第51話:奔流と、月光
冬の始まりを告げる冷たい空気が、昼前の力ない陽光に照らされ、きらきらと舞っていた。
しかし、その光が照らし出すのは、黒く炭化した家々の残骸が巨大な墓標のように佇む、死の沈黙に支配された集落跡だった。
その中心で、二つの異なる軍装の者たちが互いに殺意をぶつけ合ったまま、奇妙な膠着状態に陥っている。
その全てを、戦場から少し離れた木々の陰から、リノレアは息を殺して見つめていた。帝国兵の包囲網、王国軍らしき精鋭たちの緊張、そして、その片隅でぐったりと倒れている、一人の女性の姿。
冬の光が、その顔を僅かに照らし出した瞬間、リノレアは息をのんだ。
間違えようがない、夢にまで見た、愛しい長女の姿だった。
アストルの炎が放たれる寸前。
リノレアの、驚愕と、絶望と、そして僅かな希望が入り混じった、魂からの叫びが、死にゆく森に響き渡った。
「―――クレアッ!!」
その声は、もはや人間の声ではなかった。
戦場の全ての音――剣戟の響き、帝国兵の怒号、矢が風を切る音――その全てを塗りつぶし、全ての者の鼓膜と魂を直接揺さぶる、母という生き物の、原初の咆哮だった。
リノレアは、後先を考えなかった。
白鴉隊と帝国兵が睨み合う、死線が幾重にも交錯する戦場のど真ん中を、彼女はただ一点、崩れた壁の陰で意識を失っている娘の元へと、一直線に駆け抜けた。
その動きは、もはや人間の疾走ではなかった。我が子を襲う脅威から守るため、風そのものと化した母という名の祈りだった。
「なっ……!?」
新たな乱入者に、ダリウスが即座に剣を構える。隣にいたリオもまた、その凄まじい気配に一瞬意識を向ける。
リオの、森の民としての鋭敏な感覚は、リノレアから放たれる凄まじい気配が、純粋な殺意ではなく、もっと根源的で、切実な何かであることを捉える。
しかし、彼の全神経は、集落の入り口で練り上げられていく、比較にならぬほど強大な魔力の奔流に集中していた。
動けない。アストルから目を離せば、その瞬間に全てが終わる。
リノレアは、帝国兵の剣先を紙一重で掠め、白鴉隊の防御網を幻のようにすり抜けると、ついにクレアの元へとたどり着いた。
「クレア…! 私のかわいい、クレア…!」
その体を強く、強く抱きしめる。セドもまた、娘を守る盾となるべく、その隣に仁王立ちになり、鋭い視線で周囲の全てを威嚇した。
戦場の中心で何かが起きた。だが、今の彼の目には、そんな些末な事象は映らない。
彼の心は、もはや聖域を穢された怒りという名の奔流に飲み込まれていた。
目の前にいるのは、王国兵も帝国兵も、女も男も関係ない。ただ、滅ぶべき『人間』がいるだけだ。
彼は、その場にいる人間ごと全てを浄化せんと、両手に圧縮された劫火の奔流を、戦場の中心へと解き放った。
ゴォォォッ、と。世界が白く染まるほどの、絶望的な光と熱。
だが、その奔流がリノレアたちを飲み込むことはなかった。
「――させるか!」
リオが両手を地面に突き立てる。彼の足元から、森の空気が渦を巻き、目に見えない巨大な突風の壁となって立ち塞がった。
劫火は凄まじい唸りを上げて風の壁に激突し、その軌道を無理やり天へと捻じ曲げられる。
そして、空に向かって、天を突くほどの巨大な『炎の柱』が立ち上った。
同時に、リノレアもまた、クレアを守るために、自らのありったけの魔力を解放していた。それは、アストルの劫火やリオの暴風に比べれば、あまりにもか細く、しかし、全てを包み込むような温かく淡い光の防御壁だった。
◇
天へと昇った劫火の奔流は、いまだ勢いを失わず、戦場に地獄の蓋をするかのように渦巻いている。
絶え間なく続く轟音と熱波が空気を歪ませ、全ての者の顔を血のように赤く照らし出していた。
その、全てが焼き尽くされかねない極限状態の中を、セドは一歩、前に出た。彼の背後では、リノレアがクレアの体をきつく抱きしめている。
彼の視線は、ただ一人、王国軍の指揮官らしき男――ダリウスだけを捉えていた。その瞳に宿るのは、純粋な怒りだけではない。辺境の民として長年抱き続けてきた、中央の権力者たちへの、どうしようもない不信と侮蔑だった。戦争を起こし、民を徴兵し、そして危険になれば容易く見捨てる者たち。彼らが、なぜこの神聖な場所にいる。なぜ、娘が彼らと共にいる。
「貴様ら、王国軍だな。なぜ、私の娘が……クレアが、お前たちと共にいる!」
その、地の底から響くような問い。ダリウスは、男の気迫に一瞬息を呑んだ。
ダリウスの目にまず映ったのは、男の異様な姿だった。右腕が、肘から先がない。それにも関わらず、その佇まいは、歴戦の戦士のように揺るぎない。
そして何より、その亜麻色の髪、日に焼けていない肌、そして意志の強い瞳の光は、今、女性の腕の中で眠る参謀リナと、瓜二つだった。
(……父親か。間違いない)
ダリウスは確信と共に、剣の切っ先を下げぬまま、冷静に応じた。
「彼女は、我々が保護した。記憶を失っている。名を、リナと……」
「記憶を……?」
セドの眉が、苦渋に歪む。記憶がない。その事実が、娘の身にどれほどの過酷な出来事が起きたかを物語っていた。守るべきものを持つ、二人の男。その視線が、熱風の渦巻く中で、激しく交差した。
◇
天を焦がす炎の柱は、遠く離れた西の村道からも、まるで不吉な狼煙のように見えていた。
馬上でその光景を捉えた『竜の咆哮』のリーダー、グレンは、手綱を引いて馬を止めさせた。
「おい、見ろよ。ありゃ、ただの山火事じゃねえぞ」
その瞳は、恐れよりも、獰猛な好奇心に輝いていた。
「まるで、天に昇る竜の咆哮だな。へっ、面白え」
アッシュが、曲刀の柄に手をやりながら、不敵に笑う。
「グレン、危険よ。あれは、私たちが関わるべき魔力の規模じゃないわ」
冷静なイリスの制止も、今のグレンの耳には届かない。
「……あれほどの力。相手にとって不足はない」
坊主頭のシンが、静かな闘志を燃やす。
神官であるフェリシアだけが、その禍々しい魔力の奔流に、胸騒ぎを覚えて静かに祈りを捧げていた。
「……ならば、狩るまで! 俺たちの名を轟かせる、またとない好機!」
グレンは叫ぶと、馬の腹を強く蹴った。一行は、名声という名の獲物を追い、森の奥深くへとその進路を変える。
◇
そこから、さらに森の奥深くへ入った場所。
『鉄の街道』の一行は、徒歩で森を駆けながら、突如として発生した魔力の衝撃波に足を止めた。
大地が揺れ、木々がざわめき、肌を焼くような熱波が襲いかかる。
「ちっ、この馬鹿でかい魔力……間違いない、ニューログレインの時の、炎の魔道士か!」
バルガスの顔が、怒りと焦燥で歪む。
「ひよっこが、また無茶なことに首を突っ込んでるに違いねえ!」
カイが、吐き捨てるように言った。さらに速度を上げて、森へ消える。
「ノエルちゃん、すぐ行くよ……」
エルラの声には、隠しきれない不安が滲む。
「……あの娘は、巻き込まれる体質か…… 放っておけん」
いつもは冷静なレオンの口から、珍しく感情の籠った言葉が漏れた。
「すぐそこだ、ここからは別行動! 全力だ! ……誰でもいいから、必ず間に合わせるぞ!」
バルガスは吠えると、再び森の奥深くへと駆け出した。
彼らを突き動かすのは、ただ一つ。かけがえのない仲間を案じる、焦燥にも似た一心だった。
◇
炎の柱が完全に消え、戦場は再び、奇妙な均衡を取り戻していた。
帝国兵たちは、目の前で起きた超常的な光景に、次の行動を決めかねている。
アストルは眉をひそめた。自らの劫火が、これほど容易く逸らされるとは。あの風使い……相当な手練れだ。そして、あの奥の、か細く脆い光の壁……。思考を巡らせるも、溢れるのは怒りのみ。
白鴉隊もまた、新たな敵の出現に、動けない。誰もが、次の一手を測りかねている、時が止まったかのような静寂。
その静寂を破ったのは、一つの、蹄の音だった。
それは、この殺伐とした戦場にはあまりにも不釣り合いな、軽やかで、リズミカルで、まるで風そのものが落ち葉の上を優雅に駆けてくるかのような、不思議な音。
燃え残る火の粉と、立ち上る煙の中から、その影は、まるで幻のように現れた。
月光をそのまま固めたかのような、淡く銀色に輝く毛並み。一頭のジルバスティードが、そこにいた。
銀の馬は、戦場の惨状など意にも介さず、優雅な足取りで歩を進めると、アストルとダリウスたちの、ちょうど中間点に、ぴたりと静止した。
その背には、一人の少女が静かに座っていた。
少し大き目のローブと、その艶やかな黒髪が、戦場の風に、静かになびいている。
彼女――ノエルは、怯えても、驚いてもいなかった。その黒い瞳は、目の前の炎の魔道士を、そして白鴉隊の精鋭たちを、まるで盤上の駒を検分するかのように、冷静に、そして冷徹に見つめていた。
その、あまりにもあり得ない、神々しくも異質な光景。
その場にいた全ての者の意識が、その一点に釘付けになった。
セドは、その奇跡的な静寂が生んだ一瞬の『隙』を見逃さなかった。
「……リノレア、今だ!」
セドの囁きに、リノレアは頷く。しかし、彼女はクレアを抱えながらも、本能的に、あの神々しい乱入者の姿を確かめようと、無意識に視線を向けた。
だが、その視線の先に、同行していた森の民の一人が、壁のように立ちはだかる。
「リノレア様! こちらへ! 道は確保しました!」
仲間の声に、リノレアは一瞬ためらうが、クレアの安全を最優先し、セドと共に森の奥深くへとその身を翻した。
彼らの耳には、誰のものとも知れぬ、凛とした少女の声が、風に乗って微かに届いていただけだった。
アストルが、ダリウスが、リオが、その神々しい光景に言葉を失う中、銀の馬が力強く嘶き、一瞬で戦場の全ての者を注目させた。
ノエルは、その中心で、恐ろしいほど冷静だった。
家族を失い、村を焼かれた絶望。ニューログレインで出会った、不器用で温かいギルドの仲間たち。ナルとの出会いで知った、自らの手で平和を掴み取ろうとする意志。明星祭で理解した、本当の強さは心の中にあるという教え。
そして、この場所へ私を導いた、ルミアの静かな瞳。
これまでの全てが、一つの線となって繋がる。私にできること。私が、ここで、やるべきこと。それは、この不幸の連鎖を、自らの意志で断ち切ること。
思考の時間は、一瞬。しかし、その決意は、鋼のように固い。ただ一つ、誤算があったとすれば、この後の離脱計画が、全くの白紙であることくらいだろうか。
ノエルの、静かだが、戦場全体を支配するような声が、響いた。
それは、アウロラを発つ前の彼女からは想像もつかない、軍師としての、揺るぎない威厳に満ちていた。
「――炎の魔道士。悪意を納めよ!」
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