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【第三部開始】『辺境の軍師』~職能ギルドの受付嬢は、戦術の知識で静かに世界を救いたい~  作者: かわたん
第ニ部 最終章 理の灯守

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第57話:邂逅と、姉妹

 夜明け前の、最も深い闇が森を支配していた。


 昨日、アストルが放った劫火の残滓は、もはや空にその痕跡を残してはいない。しかし、あの不吉な狼煙が予告した壮絶な戦いは、今まさに、始まろうとしていた。


 白沢村近郊の森の中、岩陰に身を隠したダリウス・アイゼンは、一枚の、粗末な羊皮紙の地図を睨みつけていた。


 それは、彼自身が、昨夜から今朝にかけて単独で潜入し、その目で確かめてきた、白沢村の最新の状況だった。二十家族ほどが暮らしていたはずの小さな村を、増強された一個中隊、百名以上の帝国兵が覆い尽くしている。

 対するこちらの戦力は、本隊と合流した戦闘小隊を合わせても、わずか十三名。絶望的な戦力差だった。


 帝国軍の兵力配置、防御陣地の構造、そして、村の中ほどを流れる小川沿いの長屋に集められ、何かの採掘に従事させられている村人たちの姿。情報が緻密であればあるほど、彼の表情は、より一層険しくなっていく。


 一度、作戦準備地域まで後退し、本隊と合流して作戦を練り直す必要がある。ダリウスはそう決心し、羊皮紙を丸めてメッセンジャーケースに収めると、音もなくその場を離れた。


 しかし、彼の計画は、予期せぬ形で中断される。


 村の方角から、突如として戦闘の喧騒が響き渡ったのだ。剣戟の音、怒号、そして、魔法の炸裂音。

 誰かが、帝国軍と交戦している。


(……馬鹿な、誰だ?)

 ダリウスは、この好機を逃さなかった。敵の注意が村に集中している今こそ、離脱の絶好の機会だった。


 彼は、森の中を、最短ルートで作戦準備地域へと向かう。しかし、運命は、彼に安息を与えなかった。


 薄明の森の木々の間から、五人の帝国兵が姿を現した。夜明け前の薄闇を利用した、配備変更のための巡察分隊だった。


「――王国軍か!」


 鉢合わせとなった両者の間に、緊張が走る。

 ダリウスは、舌打ちと共に、即座に身を翻した。ここで、たった五人の敵と戦闘し、時間を浪費するのは、最悪の選択だ。


 彼は、斥候としての卓越した技術で、木々の間を縫うように駆ける。だが、敵の分隊は、狩猟ではなく、戦闘を想定した部隊だった。全員が、弓を装備していた。


 ヒュン、と風を切る音。


 ダリウスは、咄嗟に身を捻るが、一本の矢が、彼の左の太腿を、深く抉った。

「ぐっ……!」


 焼きごてを押し付けられたような激痛が、脚全体に広がる。それでも、彼は足を止めなかった。この傷で、敵を引き離すのは不可能。ならば、一度身を隠し、傷の手当てをするしかない。


 彼は、森の中にあった、苔むした巨大な岩陰へと、転がり込むように身を潜めた。

 それは、奇しくも五年前、深手を負った自分が、あの少女と出会った、運命の場所だった。


 ◇


 息を殺し、追手の気配を探る。痛みで、思考が霞む。


 その、ダリウスの霞んだ聴覚が、一つの、あり得ない音を捉えた。


 ――蹄の音。


 しかし、それは、帝国軍の軍馬の、重々しい音ではない。もっと軽やかで、まるで落ち葉の上を滑るかのような、静かな音。


 そして彼の目の前に、その影は現れた。


 月光を纏ったかのような、銀色の馬と、その背に跨る一人の少女。


「……怪我を、していますね」


 少女は、静かな声で言うとすぐに馬から降りる。何の躊躇もなく、ダリウスの傷ついた脚へと近づいてくる。


「そのままでは、組織が壊死し始めます。動かないでください」


 その手つきは、五年前と、何一つ変わっていなかった。淀みなく、的確に、そして、驚くほど冷静に。彼女は、自らのロングチュニックの裾を裂くと、慣れた手つきで、ダリウスの傷口を圧迫し、止血していく。


 デジャヴ。


 ダリウスは、この、あまりにも非現実的な光景に、戦慄していた。


 そして彼は思わず、五年前と同じあの言葉を口にしていた。


「……追手は」

「軽い足音が五つ。沢の流れで、隊形を変えました。分散して、捜索するようです」


 返ってきたその答えの冷静さも、五年前と同じだった。


 ダリウスは、確信した。目の前の少女こそが、自分が五年間、探し続けてきた、あの『レイヴン』なのだと。


 彼の胸に、軍人としての合理的な思考と、民間人を巻き込むことへの矜持という、二つの相反する感情が、激しく渦巻いた。


 この少女の力なくして、白沢村の解放は、不可能に近い。だが、彼女を、この地獄のような戦場に引きずり込んで、良いものか。


 その、ダリウスの葛藤を、ノエルの、静かな問いかけが、打ち破った。

「あなたは、まだ、女は戦場に立つべきではないと、思っていますか?」


 その言葉は、ダリウスの心の、最も深い場所に、鋭く突き刺さった。


 五年前、自分が、深く考えもせず、ただの常識として口にしてしまった、あの言葉。


 この少女は、ずっと、その言葉を、心の棘として抱え続けてきたというのか。

 彼は、自らの未熟さを、心の底から恥じた。


 ダリウスは、深く、息を吐いた。そして、一人の人間として、目の前の少女に、その黒い瞳を真っ直ぐに見つめ返すと、静かに、頭を下げた。

「……いや。俺が、間違っていた。君の力を、貸してほしい」


 その、ダリウスの謝罪と、懇願の言葉。

 それが、五年間、二人を隔てていた、見えない壁を、完全に溶かした瞬間だった。


 その直後、森の木々の間から、カイが、音もなく姿を現した。

「帝国の兵隊は、始末してきたぞ。……隊長さんと、ひよっこ。こんな所で、逢い引きかい?」


 カイの軽口に、ダリウスは、目を見開いた。

 追跡してきた帝国兵は、五人。それを、この男は、たった一人で、一切の戦闘音を立てずに、始末したというのか。


 鉄の街道。その、底知れない実力を、彼は改めて認識した。


 ◇


 時を同じくして、白沢村では、『竜の咆哮』が、帝国軍の厳重な警備網に、舌を巻いていた。


「ちっ、こりゃ、思った以上に厄介だな」

 アッシュが、民家の屋根裏から、眼下の通りを巡回する帝国兵の小隊を見下ろしながら、小声で呟く。


「昼間の突撃は、無謀だったわね。完全に、軍隊の動きよ」

 イリスも、悔しそうに唇を噛んだ。


 彼らは、昨日の廃墟の村での戦闘の後、一度森へと退き、離脱する帝国兵を追って、この帝国軍の本拠地の村へと潜入していた。

 目的は、帝国軍指揮官の暗殺。それこそが、Aランクへの最短距離だと、彼らは信じていた。


 しかし、村の警備は、彼らの想像を絶していた。新しい、建てられたばかりのような見張り塔、巡回兵、そして、村の要所に巧みに配置された、見えざる罠。

 それは、一個のパーティーがどうにかできるレベルのものではなかった。


 彼らは、次の手を打てずにいた。


 功を焦ったグレンが、見張り兵の一団に無謀な突撃を仕掛けたのは、必然だった。


 そして全員が飛び出さざるを得ない状況で、突然、近接戦が始まった。


 帝国軍は無謀に攻めず、また、統制の取れた戦術で翻弄してくる。


 長くは持たなかった。

 イリスは敵兵の放った矢で肩を傷つけ、シンも魔力を消耗しきっていた。

 命からがら村の外れまで逃げ延びたものの、もはや彼らに、戦闘を続行する力は残っていなかった。


「……くそっ」

 グレンは、自らの未熟さに、地面を殴りつけた。


 その、絶望と無力感に打ちひしがれる彼らの前に、その男は現れた。


 一人の、黒いローブを纏った男。帝国軍の切り札、炎の魔道士。


「……ちっ、最悪のタイミングで、化け物のお出ましとはな」

 アッシュが、自嘲気味に呟く。


 グレンが、最後の力を振り絞って盾を構えようとするのを、炎の魔道士は、静かな手つきで制した。


「……戦う気はない。俺も、帝国軍を倒しに来ただけだ」


 その瞳には、かつてのような、荒々しい怒りの色はなかった。ただ、自らの罪を背負い、覚悟を決めた者の、静かな光だけが宿っていた。


「お前たちも同じだろう?……しかし、お前たちだけでは、指揮官の首は獲れん。奴らの狙いは、陽動だ。それに乗じて、俺が道を切り開く。……ついてくるか?」


 アストルは、彼らを『使える駒』と判断し、自らの計画へ取り込むことにしたのだ。当の竜の咆哮は、他に選択肢もなく、その提案を受け入れるしかなかった。


 ◇


 白鴉隊の、作戦準備地域。


 そこに、連合軍の全ての主力が、一堂に会していた。


 ダリウスは、ノエルを案内し、白鴉隊に帰来した。程なくして、カイに連れられ、バルガスたち『鉄の街道』も合流した。


 ダリウスは、集まった仲間たちを前に、自らが偵察した情報と、夜襲作戦の概要を語った。


「……敵の兵力は、我々の十倍近い。だが、夜陰に乗じて、指揮官の首さえ獲れば、勝機はある」


 その、悲壮な覚悟に満ちた作戦。

 ノエルは、それを静かに聞いていた。そして、ダリウスが話し終えるのを待って、彼女は、口を開いた。


「……その作戦では、勝てません」


 彼女は、ダリウスの地図を一瞥するなり、即座にその欠陥を指摘し、彼女自身の、より完璧な作戦構想を澱みなく語り始めた。


 その、あまりにも的確で、全体を俯瞰した作戦説明。その口調、思考の癖、そして、時折見せる、僅かな仕草。

 それは、彼が王都で毎日目にしていた、一人の天才参謀のそれと、あまりにも、酷似していた。


(この思考の流れ…この言葉の選び方……まるで、リナそのものではないか……。いや、それ以上に、完成されている…? まさか……)


 ダリウスの脳裏に、全てのピースが、一つの、信じがたい、しかし、唯一の結論へと、収束していく。


 辺境の軍師『レイヴン』。それはノエル。

 白鴉隊の天才参謀。それはリナ。


 そして、リオの報告書にあった、レイヴンの唯一の肉親として記されていた、『姉、クレア』という一句。


(……だとしたら、二人は―――)


 ダリウスは、目の前で、淡々と、しかし情熱的に作戦を語るノエルの顔と、ここにいない、聡明な参謀リナの顔を、交互に思い浮かべた。


 そして、二人が、血を分けた姉妹であるという、信じがたい、しかし、揺るぎない結論にたどり着き、戦慄した。


 その、衝撃の表情を、ノエルは、不思議そうに、見つめ返していた。

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