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【第三部開始】『辺境の軍師』~職能ギルドの受付嬢は、戦術の知識で静かに世界を救いたい~  作者: かわたん
第ニ部 第五章 真実

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第53話:父の背中と、王国の罪

 森は、再び静寂を取り戻していた。

 先程までの戦闘の喧騒が嘘のように、今はただ、風が木々の枝を揺らす音と、遠くで聞こえる鳥の声だけが、冬の始まりを告げる冷たい空気の中を漂っている。しかし、その静寂は、安らぎではなく、次なる嵐の前の、息詰まるような緊張感をはらんでいた。


 リノレアと数人の森の民が、意識のないクレアを担架に乗せ、森の奥深くへと急いでいた。

 その最後尾を、セドは歩いていた。狩人としての長年の経験が、背後から近づく複数の気配を、正確に捉える。それは、帝国兵のそれとは違う、より統制の取れた、静かなる脅威の気配だった。


「リノ、クレアを頼む。俺が時間を稼ぐ」

 セドの声は、低く、落ち着いていた。家族を守るという、ただ一点において、彼の心に迷いはなかった。


「無茶よ、あなた!」

「奴らはクレアを追っている。無益な殺しはせんだろう。それに……」


 セドは、自らの動かない右腕を一度だけ見た。

「……今の俺にできるのは、これくらいだからな」


 その、あまりにも静かな覚悟。リノレアは、言葉を飲み込んだ。


 そのセドの肩を、白髪の年配の森の民――カイリが、静かに掴んだ。

「セド殿、一人では無謀です。私も行こう。言葉の通じぬ相手には、言葉の分かる者が必要じゃろう」


 カイリは、穏やかだが、有無を言わせぬ瞳でセドを見つめる。彼は、この森の民の避難地における、事実上の長老だった。セドは、その申し出を無言で受け入れると、リノレアたちに目配せをし、二人、森の中へと引き返していった。


 ◇


 森の中ほど、少しだけ開けた場所に、ダリウス・アイゼン率いる白鴉隊の残存部隊は、慎重に歩を進めていた。彼の胸中を占めるのは、ただ一つの目的だった。参謀であるリナの安全を確保し、彼女の家族と接触することで、五年前から続く謎――そして、あの『レイヴン』へと繋がる真実の糸口を掴むこと。


 斥候として先頭を進んでいたリオが、すっと手を上げて部隊を停止させる。

 前方の木々の切れ間に、二つの人影が静かに立っていた。

 片腕の男と、白髪の老人。二人とも、武器を構えてはいない。しかし、その佇まいは、まるで森そのものが意思を持って、行く手を阻んでいるかのような、侵しがたい威厳に満ちていた。


「止まれ。これ以上、森の奥へは行かせん」

 セドの声には、長年、辺境の厳しい自然と対峙してきた者だけが持つ、揺るぎない響きがあった。


「我々は王国軍だ。敵意はない」


 ダリウスは歩みを止め、冷静に告げた。


「君は……我々が一月前に保護した女性――リナの父親か? 容姿が、あまりにも似ている」


 セドの眉が、侮蔑と怒りに歪んだ。

「クレアは私の娘だ。貴様らのような戦争屋に、この子の未来を委ねられるか」


 クレア……。ダリウスの脳裏に、先ほどの戦場で響いた、あの母親らしき女性の絶叫が蘇る。

 そして、目の前の父親の、参謀リナと瓜二つの面影。

 最後に、辺境の軍師『レイヴン』の身辺調査をリオに命じた際、その報告書の中にあった、彼女の唯一の肉親として記されていた『姉、クレア』という一行。点と点が、今、一つの悍ましい真実の線で繋がった。


「さっき伝えたとおり、我々が彼女を保護したときには、既に記憶を失っていた。今は我々の軍で働いてもらっている……」


 ダリウスの言葉を遮るように、セドの告発が、冬の空気を切り裂いた。


「我々の軍だと!? 王国軍が、我らを見捨てておきながら、どの口がそれを言う!」


 セドは一歩前に出た。その瞳は、怒りと悲しみに燃えていた。


「我らの村――白沢村は、数ヶ月前に帝国に占領された。捕まった者たちは、毎日、奴隷のように働かされている! それを知りながら、なぜ軍は我らを助けに来なかった!」


 その言葉は、ダリウスの胸を、鋭い刃のように貫いた。


 彼が王都で掴んでいた情報は「辺境の村が、帝国との小競り合いの末に、戦略的価値なしと判断され、放棄された」という、あまりにも無機質な報告書だけだった。

 住民が奴隷のように。その生々しい現実を、彼は全く知らなかった。知されていなかったのだ。


 激昂するセドを、隣に立つ老人が、静かな手つきでなだめた。


「セド殿、落ち着かれよ。目の前のこの男が、全てを知っていたわけではあるまい」

 老人は、ダリウスへと向き直る。その、深い森の湖のような黒い瞳は、ダリウスの魂の奥底まで見透かすようだった。


「ダリウス・アイゼン殿、とお見受けする。あなたの噂は、我らの耳にも届いておるよ。森の者たちを、ただの駒ではなく、対等な協力者として扱われる、と。……その噂が真であれば、我らも、無益な争いは望まぬ」


 ダリウスが森の民を協力者としていることは、彼の部隊の最大の機密であり、切り札だった。

 老人の、そのあまりにも的確な言葉。ダリウスは、自らの部隊の最大の機密を、この老人がどこまで知っているのか、一瞬、戦慄した。


 そして、老人の言葉が終わると、リオが静かにダリウスの隣に進み出る。

 リオは、おもむろにフードを外し、自らの黒髪黒目をセドと老人に示すと、森の民だけが使う古い挨拶の仕草――片手を静かに胸に当ててみせた。


「……!」

 セドは、リオが同胞であることに驚き、言葉を失う。老人は、静かに頷くと、その目に、ダリウスという男を試すかのような光が宿る。


 ダリウスは、セドの告発と、老人の理知的な態度、そしてリオの存在から、全ての状況を瞬時に再評価した。


 五年前の集落での虐殺。数ヶ月前の西の森の村――白沢村の占領。そして、帝国が銀を集めている情報。


 彼は、もはや一介の指揮官としてではない。この国が犯した罪を、その一部として背負う者として、セドの前に立つと、深く、深く、その頭を下げた。


「……申し訳ない。情報が、ここまで歪められていたとは……。俺は、王国軍大隊長ダリウス・アイゼン。リナ……いや、クレア殿の安全、そして、白沢村の民の解放を、この白鴉の旗にかけて、必ず成し遂げると誓おう」


 その、あまりにも真摯な謝罪と、揺るぎない誓い。

 セドは、怒りのやり場を失い、ただ唇を噛み締める。老人は、ダリウスの瞳の奥に、偽りのない覚悟の色を見て取った。


「……分かった。あなたの言葉を、今は信じよう」


 老人は、苦渋の表情を浮かべるセドを促し、ダリウスに告げた。


「クレアは、我らの『避難地』で保護させていただく。軍人殿を入れるわけにはいかぬ。……だが、そこの若者だけは、我らとあなた方を繋ぐ『目』として、同行を許そう。これが、我らにできる、最大限の譲歩じゃ」


 ◇


 ダリウスは、老人の提案を受け入れた。それが、現時点での最適解だと判断したからだ。


 彼は、別れ際にリオの肩を掴み、低い声で密命を下す。


「リナを頼む。そして、彼らの全てを――その目に焼き付けてこい」

「御意」

 リオは、静かに、しかし力強く頷いた。


 セドと老人、そしてリオが、森の奥深くへと消えていく。


 残されたダリウスは、冷徹な指揮官の顔に戻ると、部下たちに鋭く命じた。

「これより、この場に迎撃陣地を構築する! 帝国軍の追撃部隊を、ここで完全に叩き潰すぞ! 半刻で準備を終えろ!」


 その声には、仲間を想う熱と、王国の罪を背負った男の、鋼のような覚悟が満ちていた。


 ◇


 避難地へと向かう、森の道。セドとリオ達は、リノレア達と合流し先を急いでいた。


 リノレアの献身的な治癒魔法が、クレアの傷ついた心身を、温かい光で包み込んでいた。


 その光の中で、クレアの意識が、深い海の底から浮上するように、ゆっくりと戻り始める。


 彼女は、朦朧としながら、目の前にいる母の顔も認識できないまま、ただ、心の奥――魂の奥底から湧き上がる一つの名前を、うわ言のように呟いた。


「……ノ……エル……」


 その、あまりにもか細く、しかし、切実な響き。

 隣を歩いていたリノレアとリオが、はっとした表情で、その声を聞き取った。


 ニューログレインでの防衛戦以来、ダリウスの命でノエルの動向を追い続けていたリオの脳裏には、先ほど戦場で見た、銀色の馬に乗り、炎の魔道士と対峙していた、あの黒髪の少女の姿が鮮明に蘇っていた。


 クレアは、その一言を最後に、再び深い眠りに落ちていく。

 だがその声は、確かに、この森に響いた。


 二つの運命を、再び結びつけようとする、か細く、しかし、決して消えない灯火のように。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


実は、こっそりと『ep.30 設定1』に挿絵を追加しました。その感想も……作者は読むと元気が出ます!


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