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【第三部開始】『辺境の軍師』~職能ギルドの受付嬢は、戦術の知識で静かに世界を救いたい~  作者: かわたん
第ニ部 第五章 真実

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第52話:裏切りと、二人の異端者

 戦場を少し離れた丘の上から、帝国軍指揮官は眼下の光景を冷徹に観察していた。


 伝令兵が駆け寄り、息を切らしながら報告を続ける。

「――以上が、現状です。王国軍の部隊は、依然として中央で抵抗を続けていますが、我々の包囲下にあります。炎の魔道士アストルは……現在、目標と膠着状態に」

「分かっている」


 指揮官は、手にした望遠鏡で、銀色の馬上の少女と、それと対峙するアストルの姿を捉えていた。


「アストルめ、手間をかけさせおって……」


 彼の呟きには、苛立ちよりも、もはや用済みとなった駒を処分する前の、静かな侮蔑が滲んでいた。


「増援部隊を再配置し、あの忌々しい王国軍のハエどもを完全に包囲しろ。アストルの動向は、引き続き監視。奴が我々の意に反する動きを見せれば……その時は、分かるな?」

「はっ!」


 伝令兵が駆け去り、指揮官は再び望遠鏡を覗き込む。彼の描く盤上では、アストルという駒は、既に黒く塗りつぶされていた。


 その視線の先、戦場の中心で、ダリウス・アイゼンは、帝国軍の増援がもたらした一瞬の静寂を、絶体絶命の包囲網から脱出するための、唯一の好機であると瞬時に判断した。


「リオ、敵増援の配置は?」

「西側に厚く、東側が手薄です。おそらく、我々の退路を断つつもりかと」


「……だとすれば、奴らの意識は、新たに出現したあの少女と、制御を離れつつあるアストルに集中している。今しかない」

 ダリウスの思考は、数秒の間に最適解を弾き出す。


 彼は、リオと戦闘班にだけ聞こえるよう、鳥の鳴き声を模した口笛で、極秘の撤退命令を断続的に発した。それは、複数の音階を組み合わせた、白鴉隊だけが理解できる複雑な暗号だった。


(―――全隊、離脱準備。敵の再配置中の好機に、南東の森へ抜ける。戦闘班、壁を盾に躍進。残余、馬を東へ放ち、敵の視線を誘導。目標、先ほどのリナの両親らしき者たちの追跡……)


 リオが頷き、戦闘班の兵士たちが、まるで示し合わせたかのように、僅かに陣形を変える。


 一人が馬の手綱を操り、空馬が東へと駆け出すと、帝国兵の意識がそちらへ一瞬向いた。

 その、ほんの僅かな隙を突き、白鴉隊は、まるで森に溶け込むように、音もなく後退を開始した。その動きは、もはや軍隊のそれではなく、一つの影が分裂し、闇へと吸い込まれていくかのようだった。


 ◇


 ダリウスたちの撤退準備にも気づかず、アストルは、目の前の少女と対峙していた。


「――炎の魔道士。悪意を納めよ!」

 ノエルの、凛とした宣言。その言葉に、アストルの怒りが再び燃え上がる。


「人間に何が分かる! 聖域を穢す貴様らに、その言葉を口にする資格はない!」


 その時、森の東側へ、数頭の空馬が駆け抜けていくのが見えた。


 王国軍の陽動か。アストルは一瞬だけそちらに意識を向けたが、すぐに目の前の少女へと視線を戻した。


 当初は、邪魔をする者としか見ていなかった。しかし、王国軍が忽然と姿を消した今、この少女だけが、まるで自分を試すかのように、そこにいる。


 陽動か? いや、違う。この少女の、あまりにも真っ直ぐな瞳は、本気だ。アストルは葛藤した。


 ――リノレアに託された娘。

 ――守るべき対象。


 しかし、彼女もまた、この聖域を穢す『人間』なのだ。帝国の掲げる正義のために、自分は戦わねばならない。その決意は、まだ揺らいでいなかった。


 その時ノエルは、彼の怒りの奥にあるものを、魂で感じ取っていた。


 それは、純粋な憎悪ではない。自らの力への恐怖、失われたものへの悲しみ、そして、どうしようもない自己嫌悪。

 あまりにも深く、そして孤独な苦悩の気配だった。


 彼女は、恐れなかった。ただ、静かに問いかける。

「……あなたも、苦しんでいるのではありませんか?」


 その一言が、アストルの心の鎧を貫いた。


「その力は、あなたの意志ではない。あなたは、誰よりも、この場所の平穏を願っている。……違う、と言えますか?」


 アストルの脳裏に、力の暴走によって失った家族の顔と、リノレアの『あなたは一人ではないわ』という言葉が、嵐のように駆け巡る。彼の瞳から、純粋な怒りの色が、激しく揺らぎ始めた。


 その一瞬の揺らぎを見逃さず、ノエルは確信する。


(この人は、敵じゃない。私と同じ、この世界で、自分の力と居場所に苦しんでいる人だ……)


 その確信は、遠い場所にいる母リノレアが、アストルを『守るべき息子』と感じた、あの温かい感情と、奇妙なほどにシンクロしていた。


 ◇


 二人の魂が、触れ合おうとしていた、まさにその瞬間。

 丘の上の帝国軍指揮官が、白鴉隊の撤退に気づいた。


「逃がすか! 半数は奴らを追え!」


 彼の命令で、帝国兵の一部が、森の奥へと消えていく。無慈悲な軍靴の音が、二人の間の聖なる静寂を打ち破った。


 アストルは、追撃部隊を横目で確認する。だが、彼の意識は、目の前の少女が投げかけた、魂の問いに完全に囚われていた。


 指揮官は、そのアストルの姿を見て、彼が完全に制御不能になったと判断した。

「――もう、使えんな。アストルもろとも、あの小娘を始末しろ」


 非情な命令が、戦場に響く。


 帝国兵の一人が、狙いを澄まし、ノエルの胸元――その心臓へと、必殺の一矢を放った。矢は、唸りを上げて、ノエルへと吸い込まれるように飛来する。


 矢がノエルの胸に命中する、まさにその寸前。


 彼女が纏う、ハンナから譲られた少しぶかぶかのローブが、まるで自らの意志を持つかのように、ふわりと風をはらんで膨らんだ。

 ローブに込められた、ハンナのか細く、しかし心のこもった『風の護り』の魔法が、直撃の瞬間に発動する。それは、矢を完全に防ぐほどの力はない。しかし、その僅かな風の抵抗が、矢の弾道を、コンマ数ミリ、心臓から逸らした。


 結果、矢は心臓を外れ、ノエルの左肩を深く貫く。


 初めて受ける、純粋な殺意の塊。

 肉を抉り、骨にまで達する、焼きごてを押し付けられたような激痛。

 それは、これまでの人生で経験したことのない、異質な痛みだった。鏃に施された返しが、神経をさらに掻き乱し、戦意そのものを根こそぎ奪い去っていく。


(……痛い…熱い…息が、できない…)


 意識が、急速に白く染まっていく。朦朧とする思考の中で、五年前の、あの森の記憶が、冷たく蘇った。


『――女は戦場に出るべきではない』


 あの斥候の言葉は、正しかったのかもしれない。私は、結局、何もできない、ただの無力な少女だったのかもしれない……。


 ノエルは、力なくルミアの背に倒れ込む。鞍に結ばれた遊牧の民の馬にだけつけられた腰紐――エレウストラップだけが、彼女の体をかろうじて支えていた。


 ―――


 その光景と、同時に自分へと向けられた複数の弓を見て、アストルの思考は一瞬、凍りついた。


 信じていた帝国に、裏切られた。いや、最初から自分は、ただの道具だったのだ。

 その葛藤の末、ついに彼の心の中で、純粋な怒りが沸き起こった。


 彼の怒りは、もはや聖域を穢されたことに対してではない。リノレアから託された『希望の娘』を、そして、自分と同じ孤独を理解しかけた唯一の存在を、目の前で傷つけられたことに対する、守護者としての怒りだった。


「――貴様らぁっ!」


 畳みかけるように降り注ぐ帝国軍の矢。それを、アストルの放った劫火が一瞬で灰に変える。


 彼は思考する。信じていた帝国に、裏切られた。いや、最初から自分は、ただの道具だったのだ。その事実は、彼の心を絶望の淵へと突き落とした。

 だが、今は感傷に浸っている場合ではない。


 目の前には、リノレアから託された『希望の娘』が、敵の非情な矢に倒れている。

 彼女の言葉が、脳裏で反響する。『あなたも、苦しんでいるのではありませんか?』。


 そうだ。俺は、もう道具ではない。俺は、俺の意志で、守りたいものを、守る。


 彼は、負傷したノエルを守り、この場から離脱させることを最優先事項として再設定した。そして、先ほど帝国兵が白鴉隊を追撃するために開けた、包囲網の僅かな隙間を思い出す。


 あそこしか、活路はない。


 残る魔力の全てを、一点突破の巨大な炎の壁へと変え、追撃してくる帝国兵の進路を焼き払った。そして、ノエルが乗るルミアに向かって叫ぶ。

「こっちだ! 生きたければ、ついてこい!」


 アストルが切り開いた活路へと、ノエルを乗せたルミアは、風のように続いていく。


 森の闇へと消えていく二人の異端者の背中を、残された帝国軍指揮官は「まあいい。これで厄介払いができた」と、冷酷に呟いた。

 彼は、態勢を整えると、部下たちに最後の指示を下す。


「これより、アストルの始末に移る。追撃部隊を編成!」


 ◇


 戦場から安全な距離まで離脱したダリウスは、部隊を停止させ、一度だけ、戦場の方角を振り返った。


 彼の脳裏には、あの銀色の馬と、その背にいた少女の、神々しいまでの威厳が焼き付いていた。

 斥候としての経験が、あの少女の動き、佇まい、そして、炎の魔道士すらも手玉に取るかのような胆力、その全てが、五年前の記憶と完全に一致することを告げていた。


「……リオ。見たか」

「はい。あの少女、そして、あの馬も……尋常ではありません」

「ああ……」


 ダリウスは、深く息を吐いた。それは、長年追い求めてきた謎の答えを見つけた安堵と、その答えが、あまりにも複雑で、危険な方程式の一部であったことを悟った、指揮官としての重い溜息だった。


 彼の口から、確信と、そしてこれから向き合わねばならない運命の複雑さを噛みしめるような、静かな呟きが漏れる。


「……やはり、あの時の少女(レイヴン)。だが、なぜ、炎の魔道士と共に……。一体、何が起きている……」

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