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【第三部開始】『辺境の軍師』~職能ギルドの受付嬢は、戦術の知識で静かに世界を救いたい~  作者: かわたん
第ニ部 第五章 真実

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第54話:戦場の残響と、老兵の祈り

 森は、再び戦いの匂いに満ち始めていた。


 ダリウスが陣を構えた場所から、そう遠くない事件跡地では、帝国軍指揮官が、舌打ちと共に新たな命令を下していた。


「アストルの追撃部隊はまだか! 無能どもめ!」


 彼の苛立ちは、思い通りに進まない戦況と、制御不能となった駒への侮蔑から来ていた。

 彼は、この地の戦いを早々に切り上げ、白沢村の『成果』を本国へ持ち帰ることしか考えていない。


 その彼の視線の先、森の入り口付近に、新たな部隊が現れた。数は五人。先程までの王国軍とは明らかに違う、統率の取れていない、しかし個々の戦闘能力だけは高そうな、奇妙な一団だった。


「……またハエか。まあいい。残りの兵で、遊んでやれ」


 指揮官は、興味を失ったように呟いた。


 ◇


 戦場に到着した『竜の咆哮』は、眼下の光景に息をのんだ。


 黒く炭化した集落跡、そしてそこに陣取る、黒い軍装の帝国兵。


「……間違いない。帝国軍だ」

 グレンが、盾を構えながら低い声で言う。

「ここは王国の国土だろ? 何で奴らが好き勝手してるんだよ!」

 彼の瞳には、若く、純粋な正義の炎が燃えていた。


「へっ、面白え。Aランクへの腕試しには、ちょうどいい相手じゃねえか」

 アッシュが、軽口を叩きながら二本の曲刀を抜く。


「シン、派手に一発、かましてやれ!」

「……言われるまでもない」

 坊主頭の魔法使いシンは、両手に魔力を集中させ始める。

 その力は、ニューログレインにいた頃よりも、明らかに洗練され、そして禍々しさを増していた。


「――行くぞ!」

 グレンの号令と共に、五人は、まるで一陣の嵐のように、帝国軍の陣地へと突撃した。


 グレンの巨大な盾が、帝国兵の槍衾を弾き飛ばし、アッシュの双剣がその隙間を縫って敵兵の喉を掻き切る。

 イリスの槍が、予測不能な軌道で防御網の側面を突き崩し、フェリシアの祈りが、仲間の傷を癒し、その士気を鼓舞する。


 そして、シンの詠唱が完了した瞬間、戦場に巨大な真空の風が巻き起こり、帝国兵の一団を轟音と共に飲み込んだ。


 個々の戦闘能力は、圧倒的だった。

 しかし、帝国軍指揮官は、全く動じていなかった。


 帝国軍指揮官は、丘の上からその様子を冷ややかに見下ろしたまま冷静に指揮する。


「――第二陣、前に盾! 横隊陣、槍衾を維持しつつ、後退!」


 指揮官の号令一下、帝国軍は、崩れかけた前線を即座に再構築する。

 それは、個人の武勇を、組織の力で完全に無力化する、冷徹な軍隊の戦術だった。


 盾兵が壁を作り、その隙間から槍が繰り出され、後方からは弓兵の支援射撃が不意に降り注ぐ。


 竜の咆哮は、その鉄壁の陣形を前に、攻めあぐねていた。

 指揮官を狙おうにも、幾重にも張られた防御網が、それを許さない。彼らは、初めて、個の力の限界という、分厚い壁に直面していた。


 ◇


 アストルとノエルが逃亡した森の奥。


 アストルを確実に捕捉撃滅するため、帝国軍から分遣された二十名の精鋭小隊は、定石通り罠を警戒しながら、慎重に前進していた。


 その彼らの頭上を、一本の矢が、風切り音も立てずに通り過ぎ、最後尾の兵士の喉を正確に射抜いた。


「っ!? 敵襲!」


 小隊が混乱気味に叫ぶ。

「ちっ! 王国軍か!」


 その声に応えるかのように、今度は側面から投擲槍が飛来し、盾兵の隙間を抜けて、別の兵士を地に倒す。


 帝国兵たちは、見えざる敵の存在に、恐怖し始めた。


 その森の奥、木々の陰で、バルガスは、にやりと獣のような笑みを浮かべていた。

「へっ、素人どもが。カイの庭で、鬼ごっこなんざ、百年早えんだよ」


 エルラとレオンの常に移動しながらの陽動が、帝国軍に「敵は多数」と誤認させ、その足を完全に森に縫い付けていた。


 しかし、数合の矢を受けた帝国軍の小隊長は、その鏃の形状を見て眉をひそめた。


 軍で使われる、人体に最大の苦痛を与えるための、えぐれたような形状ではない。これは、獣の硬い皮を貫くための、狩猟用の鏃だ。


「……ちっ、王国軍の正規兵ではなかったか。脅しおって……」


 小隊長は敵が少数であることを見破ると、叫んだ。

「怯むな! 相手はただの猟師だ、数は少ない! 固まって、一点突破するぞ!」


 帝国兵たちが、覚悟を決めて突撃を敢行しようとした、まさにその瞬間。


 彼らの背後の森から、音もなく、八つの影が躍り出た。


 漆黒の軍装に身を包んだ、南の戦場から到着したばかりの白鴉隊の戦闘小隊主力。


 彼らは、もはや軍人ではなかった。戦場を舞う、死の精霊。


 一人が騎乗したまま帝国兵の注意を引きつけ、下馬した別の二人が、その死角から音もなく首を狩る。敵が認識する暇を与えることもなく。


 それは、戦闘ではなく、ただの蹂躙だった。


 鉄の街道の面々が呆然と見守る中、二十名いたはずの帝国軍小隊は、わずか数分のうちに、声もなく、全滅していた。


 戦闘が終わり、森に再び静寂が戻る。

 そこに、ジルバスティードに乗ったナルが、静かに姿を現した。


「……ナルか。生きていたか」

 カイが、短く声をかける。

「ああ。お前たちも、相変わらずだな」


 多くを語らずとも、互いの実力を認め合う、プロ同士の短い会話。

 ナルは、彼らがなぜここにいるのかを簡潔に問い、カイは「ひよっこを追ってきた」とだけ答え、ナルは、ただ小さく頷いた。


「……そうか。ならば、俺たちの目的も同じかもしれん」

 ナルはそれだけを言うと、馬首を返し、森の奥へと消えていった。


「おい、どこへ行く!」

 バルガスの問いに、ナルの声だけが返ってきた。

「……俺は傭兵だ、俺は俺の仕事をやるだけだ」


 戦闘を終えた白鴉隊の小隊長は、周囲の痕跡を冷静に分析していた。

「……本隊の斥候が残した印だ。隊長は、東へ向かったか。我々も合流する。行くぞ」


 彼らもまた、鉄の街道に一瞥もくれることなく、騎乗して森の中へと消えていく。


 残されたバルガスは、苦々しく吐き捨てた。

「ちっ、相変わらず、食えねえ奴らだ。……だが、あのひよっこは、ルミアと一緒のはずだ。軍隊がどう動こうが、俺たちのやることは変わらねえ。行くぞ、野郎ども!」


 鉄の街道は、ただ一人の大切な仲間を救うため、ルミアの足跡が続く方向へと、再び森の中を駆け出した。


 ◇


 避難地へと向かう、森の道。

 クレアは、深い眠りの中で、夢を見ていた。


 燃え盛る故郷。逃げ惑う人々。そして、手を離してしまった、幼い妹の、絶望に歪んだ泣き顔。

 『ごめんね、ノエル……ごめんね……』

 夢の中で、彼女は何度も、何度も、謝り続けていた。


 その時、ふと、夢の中の風景が変わる。

 そこは、領都アウロラの、活気あふれる市場。


 屋台で売られている、銀の鏡のレプリカ。


 なぜだろう。それを見ると、胸が、温かくて、苦しくなる。


 『本当の銀の鏡は、心の中にあるのよ』


 誰かの、優しい声が聞こえる。


 ――誰の声?

 思い出せない。


 でも、その声は、私の全てを、肯定してくれている気がした。


 クレアの寝顔が、ほんの少しだけ、穏やかになったのを、隣を歩くリノレアだけが、気づいていた。


 ◇


 森の中に、夜の帳が降り始める。


 ノエルとアストルは、帝国軍の追手を逃れ、森の奥深くにある、小さな洞窟で、息を潜めていた。


 焚き火の、か細い光が、二人の横顔をぼんやりと照らし出している。


 ノエルの肩の矢は抜かれ、アストルによる治療で、少しずつ痛みは引きはじめていた。


 長い、長い沈黙の後、アストルが、静かに口を開いた。


「……なぜ、俺を止めようとした」


「……あなたは、戦いたくなど、ないはずだからです」

 ノエルの答えは、静かだったが、確信に満ちていた。


「あなたは、ただ、守りたかっただけ。……私と同じように」


 その言葉に、アストルは再び焚き火の炎に目を落とす。


 彼は、初めて、自らの胸の内を、この不思議な少女に、ぽつり、ぽつりと語り始めた。


 ――力の暴走、失われた故郷、リノレアとの約束。


 ノエルは、ただ、黙って、その言葉に耳を傾けていた。


 全てを聞き終えた後、彼女は、静かに言った。


「……あなたの力も、私のこの知識も、きっと、それだけでは足りないのです。でも、二つが合わされば、何か、正しい使い方が見つかるかもしれない。私は、それを見つけたい。だから……、私も、行きます」


 その、あまりにも真っ直ぐな瞳。

 アストルは、その瞳の中に、自分が失ってしまった、未来への、強い光を見た気がした。


 彼は、何も答えなかった。


 ただ、静かに、焚き火の炎を見つめている。しかしその横顔には、もう、絶望の色はなかった。


 すでに暗くなった洞窟の入り口で休んでいたルミアは、静かに立ち上がった。


 彼女は、夜の闇が支配する森に向かって、短く、しかし澄んだ声で、一度だけ嘶いた。

 それは、威嚇でも、警戒でもない。遠く離れた仲間への呼びかけのような、深い信頼に満ちた声だった。


 しばらくすると、月明かりも届かない森の奥の闇の中から、一つの騎馬がゆっくりと姿を現した。


 帝国軍か、あるいは王国軍の追手か。

 気配をうかがっていたアストルが咄嗟に身構え、ノエルもまた、痛む肩を押さえながら、緊張に身を固くする。


 しかし、闇の中から現れたのは、そのどちらでもなかった。


 使い古された革鎧に、白くなった髭。その顔には、深い皺が刻まれているが、その瞳は、夜空の星々のように、穏やかで、そして揺るぎない光を宿していた。


 ジルバスティードに乗った、アウロラの老戦士だった。


 彼は、アストルの警戒を意にも介さず、ただ、その隣で傷を癒すノエルの姿を認めると、驚きも、敵意も見せなかった。


 その表情にあったのは、安堵と、そして、長年探し求めていた何かについに出会えたかのような、深く、そして慈しみに満ちた眼差しだった。


 老戦士は、静かに頷いた。


 その一瞥だけで、ノエルとアストルは理解した。この男は、敵ではない、と。


 アストルが警戒を解き、ノエルが安堵の息をつく。


 三者の、運命的な邂逅。それを、洞窟の入り口で、二頭の銀色の馬が静かに見守っていた。


 ―――第二部 第五章 完―――

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