第48話:盤上の駒と、魂の導き
明星祭の熱狂が嘘のように去り、街は冬の日常を取り戻していた。しかし、その静けさの水面下で、幾人かの者たちの運命は、激しい音を立てて動き出そうとしていた。
ナルが奇襲作戦を成功させ西の森へ移動し始める頃。領都アウロラ、場末の酒場の、昼間から薄暗い個室。
そこに、『竜の咆哮』の五人は、まるで罪人のように静まり返っていた。彼らの前には、湯気の立つ紅茶が並べられている。しかし、誰もそれに口をつけようとはしなかった。
テーブルの向かいには、職能ギルド・アウロラ地方本部長、オルド・ホワイトが、人の良さそうな笑みを浮かべて座っていた。
「さて、皆さん。やっと『裏の躾』の授業を受ける気になりましたかね」
オルドは、昨日、酒場で彼らと別れた後、この場所に改めて全員を呼び出していた。
リーダーのグレンが、絞り出すような声で言った。
「……あんたは、全て知っていたのか。俺たちが、道化を演じさせられていることを」
「ええ、もちろん」
オルドは、あっさりと頷いた。その人の良さそうな笑みは、今は底知れない不気味さを帯びている。
「君たちが王都で受けた依頼書。あれは本物ですよ」
その言葉に、グレンたちが訝しげな顔を見せる。オルドは、そんな彼らの反応を楽しむかのように、紅茶を一口含んでから続けた。
「いや、本物だったからこそ、君たちは嵌められた」
「考えてもみなさい。Aランク昇格を目前にし、功を焦る君たちのようなパーティーの前に、これみよがしに『王都ギルドの正規依頼』という餌がぶら下げられた」
オルドの言葉が、グレンの痛いところを抉る。彼は、ぐっと拳を握りしめた。
「君たちは、その依頼の真贋ではなく、その依頼がもたらすであろう名声に目がくらみ、まんまと食いついた。……敵は、君たちの剣の腕ではなく、その若さゆえの功名心を利用したのです」
部屋に、重い沈黙が落ちる。オルドは、カップを静かにソーサーに戻すと、最後の一撃を、冷徹に言い放った。
「白鴉隊という煙たい存在を炙り出すための、使い捨ての駒としてね」
その、あまりにも残酷な真実。グレンは、拳を強く握りしめた。
「……どうすれば、俺たちは、あいつらに一矢報いることができる。どうすれば、俺たちは、本当の『力』を……」
「力、ですか」
オルドは、紅茶を一口すすると、静かに続けた。
「君たちは、勘違いをしている。力とは、剣を振るうことや、魔法を放つことだけではない。本当の力とは、『相手が、何を考え、何を欲しているのかを知る』こと。そして、『その盤上で、自分がどう動けば、相手が望まない結果を生み出せるかを知る』ことです」
オルドの視線が、部屋の隅で、忌々しげに俯いている坊主頭の魔法使い――シンへと、すっと向けられた。
「……例えば、君。シン、と言ったかな。君のその黒髪黒目は、この辺境では珍しい。君の故郷は、あるいは、もっと西か?」
その、核心を突く問いに、シンの肩が、びくりと震えた。
「君たちを嵌めた貴族たちは、今、躍起になって『西の森』で何かを探している。ダリウス率いる白鴉隊も、二日前に、ここアウロラを発ち、同じく西の森へ向かった。……偶然でしょうかね?」
オルドは、それ以上は何も語らなかった。ただ、意味深な笑みを浮かべるだけだった。
しかし、その言葉は、『竜の咆哮』の心に、新たな火を灯していた。
西の森。全ての駒が、そこを目指している。ならば、自分たちもそこへ行く。もはや、名声や報酬のためではない。自分たちを駒として弄んだ者たちの、その盤上そのものを、ひっくり返すために。
彼らは、力だけではない、本当の戦いを挑む覚悟を決めた。
◇
同日。アウロラ郊外に秘匿された白鴉隊の拠点。
ダリウス・アイゼンは、天幕の中で広域地図を睨みつけていた。
アルベルト伯爵を囮とした東での陽動は、想定通り機能していた。南の戦線からは、一人の傭兵の活躍で帝国の核心陣地が壊滅したという報告も届いた。
その真価は、元々少数だった敵戦力を削いだことではない。この想定外の戦果により、帝国が南の回廊を安易に奪取して侵攻するという選択肢が完全に消え、こちらの作戦に、さらなる時間的猶予が生まれたことにある。
全てが、概ね彼の描いた筋書き通りに進んでいた。
(……帝国は、ニューログレインを中心に、西の森一帯から南の回廊に至るまで、最小の戦力で広範囲に行動し、いずれも効果的にこちらの戦力の分散に成功している。陽動としては上出来だが、真の狙いが『西の砦』であることは明確。……まあ、そちらは担当の領主に任せるとして、我々は予定通り森に入るとするか……)
その時、天幕の入り口から、先ほど合流したばかりのリナが、青ざめた顔で入ってきた。
「隊長。次の作戦方針ですが……」
彼女は、そこまで言うと、言葉に詰まった。その手は、小刻みに震えている。
ダリウスは、地図から顔を上げると、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「どうした、リナ。君らしくないな」
「……申し訳、ありません。ですが……」
リナは、ダリウスの机の地図へと近づくと、震える指で、ある一点を指し示した。
そこは、ニューログレインの西に広がる、深い森の中心。地図上には、何の記載もないただの森。
「……ここへ。ここへ、向かうべきです」
「理由を聞こう」
「……論理的な、説明はできません。ですが……」
リナの声は、もはや参謀のものではなかった。それは、失われた過去の記憶に苛まれる、一人の女性の、悲痛な叫びに近かった。
「私の、魂が。私の、全てが、そこへ行けと、叫んでいるのです。そこには、私が失くした、何か……いいえ、私が、守らなければならなかった、何かが、ある。そんな気がして、ならないのです……!」
ダリウスは、静かに立ち上がった。
彼もまた、その場所を知っていた。五年前、彼の人生を、その価値観を、根底から変えてしまった、あの忌まわしき事件の現場。
『静かなる森の虐殺』が起きた、あの場所だ。
(……やはり、そうか)
ダリウスの脳内で、先ほどの構想が明確な決心に変わる。
自らが抱いていた違和感と、彼女の魂の叫びが指し示す場所……。
彼は、天幕の外にいる伝令に、静かに、しかし、有無を言わせぬ力強さで命じた。
「戦闘班に行進命令。これより、予定通り西の森へ進軍する。前進目標は、西の森中央。行進隊形、急行陣。半刻後に出発」
ダリウスは、そこまで命じると、地図の、その一点を静かに見つめ、誰にともなく呟いた。
「……五年前の、忘れ物を、取りに行く」
◇
同じ日。
ノエルと『鉄の街道』の三人は、ニューログレインへと続く街道を、黙々と歩いていた。
アウロラを出発し、カイと別れてから、丸三日が過ぎていた。
一行は、往路で崖崩れのあった現場へとたどり着いた。
街道は、その後の追調査で危険と判断されたのか、立て看板で完全に封鎖されている。
しかし、ノエルが啓開した迂回路は、この数週間の間に、アウロラとニューログレインを行き交う商人たちによって、何度も踏み固められていた。
危険だった斜面には土が盛られ、ぬかるみには石が敷かれている。誰が始めたわけでもない、生きるための知恵が生み出した、無名の共同作業の跡だった。
「へっ、大したもんだな、軍師殿。ひよっこが作った道が、本物の街道になりかけてやがるぜ」
バルガスが、感心したように、ノエルの頭をわしわしと撫でる。その、不器用な賞賛に、ノエルの頬が、わずかに緩んだ。
一行は、その、新しい道を、確かな足取りで進んでいく。
そして丁度、迂回路の中ほどを通過した時。道の真ん中に、それが、まるでずっと前からそこにいたかのように、静かに佇んでいた。
一頭の馬。
月光をそのまま固めたかのような、淡く銀色に輝く毛並み。王国でよく目にする、がっしりとした大陸馬とは違う、しなやかで、しかし力強い体躯。そしてその瞳は、まるで祭壇の上の宝石のように、深く、静かな光を宿していた。
何よりも異様なのは、その背に鞍はあるものの、王国式の轡も手綱も、一切つけられていないことだった。
その、あまりにも神々しく、そして異質な存在を前に、『鉄の街道』の三人は、息をのむ。
そして、バルガスの畏怖と驚愕が混じった声が、冬の静かな森に低く響いた。
「……ジルバスティードか……」
その言葉に、ノエルがこてんと首を傾げる。
「ジルバ……?」
「ああ。アウロラの遊牧の民が、古くから育ててきた誇り高き戦馬だ。轡や手綱を嫌い、人との絆だけで走る。俺たちみたいなのが、乗りこなせる代物じゃねえよ」
バルガスが、どこか羨望の眼差しで馬を見つめる。
「特に、あの星を散らしたような毛並み……ノマール系の血統かしら。伝説では、一日で千里を駆けたとも言われているわ。でも、なぜこんな所に一頭で……主を、失くしたのかしら」
エルラが、痛ましげに眉をひそめた。
「いずれにせよ、とんでもない代物だぞ、これは。王都の貴族が、城一つと交換してくれと言っても、アウロラの民は首を縦には振らないだろうな。まあ、その気性の荒さと扱いにくさから、欲しがる貴族様もいないだろうが」
レオンが、やれやれと肩をすくめた。
美しい毛並みを持った馬は、バルガスたちには目もくれず、ただ静かに、ノエルの黒い瞳だけをじっと見つめている。そして、まるで古くからの友に再会したかのように、ゆっくりと彼女の隣に歩み寄り、その身をぴたりと寄せた。
バルガスは、その神々しい姿に見惚れながらも、馬の背にある鞍――遊牧の民が使う『ホノサドル』に結ばれた飾り布が、乾いた血で黒く染まっているのに気づいた。
(……こいつ、戦場帰りか)
彼は、鞍の側面に刻まれた、小さな文字を読み上げる。
「おい、ひよっこ。ここに『ルミア』と書いてあるぞ」
「ルミア……」
ノエルが、その名を小さく口にすると、馬は肯定するかのように、フン、と静かに鼻を鳴らした。その仕草に、ノエルの脳裏に、母が語ってくれた言葉が蘇る。
(誇り高き者には、誇り高き言葉を……)
ノエルは、馬の瞳を見つめ返し、遊牧の民の古語で、そっと語りかけた。
「カーレア……」
その言葉に応えるかのように、ルミアは小さく、しかし澄んだ声で嘶くと、ふわりと身を翻した。その瞳には、先程までの警戒の色が消え、まるで永い時を経て再会を果たした魂のような、深い信頼の色が宿っていた。
そして、街道脇の枯れた木々の間へと風のように駆け込むと、数歩先で立ち止まり、ノエルの方をじっと振り返っている。
「……ついてこいって、ことかしら……?」
エルラが、戸惑いの声を上げる。
バルガスは、その光景をしばらく見つめた後、にやりと、獣のような笑みを浮かべた。その瞳の奥には、最近の護衛任務では見せることのなかった、少年のような好奇心の輝きが宿っていた。
「そういや、ギルマスが言ってたな。ひよっこの『社会勉強』に付き合ってやれ、だとか何とか。へっ、こんな面白い課外授業、付き合わねえ手はねえだろうよ!」
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