責任は、全てこの地を治める俺にある」
彼は顔を上げると、アウロラの老戦士から報告を受けていたのだろう、セドの目を真っ直ぐに見つめた。
「だが、詫びの言葉だけでは、腹は膨れん。俺は、俺の民を見捨てん。これより、この村を正式に『白沢村』と認め、アウロラの民として、俺が直接庇護することを、ここに誓う!」
一度言葉を切った領主は、セドの目を真っ直ぐに見つめ、その肩に力強く手を置いた。
「新たな村長として、セド、お前が立ってくれるな。そして、今後三年間、この村からの徴税は一切行わん! 全ての力を、復興に注いでくれ!」
その、あまりにも潔く、力強い宣言に、村人たちの間に、静かなどよめきと、確かな希望の光が広がっていった。
村の復興は、アウロラ領主の全面的な支援の下、白鴉隊の後方支援隊と、解放された村人たちの協力によって、驚くべき速さで進められていた。
槌音、人々の笑い声、そして、新しく建てられた家の、真新しい木の匂い。その全てが、この村が、確かに再生の道を歩み始めたことを告げていた。
鉄の街道の面々も、復興作業に汗を流していた。バルガスが、その怪力で巨大な梁を運び、レオンが、寸分の狂いもない手つきでそれを組み上げる。カイとエルラは、村の子供たちに、狩りの初歩を教えてやっていた。
竜の咆哮の五人もまた、この村に留まっていた。彼らは、この戦いを通じて、個の力の限界と、守るべきもののために戦うことの本当の意味を知った。その表情からは、かつてのような、功を焦る若者の危うさは消え、真の強さへと至る、静かな覚悟が宿っていた。
誰もが、前を向いていた。
そんな復興が進む村の中を、クレアは一人、歩いていた。
実の両親と過ごす日々の中で、忘れていたはずの温かい感覚が、少しずつ心の氷を溶かしていく。
子供たちに薬草を教える母の姿、村の再建について真剣に話し合う父の背中。その全てが、記憶の扉を、内側から静かに叩いていた。
彼女は無意識に、かつて自宅があった場所へと足を運んでいた。
瓦礫の山の中から、何かが、朝日にきらりと反射するそれは、誰かが意図して置いたかのように、瓦礫の上にそっと鎮座していた。
手を伸ばし、拾い上げた瞬間、クレアの時間が、止まった。
指先に触れる、忘れようもないほど冷たい金属の感触。星の形を模した、銀の髪飾り。
―――あの娘に、似合いそうね。
脳裏に響く、自分の声。アウロラの雑踏の喧騒。そして、ふわりと指を掠めた、少女の黒髪の柔らかな感触。
その記憶が引き金となった。
永遠の闇を突き破り、全ての光景が、五感を伴う奔流となって脳裏に溢れ出す。
肌を焼く、燃える村の熱風。敵兵に斬りつけられた父の背中から噴き出す、鉄錆の匂い。「逃げなさい!」という、母の絶叫。
そして、最後に振り払ってしまった、世界で一番愛しい妹の、小さな手の温もりと、絶望に歪んだ泣き顔。
「―――ノエル……ッ!」
その名を、嗚咽と共に、ようやく思い出す。クレアはその場に崩れ落ち、髪飾りを強く、強く握りしめ、ただ泣いた。
しかし、その涙は、やがて鋼の意志へと変わる。彼女は顔を上げ、涙を拭った。そこにいたのは、もはや記憶のない少女『リナ』ではない。戦場の全てを見通し、次なる一手を見据える、聡明なる参謀『クレア』、その人だった。
妹のあまりにも孤独で、あまりにも気高い決断の意図を、彼女は完全に理解した。
(私が、ちゃんと照らさないと、この月は、輝けないのね……)
クレアは、胸の中で静かに誓った。
「……そう。あなたが自ら囮となったのなら。私が、あなたのための道を、切り開かなければ」
クレアは立ち上がると、迷いのない足取りで、ダリウスの元へと向かった。
◇
遠く離れた、石の砦。
ナルは、影の中に立つ人物に、淡々と語りかけていた。
「――以上だ。確実ではないが、あんたが探している『理の灯守』じゃないか?」
「……そうか。やはり顕現したか。……ミレニアムの始まりだな」
影の中の人物は、楽しそうに呟いた。
◇
白沢村を見下ろす、『星の降る丘』。
ダリウスは、そこに一人立っていた。彼の傍らには、後方支援隊長であるアルベルト伯爵が、復興の活気に溢れる村を静かに見下ろしている。
ダリウスの手には、二枚の羊皮紙があった。
一枚は決戦の朝にノエルが描き上げた完璧な『敵情分析』。もう一枚は三日前、記憶を取り戻したクレアが託した『帝国軍の今後の動向に関する分析報告書』だ。
彼は二枚を月光に透かすように見比べた。
戦場を俯瞰し敵の心理まで読み解く『軍師』の絵と、国家間の力学から未来戦略を紡ぐ『参謀』の言葉。その根底に流れる思考の癖、敵の重心を見抜く視点、そして導き出された結論は、まるで一人の人間が書いたかのように恐ろしいほど一致していた。
(……これが、あの姉妹の力か)
ダリウスは、戦慄と共に、その二枚の羊皮紙を強く握りしめた。
その様子を静かに見守っていたアルベルトが、少し間を置いてから、口を開いた。
「……クレア嬢は、今後どうされる」
その問いに、ダリウスは思考の海から引き戻されるように顔を上げ、静かに答えた。
「本人から、強い申し出があった。引き続き、我々と共に戦わせてほしい、と。……無論、断る理由はない。彼女の頭脳は、白鴉隊にとって、もはや替えの利かぬ最大の武器だ。王都の狐狸の巣に、無防備で送り込むほど、俺は愚かではない」
「……ふむ。それがクレア嬢のためにも、最善の一手か。賢明な判断だ」
アルベルトは静かに頷くと、それ以上は何も言わなかった。
ダリウスは、誰に言うでもなく呟くと、その視線を遠く、東の空へと向けた。
ノエルは、今、どこにいるのだろうか。いつか、必ず再会する。そして、今度こそ、共に。
そうだ。戦いは、まだ、何も終わっていない。ここからが、本当の始まりなのだ。
空には、雲一つない満月が浮かんでいた。その清らかな光は、戦いの傷跡が残る村を、分け隔てなく、優しく照らし出している。
まるで、おとぎ話の中で悪い竜に飲み込まれたお月様が、その輝きを取り戻したかのようだった。
ダリウスは、その光に、遠い未来の、まだ見ぬ誰かの、幸せな笑顔を、静かに、祈った。
聖歴九九八年の冬、千年紀の終わりが始まろうとしていた。
――― 第二部 完 ―――
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価ポイントで応援していただけると、執筆の大きな励みになります。
感想や誤字報告なども、お気軽にいただけると嬉しいです。





