第47話:死神と、誇り高き戦馬
聖歴九九八年、新年祭の熱気が去って間もない、冬の夜。ノエルたちが領都アウロラを出立してから、既に半日が過ぎていた。
王国南西部の国境戦線に築かれた、アウロラの戦士たちの野営地は、凍てつくような静寂と、敗北の匂いに満ちていた。
帝国軍との断続的な小競り合いは、既に一週間以上続いている。しかし、戦況は膠着し、ただ味方の屍だけが増えていた。
傭兵ナルは、一人、焚火の輪から少し離れた場所で、黙って夜空を見上げていた。
彼の脳裏には、数日前に見た、黒髪の少女の、あの強い瞳が焼き付いて離れなかった。
『一人で、抱え込むな』
あの時、彼女にそう言ったのは、自分自身だった。しかし、今、その言葉は、まるで鋭い刃のように、ナルの心に突き刺さっていた。
今日また一人、友が死んだ。遊牧の民出身の、腕利きの斥候だった。
彼は、ナルが止めるのも聞かず、帝国軍の補給路を探るため、単独で危険な偵察任務に赴き、そして、彼の愛馬だけが死を知らせに帰ってきた。
(俺が、止めていれば……)
後悔が、波のように押し寄せる。だが、ナルは、その感情を、冷徹な思考で無理やり押し殺した。感傷に浸っている暇はない。この戦場では、感傷は死を意味する。
彼は、復讐のために戦う男ではなかった。復讐は、新たな憎しみを生むだけの、不毛な連鎖だ。
彼が求めるのは、この無益な殺し合いそのものを、終わらせること。そのために、自らの手をどれだけ汚そうとも。
(……だが、このままでは、ジリ貧だ)
帝国軍の動きは、不可解だった。彼らは、本気でこの戦線を突破しようとはしていない。まるで、何か別の目的のために、意図的にこちらの戦力を削り、時間を稼いでいるかのようだった。
(奴らの、本当の狙いは何だ?)
その答えを見つけ出すため、ナルは静かに立ち上がった。友の死を無駄にしないため、そして、これ以上の犠牲を出さないため、彼にできることは、ただ一つ。
敵の懐、その最も深い場所へ、自ら飛び込むことだけだった。
◇
夜の闇が訪れ、昼と夜が交代する曖昧な時間。敵の第一線を警戒する兵隊たちも、薄暮の暗がりに紛れて配備変更を始める。
その配置を敵陣の内側から監視する者――ナルは、まるで幽鬼のように、帝国軍の本陣深くまで潜入していた。
彼の斥候としての能力は、常軌を逸している。気配を消し、地形に溶け込み、敵の警戒網を、まるで存在しないかのように、いとも容易くすり抜けていく。
そして、彼は、敵の中枢で、信じがたい光景を目の当たりにした。
敵の本陣は、もぬけの殻に近かったのだ。残っているのは一個中隊にも満たない、後詰めとしか思えない部隊だけ。
主力は、とうにこの戦線を離れ、別の場所へと向かっている。
(やはり、陽動だったか……!)
ナルは、敵の天幕から、一枚の地形要図を音もなく盗み出す。そこに記されていたのは、現在地『南の隘路』と『西の砦』。そしてその間に広がる『西の森』。あとは意味不明な暗号の羅列だけだった。
彼は、即座に決断した。この、手薄になった本陣を叩く。それが、友の死に報い、そして、敵の真の狙いを挫くための、唯一の活路だと。
野営地へと帰還したナルは、アウロラの戦士たちの指揮官の前に、盗み出した地形要図を広げた。
「敵主力は、既にいない。残っているのは、張子の虎だ。今夜、奇襲をかける」
「馬鹿を言え、ナル! 敵陣は、あの谷の奥だ。まともな騎馬突撃は不可能。徒歩で攻めれば、返り討ちに遭うのが関の山だ!」
「道はある」
ナルは、地図の一点を指さした。そこは、馬では到底越えられない、険しい岩肌が続く、山の稜線。
「ここを、夜陰に紛れて越え、敵の背後を突く」
「不可能だと言っている!」
指揮官が怒鳴り返した、その時。彼の隣にいた、遊牧の民出身の老戦士が、静かに口を開いた。
「……いや。道はある。……ジルバスティードならば」
その言葉に、その場にいたアウロラの戦士たちの顔色が変わった。
「だが、奴らは、主を失ってから、誰の言葉も聞こうとはせん。もはや、ただの獣同然だ……」
野営地の片隅。そこには、十数頭の美しいジルバスティードたちが、まるで世界の終わりを悼むかのように、静かに佇んでいた。
彼らは、この数日の戦いで、友である遊牧の民の斥候たちと共に、その主を失っていた。誇り高き彼らは、もはや戦うことを拒絶し、ただ、静かにその時を待っているかのようだった。
◇
決戦の日。夜明け前。
ナルは、主を失ったジルバスティードたちの前に、一人で立っていた。
彼は、無理強いはしなかった。ただ、静かに語りかけた。友に語りかけるように、その魂に直接、問いかけるように。
「お前たちの主は、死んだ。俺の友も、死んだ。このまま、ここで悲しみに暮れることもできる。だが、奴らの誇りは、それで満たされるのか」
馬たちは、ただ、静かに彼を見つめ返す。その瞳には、深い悲しみと、人間への不信が渦巻いていた。
「俺は、この戦いを終わらせに行く。奴らが守ろうとした、この土地と、平和のために。これは、復讐じゃない。死んでいった者たちへの、俺たちなりの『誓い』だ。……誇りあるジルバスティードよ。俺に、力を貸してくれ」
その、あまりにも静かで、しかし、魂の全てを懸けた言葉。
彼はそれだけを告げると、背を向け、アウロラの戦士たちが待つ集結地へと、黙って歩き出した。
やがて、夜明け前の最も深い闇の中、アウロラの戦士たちが、決死の覚悟を胸に、出陣の準備を整える。
その、無言の隊列の後ろを。
一頭、また一頭と、主を失ったジルバスティードたちが、自らの意志で、静かに続いていった。その蹄の音は、まるで、死んだ仲間たちの魂と共に戦場へ向かう、厳かな葬送行進のようでもあった。
夜の闇が、最も深い藍色から、瑠璃色へと移ろう、その一瞬。
東の空の縁が、刃のように鋭い、一筋の白い光で裂かれた。やがて、その光は、血のような赤と、希望のような黄金色を空に滲ませ、凍てついた大地に、不釣り合いなほど美しい夜明けを連れてくる。
その、あまりにも感傷的で、静謐な光景の中を、銀色の亡霊たちが駆けた。
帝国軍の兵士たちは、悪夢を見た。馬では決して越えられないはずの山の稜線から、暁光を浴びた亡霊たちが、音もなく雪崩を打って、自らの陣営へと襲いかかってきたのだ。
先頭を駆けるのは、アウロラの戦士たち。彼らは、手綱も、轡も使わない。ただ、古語の号令と、馬との絆だけを頼りに、人馬一体となって崖を駆け下りる。
ナルが率いる傭兵部隊が、帝国軍の側面に食らいつき、その陣形を乱す。
そして、その混乱の中心を、まるで死神の鎌のように、ナルが駆け抜けていく。
彼はこれまで、何度も死線を戦い、そして必ず生きて帰ってきた。しかし、彼が描く勝利への最短経路には、常に味方の屍すらも駒として組み込まれる。
その非情なまでの合理性ゆえに、生き残った者たちは彼を畏怖と皮肉を込めて『死神』と呼んだ。そして彼は、その名を、自らが背負うべき業として静かに受け入れ、いつしか本当の名前を捨て、何も無い者――『ナル』と名乗るようになった。
奇襲は成功した。しかし、敵の抵抗は予想以上に組織的で、戦いはすぐに泥沼の様相を呈し始める。敵の指揮官は巧みに身を隠し、的確な指示で反撃を繰り出してくる。
ナルたちは決定打を欠いたまま、徐々に疲弊し、消耗していく。
誇り高きジルバスティードたちもまた、敵の罠にかかり、あるいは味方を庇い、次々とその命を散らしていった。
まさに、味方の戦線が崩壊しかけた、その瞬間だった。
戦場の側面から、新たな部隊が、完璧な陣形で突撃してきた。その練度は、帝国軍の比ではない。
漆黒の軍装に身を包んだ、十数騎の精鋭。彼らの胸には、三ツ目の『白鴉』の紋章が、静かに輝いていた。
援軍だった。彼らは、帝国軍の残存部隊を、瞬く間に掃討していく。
戦いが終わった時、朝日が、屍と血に染まった谷を照らし出していた。
ナルは、その圧倒的な光景に、息をのむ。そして、彼らを率いる小隊長らしき男と、静かに対峙した。
生き残ったアウロラの老戦士が、地に伏したジルバスティードたちの亡骸の前で、静かに古語の讃辞を捧げる。
「ルーエナ……(魂の輝きよ)……」
その言葉に応えるかのように、生き残った数頭のジルバスティードたちが、天に向かって、別れの嘶きを上げた。そして、彼らは、新たな主を求め、あるいは、ただ自由を求めて、それぞれの方向へと、静かに走り去っていった。
しかし、たった一頭だけ。友の形見である、星毛の美しいノマール系だけが、ナルの傍らを離れようとはしなかった。
白鴉隊の小隊長が、ナルに近づく。
「見事な奇襲だった。俺たちは、国王の命により、この地域の脅威を排除しに来た。貴官らは?」
「……ただの傭兵だ」
ナルは、短く答えると、男の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「あんたらは、この後、西へ向かうんだろう?」
その、全てを見透かしたような問いに、小隊長は僅かに目を見開いたが、否定はしなかった。
「……ここは、もう大丈夫だ。あんたらの力を貸してほしい。俺も、連れて行ってくれ」
ナルの、静かだが、揺るぎない声。
彼の傍らでは、主を失った一頭のジルバスティードが、まるでその誓いを肯定するかのように、静かに鼻を鳴らした。
彼の、新しい旅が、今、始まろうとしていた。
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