第58話:算段と、覚悟
白沢村から東に位置する辺境の街、ニューログレインでも、一つの静かな戦いが始まっていた。
代官所の、冷たく、そして権威的な扉の前で、アウロラの老戦士は、何度目かになる、丁重だが、心のこもっていない断りの言葉を受けていた。
「ですから、何度も申し上げております通り、代官様は現在、領都との重要な折衝の真っ最中。いかにアウロラ領軍の方とはいえ、緊急の面会など、到底……」
(……こんな夜更けに、重要な会議だと? ふざけたことを……)
役人の、官僚的な言葉を、老戦士は内心で吐き捨てた。彼は、懐から取り出した領軍の身分プレートを、もう一度、役人の目の前に突きつけた。
「……ならば聞くが、貴殿は、この街の若い衆が、今まさに、死地にいると知っても、同じことが言えるのか」
「それは……規則ですので」
(……駄目だ。それでは、間に合わん……!)
正攻法では、アウロラへ連絡が着くのは、早くとも明日。そこから領軍が動くとなれば、数日はかかる。
老戦士は、それを悟ると、深く、長い息を吐いた。そして、踵を返し、代官所を後にした。
彼は、馬首を迷うことなく、街で最も多くの情報と、そして『裏の道』が集まる場所へと向けた。
―――
ニューログレイン職能ギルド。その、主の部屋。
仕事を終え、帰宅しようとしていたギルドマスター・マードックは、老戦士から、白沢村の惨状と、鉄の街道、そして竜の咆哮が、絶体絶命の危機にあることを聞き、その顔に、深い皺を刻んだ。
(……あの馬鹿どもめ。だから、言わんこっちゃねえ)
マードックは、老戦士の言葉を遮ることなく最後まで聞くと、一度だけ、深く息を吐いた。
「……状況は理解した。最悪だな」
その理解の速さと、感情を排した声の響きは、先程までの代官所の役人のそれとは、決定的に異なっていた。
彼の表情は、ギルドの若い衆の身を案じる、Aランク冒険者にして、組織の長の顔つきへと、より一層険しさを増した。
「代官所の役人どもは、当てにならんか。奴らが動く頃には、うちの若い衆は、骨も残ってねえだろうよ」
マードックは、誰に言うでもなく呟くと、老戦士に向き直った。
「……分かった。すぐに、俺の最速の伝令を領都へ向かわせる。ここからは、俺たちギルドの仕事だ」
彼はそう言うと、部屋の隅に控えていた事務長のギデオンに、鋭い目配せをした。
それだけで全てを察したギデオンは、音もなく一礼し、部屋を出ていく。その淀みない連携が、彼がこの街の裏の顔役であることを雄弁に物語っていた。
(……伝令を走らせても、領軍が動くには時間がかかる。間に合うかどうか、五分五分か)
「……ちっ、高くつくが、仕方ねえ。『白鼠』にも、一枚噛ませるか。保険は、多いに越したことはねえ」
その言葉は、この膠着した状況を動かす、最後の『裏の一手』の存在を、強く予感させるものだった。
◇
そして白沢村郊外。
白鴉隊が設営した作戦準備地域では、冬の夜明け前の冷気が、張り詰めた緊張感を乗せて全ての者の肌を刺す。
ここは、もはやただの野営地ではない。作戦構想策定のための、緊迫した情報戦の第一線だった。
焚き火の周りでは、白鴉隊の兵士たちが、無駄口一つ叩かず、ダリウスが持ち帰った情報を基に、敵の思考を分析し、複数の作戦案を立案している。その傍らでは、『鉄の街道』のバルガスが戦斧の刃を確かめ、エルラが静かに矢羽根を検分しながら、これから起こるであろう戦闘に備え、自らのコンディションを最高潮に高めようとしていた。
その、精鋭たちの緊張感の中心で、ダリウスの胸には、もはや白鴉隊の指揮官としての任務だけではない、新たな、そしてより重い覚悟が宿っていた。
(レイヴンとリナが、姉妹……。ならば、俺がここで成すべきことは、ただ一つ。この地獄のような戦場から、二人を必ず生きて帰らせ、引き裂かれた運命を、この手で繋ぎ直すことだ)
それは、もはや任務ではない。一人の人間としての、彼自身の、魂の誓いだった。
彼は、ランタンの光の中心に、自らが持ち帰った偵察地図を広げた。
「――これが、現状だ。我々の戦力は、敵の三分の一以下。加えて、村人は人質に取られている。我々ができることは、……増援を待つ以外に無い」
ダリウスがそこまで言った時、地図を覗き込んでいたカイが、息をのんだ。
「……とんでもねえな、あんた。軍の士官学校で教える作戦用地図なんか比じゃねえ。……兵力配置だけじゃない。交代時間、指揮官の性格分析、補給路の脆弱性まで……。これが『白鴉』と呼ばれる所以か」
斥候であるカイだからこそ分かる、その情報の異常なまでの価値。彼の驚愕の声が、ダリウスの斥候としての格を、雄弁に物語っていた。
しかし、ノエルは、カイの驚きにも一切動じることなく、その完璧なはずの地図を、食い入るように見つめていた。
そして、ダリウスに許可を求めると、一枚の羊皮紙をその隣に広げ、炭の欠片を手に取った。
「……視点を、変えます。私たちが、どう攻めるか、ではありません。敵の指揮官が、この戦力で、この地形で、この村人を人質に取って守るなら、どう動くか、です」
彼女の炭が、羊皮紙の上を滑り始める。ダリウスが集めた、完璧な『点』の情報が、ノエルの手によって、恐るべき速度で『敵の思考』という『線』と『面』に再構築されていく。
数分後、ノエルが描き上げたのは、もはやただの地図ではなかった。敵の兵力配置、予想される行動、指揮系統、そして心理状態までが、まるで生き物のように蠢く、一つの完璧な『戦場』そのものだった。
(……馬鹿な。俺と同じ情報を元にして分析しているとは思えん。俺が渡した情報は、ただの『部品』だったはずだ。それを、この娘は、瞬時に『完成品』へと組み上げ、さらに、その絵の中の敵の企図までをも見抜き始めたというのか……!)
ダリウスは、自らの斥候としての能力と、彼女の軍師としての能力の、その圧倒的な次元の違いに、戦慄を禁じ得なかった。
「……おかしいです。この配置は、矛盾しています」
ノエルは、作成した『敵の防御構想』の一点と、別の場所を交互に指さした。
「戦闘部隊の配置、障害の敷設、巡回ルート。その全ては、極めて練度の高い、経験豊富な軍人の手によるものです。ですが、この銀の採掘場の警備配置と、村人の強制労働のさせ方は、あまりにも非効率で、戦術的には無防備すぎる。まるで、兵站や人権を度外視した、ただの『徴税官』の仕事です」
「……なるほどな」
カイが、腕を組んで感心したように頷く。
「確かに、言われてみればそうだ。戦を知る奴の仕事と、ただの役人の仕事が、同じ地図の上でごちゃ混ぜになってやがる」
カイの相槌を受け、ノエルは、自らの分析に、確信を込めて続けた。
「……はい。これは、二人の指揮官がいる、と考えるべきです。戦闘を指揮する『軍人』と、採掘を監督する『文官』。そして、おそらく、真の権力者は、後者です」
その情報分析に、ダリウスとカイは、二重の意味で戦慄していた。
斥候のプロであるカイは、常識を遥かに超えた、神の視点を持つかのような軍師の才能を目の当たりにして。
情報のプロであるダリウスは、自分の集めた情報が、全く違う意味を持つ、生きた戦場へと書き換えられていく様に。
そして、ダリウスは、確信した。
レイヴンは、これからの戦術を変えると。
―――
その、静かな知性の応酬を、戦場は、嘲笑うかのように動かし始める。
森の民が一人、血相を変えて、野営地へと転がり込んできた。
「大変です! 村の南側で、大規模な魔力の暴走が!」
「何だと!?」
ダリウスたちが、焚き火の煙が立ち上る幕舎から飛び出し、村を見下ろせる高台へと駆け上がる。
耳に届くのは、遠い戦闘音と、獣のような咆哮。そして、目に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。
アストルが、たった一人で、帝国軍の前進陣地に対して、攻撃を仕掛けている。しかし、その炎は、村の中心部、村人が捕らえられているであろう場所を、巧みに避けていた。
(……あの馬鹿、何を考えている! 単独での自殺行為か! …いや、『竜の咆哮』も一緒か? それにあの劫火、村人がいない場所だけを正確に狙ってるな……)
ダリウスは、アストルの常軌を逸した作戦意図を瞬時に理解し、戦慄した。このままでは、アストルと竜の咆哮が、数刻もしないうちに、帝国軍の物量の前に、完全に殲滅されてしまう。
「こうなれば、やるしかない。俺たちも……」
「お待ちください!」
逸るバルガスを、ノエルの、静かだが、きっぱりとした声が遮る。
「彼の行動は、無駄ではありません。あれは『威力偵察』です。彼の行動によって、帝国軍は、必ず、隠していた予備戦力を動かします。その位置と規模。それこそが、私たちに必要な情報です」
その、あまりにも冷徹な言葉に、バルガスが思わず声を荒げる。しかし、ノエルの瞳は、一切、揺らいでいなかった。
「……すぐに、アストル殿の後退援護の準備を。そして、斥候は、敵予備戦力の動きを、一瞬たりとも見逃さないでください」
ダリウスは、その判断に、静かに頷いた。
彼は、感情に流されず、アストルの自己犠牲すらも『駒』として価値を高める、真の指揮官としての覚悟を決めたのだ。
そして、その判断を下せる、目の前の少女の、軍師としての器の大きさに、改めて戦慄していた。
◇
アストルの突撃から、既に半刻が過ぎようとしていた。竜の咆哮は、数の上で圧倒的に不利な状況で奮戦していたが、その消耗は限界に達していた。
「やばいぞ、グレン! どんどん敵が増えてくる!」
アッシュが、曲刀で敵兵をいなしながら叫ぶ。
「ちっ、あの魔道士、俺たちのことを全く見ていないのか!」
グレンは、盾で敵の攻撃を受け止めながら、死相を浮かべていた。もはや、ここまでか。
その、数の暴力が彼らを飲み込もうとした瞬間。
「おう! 何だ?その顔は、必死そうだな!」
戦場に、場違いなほど陽気な声が響く。見れば、いつの間にか、『鉄の街道』の面々が、帝国軍の側面を食い破り、乱入していた。
「ちっ、こんなところにまで……気をつけろよ、敵が増える一方だぞ!」
グレンの警告に、バルガスは、巨大な戦斧を振り回しながら、豪快に笑った。
「退路は確保してある! ……だが、まだ離脱しねえぞ? 『威力偵察』ってことらしい。安心して、思う存分に暴れてこいとさ! うちの軍師殿は、人使いが荒くてな!」
その言葉に、竜の咆哮の面々の表情から、死相が消える。彼らは、息を吹き返したように笑うと、再び敵の群れへと突っ込んでいった。
「たまには、共闘も……悪くない!」
◇
一方、帝国軍の指揮官は、その予期せぬ乱戦を、忌々しげに眺めていた。
彼の名は、ゲルト中隊長。帝国軍極東旅団の独立部隊を任された、歴戦の精鋭でありながら、今は、この極東の辺境、白沢村の防衛という、不本意極まりない任務に就かされている。
(……くだらん。なぜ俺が、こんな所で、田舎貴族の銀集めの手伝いなどを……)
彼の脳裏には、数週間前に目を通した、参謀本部の報告書の内容が蘇る。
ニューログレインと南の町へのスタンピード誘発作戦は成功。その混乱により、王国軍はこの白沢村を完全に見捨てている、と。
その分析に基づき、この村は、戦闘部隊ではなく、魔道具研究を担う文官たちの管轄下に置かれたのだ。
本来であれば、自分は今頃、王国への真の進行路である『西の砦』で、名誉ある攻撃任務についているはずだった。それが、どうだ。
「……あの文官どもめ、余計な手間をかけさせおって。希少な銀鉱石など戦闘の役に立たんではないか!」
彼の視線の先、鐘楼の階下には、魔導具開発に使用する、ここでしか採れない純粋な銀の採掘を監督するため、本国から派遣された文官が護衛に囲まれて、不安げに戦況を窺っている。
戦闘の素人でありながら、貴族としての権力だけは持つ、厄介な存在。
この男を守り、この村の『治安』を維持すること。それこそが、今のゲルトに課せられた、屈辱的な任務だった。
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