第50話:聖域と、母の祈り
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【新章開始】です。
第二部 第五章『真実』
ここから、物語は大きく動き出しますので、ぜひお見逃しなく!
冬の始まりを告げる冷気が、朝靄と共に森の底に沈んでいた。
リナが記憶の奔流に耐えきれず、馬上から崩れ落ちた、その僅かな隙。彼女の悲痛な声の残響が消えやらぬうちに、森は再び、全ての音が死に絶えたかのような不気味な静寂に包まれた。
ダリウスは、倒れたリナと、黒く炭化した家々の残骸が墓標のように佇む周囲の光景を交互に見やり、唇を噛む。この地に漂う拭い去れない悲しみが、部隊の集中を僅かに、しかし確実に乱していた。
その、張り詰めた糸が切れるかのような一瞬の静寂。それを無慈悲に引き裂いたのは、鋭く空気を切り裂く、一本の矢だった。
ダリウスの鋭い声が死の森に響き渡るよりも早く、その一本の矢は風を切り裂き、彼の喉元へと正確に飛来した。
キンッ、と硬質な音。ダリウスが咄嗟に抜き放った剣が、その必殺の一矢を寸前で弾き返す。しかし、それは始まりの合図に過ぎなかった。指揮官への狙撃を皮切りに、森の全方位から無数の矢が放たれ、白鴉隊へと襲いかかる。それはもはや雨ではなく、獲物を確実に仕留めるための、統制された鉄の嵐だった。
「下馬! 円陣を組め!」
ダリウスの号令一下、白鴉隊の動きは淀みない。馬上で身を翻した戦闘班の四人が、地に降り立つと同時に、まるで一つの生き物のように円陣を形成する。
彼らの剣が閃くたび、降り注ぐ矢は甲高い音を立てて弾き返され、あるいは正確に斬り落とされていった。
それは、攻撃的なまでの、完璧な迎撃だった。
「隊長、リナを!」
リオの声に、ダリウスは意識を失ったリナの体を引き寄せる。その背後を、残りの隊員が揺るぎなく守っていた。
「リオ、彼女を壁の陰へ! 敵の数を探れ!」
「御意!」
ダリウスの指示を受け、リオはリナを軽々と抱え上げると、崩れかけた民家の壁跡へと、矢の雨の中を風のように駆け抜けた。
ダリウス自身も剣を抜き、円陣の外周を固める。彼の斥候としての本能が、この包囲網の異常さを告げていた。
(……数が多すぎる。それに、練度も高い。待ち伏せか。一体、どこで我々の動きを……)
壁の陰から、戦場の喧騒の中でも明瞭に聞き取れる、鳥の鳴き声を模した鋭い合図が響いた。そして間髪入れず、リオのよく通る声が、敵の矢音にかき消されることなくダリウスの耳に届く。
「――敵兵、およそ二十! 完全に包囲されています!」
我々の倍以上か…! ダリウスの的確な指揮と、戦闘班の圧倒的な技量により、戦場は一時的な膠着状態へと陥った。だが、それは、圧倒的な数の差を前にした、あまりにも脆い均衡だった。
その時、リオの表情が凍りついた。戦場の殺気とは質の違う、禍々しく、そして巨大な魔力の奔流が、森の奥から凄まじい速度で接近してくるのを、彼の研ぎ澄まされた感覚が捉えたのだ。
「隊長、来ます。……とてつもなく、大きいものが…!」
◇
戦場を少し離れた丘の上から、アストルはその光景を静かに見下ろしていた。
五年ぶりに見る故郷は、黒い炭と、朽ちた木材が散乱する、ただの墓場だった。かつて母が花を育てていた場所も、父と剣の稽古をした広場も、今はもうない。
あの日の記憶が、胸の奥で冷たい炎となって燻る。
力の暴走。父と母の、最後の顔。そして、絶望の中で手を差し伸べてきた、帝国という名の偽りの救い。
言いなりになるしかなかった。自らが持つこの異質な力こそが悪なのだと、そう信じ込むことでしか、正気を保てなかった。
だが、リノレアとセドに出会ってしまった。帝国軍の目を盗み、もともと森の民が暮らしていた古い集落に匿っていた避難民たち。彼らと直接言葉を交わしたことはない。だが、遠くからその穏やかな暮らしを垣間見るたびに、失われた故郷の温もりを、少しだけ思い出させてくれた。
人間の中にも、守るべき命があるのかもしれない。異質で、悪である自分が、その力で守れるものがあるのかもしれない。その、芽生え始めた僅かな変化は、彼がただの駒であることをやめ、再び一人の人間として思考を始めた証でもあった。
しかし、今、目の前で繰り広げられている光景は、その僅かな希望を、無慈悲に踏みにじっていた。
ここは、彼の罪の始まりの場所であり、同時に、両親の魂が眠る、彼にとって唯一の聖域だった。その神聖な場所を、人間たちが土足で踏み荒らし、血で穢している。王国も、帝国も、同じだ。彼らは、奪い、穢す者たちだ。
アストルの心の中で、かろうじて保たれていた何かが、ぷつりと音を立てて切れた。
もう、たくさんだ。
アストルは、全ての感情を、一つの、純粋な怒りへと収束させた。
この地にいる全ての人間を、自らの炎で焼き払い、この聖域を、永遠に清めてやる。
◇
森のざわめきが、変わった。
リノレアは、森の中を走りながら、肌を刺すような魔力の高まりに、息をのんだ。
「……あの子だわ」
隣を走る夫のセドに、彼女は、決意を秘めた声で告げた。
「あなた、お願い。何があっても、あの子を信じてあげて」
「……分かっている。あいつは、俺たちの息子同然だからな」
セドの言葉に、リノレアは力なく頷く。アストルを救いたい。白沢村で交わした約束を、今度こそ、果たさなければ。
二人が率いる数人の森の民と共に、彼らは戦場の気配がする場所へと急ぐ。
そして、木々のざわめきが止み、視界が開けた瞬間、彼らは息をのんだ。
眼下では、二つの異なる軍装の人間たちが、互いに殺意をぶつけ合っていた。そして、その全てを無に帰さんと、丘の上から今にも劫火を放たんとするアストルの姿があった。
アストルの怒りが、臨界点に達しようとしていた。
ダリウスとリオも、その絶対的な力の奔流を前に、死を覚悟する。
リノレアは、アストルの名を叫び、止めようと飛び出す覚悟を決めた。
まさに、その瞬間。
彼女の視線が、戦場の片隅、帝国兵の死角となっている民家の壁際で、ぐったりと倒れている、一人の女性の姿を捉えた。
亜麻色の髪、日に焼けていない白い肌。見覚えのある、少し気丈な顔立ち。
あの日、森へと逃がしてから、わずか数ヶ月しか経っていない。しかし、その顔は、心労からか、少しだけ大人びて見えた。
それは、間違えようがない、夢にまで見た、愛しい長女の姿だった。
アストルの炎が放たれる寸前。
リノレアの、驚愕と、絶望と、そして僅かな希望が入り混じった、魂からの叫びが、死にゆく森に響き渡った。
「―――クレアッ!!」
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