第46話:囮と、砂袋
大変申し訳ありません。
三連休の真ん中、20日の予約投稿が
間違って21日朝になっていました。
二度と同じ間違いをしないように
しっかりと点検します!
カイがニューログレインへと帰還する三日前、アウロラと王都の中間に位置するアステル大橋で、一つの謀略が、静かに成就しようとしていた。
王国を南北に二分するティベリウス大河は、冬の厳しさで水量を増し、白く濁った激流となって轟音を立てていた。
その流れは、はるか西の帝国に対する王国の最終防衛線。東岸の王都側には、まるで巨大な竜の背骨のように、灰色の擁壁が南北に長く伸び、河そのものを巨大な城壁の一部としていた。
その防衛線の心臓部、アステル領の領都が守る壮麗な石橋――アステル大橋の王都側に設けられた『東詰』で、一つの軍勢が足止めを食らっていた。
「だから、通せと申している! 我々は国王陛下の勅命を受けているのだぞ!」
後方支援隊三十名を率いる壮年の貴族――アルベルト伯爵の怒声が、川の轟音にかき消される。彼の騎馬の鼻の先には、大橋を封鎖するように展開する、領都アステルの守備隊が、通常時の三倍以上の数で立ちはだかっていた。
「重ね重ね申し上げにくいのですが、伯爵様。王都のさるお方より、この橋を通過する全部隊の通行を、一時的に禁止せよとの厳命が……。これも、国のため。何卒、ご理解を……」
守備隊の隊長は、丁寧な言葉とは裏腹に、一歩も引く気はない。
アステル大橋は、全長400mを超える巨大な建造物だ。したがって対岸にある西詰の関所は、ここからでは川霧に霞んで見えない。だが、あちらにも同数以上の兵が配置されているのは、火を見るより明らかだった。
これは、軟禁だ。アルベルトは、自らが置かれた状況を正確に理解した。保守派貴族の妨害工作が、完璧な形で発動したのだ。
(……ダリウスの読み通り、か。全く、あの若造の慧眼には、恐れ入るわい)
彼の脳裏に、九日前の、年の瀬も押し迫った王都での光景が蘇る。
―――
王都の南門の早朝。誰に見送られることもなく、一つの部隊が静かに出立した。
先頭は、騎乗したダリウス・アイゼン偵察機動大隊長。数騎の大隊本部士官、そして徒歩で続く戦闘小隊二十名。その後方には、大小の馬車五台と徒歩兵二十名の輜重部隊である後方支援隊が続く。
これが、一部の貴族に名の識れた『白鴉隊』の、王都に駐留する全ての勢力だった。表向きの目的は、帝国との緊張が高まる南部戦線への増援。それは、国王陛下からの正式な命令であった。
冬の重く冷たい空気の中、闇色の地に三ツ目の白いカラスが描かれた大隊旗が、静かに風を孕み、大隊としてはあまりにも少ない行進の、その異様さを際立たせていた。
王都を出発して四日後、ダリウスの計画は、次の段階へと移行した。
「――では、頼んだぞ、アルベルト殿」
「うむ。勅命であるからな。この老いぼれが、せいぜい派手な的になってやろうではないか」
「感謝する。貴官のような人物が、まだこの国に残っていることが、唯一の救いだ」
「ふん、口の上手い男よ。……だが、ダリウス。南の戦線は陽動に過ぎず、貴官の真の狙いが『西の森』にあることは分かっている。主力を率いるべき貴官が、わずかな手勢で、あの忌み地に赴くなど……」
「だからこそ、だ」
ダリウスの黒曜石の瞳が、西の空を鋭く射抜く。
「五年前の、あの『静かなる森の虐殺』。その真相が、全ての鍵を握っている。それを確かめるまでは、俺は先に進めん」
その強い意志を前に、アルベルトは、それ以上の言葉を飲み込んだ。
「……分かった。せいぜい時間を稼いでやろう。だが、死ぬなよ」
「御意」
短い言葉を交わした後、ダリウスは、自らが率いる大隊本部と戦闘小隊の精鋭三十騎に、静かに合図を送った。彼らは、街道から外れると、まるで闇に溶け込むように、西の森へと続く、地図にもない獣道へとその姿を消していった。
後に残されたのは、南へと続く街道を、わざとゆっくりと、そして堂々と進軍していく、三十名の『囮』だけだった。
―――
(……まあ、良い。儂の役目は、このアステル大橋の関所で派手に騒ぎ立て、敵の目を引きつけておくことだ。せいぜい、道化を演じてやろうではないか)
アルベルトは、内心で静かに覚悟を決めると、再び、芝居がかった怒声を張り上げた。
◇
同じ頃。アステル大橋の対岸。辺境側に位置する『西詰』。
『竜の咆哮』の五人は、自分たちが、巨大な罠の、まさに中心にいることなど、知る由もなかった。
リーダーのグレンが、苛立たしげに吐き捨てる。彼らがアウロラで請け負った、王都への護衛任務。その道程は、あまりにも早い段階で、暗礁に乗り上げていた。
これ以上待てないと、グレンが守備隊に詰め寄ろうとした、その時だった。彼の背後から近づいてきた西詰の守備隊の兵士数名が、一行の箱馬車を取り囲んだ。
「待て! てめえら、何しやがる! この荷は、俺たちが命懸けで守ってんだ! 気安く触るんじゃねえ!」
グレンは、巨大な盾を構え、兵士たちの前に立ちはだかる。
しかし、守備隊の隊長は、困ったように眉を下げたまま、冷徹に告げた。
「抵抗されるのであれば、公務執行妨害とみなし、全員を拘束いたします。……よろしいかな?」
十数人の正規兵に囲まれ、彼らは抵抗すらできなかった。
兵士たちが、箱馬車の錠前を、手斧で無残に破壊する。
そして、開け放たれた扉の奥から現れたのは――ただの、砂袋だった。
『なんだ、こりゃあ。砂遊びでもするのかね、王都のお歴々は』
兵士たちの、侮辱に満ちた嘲笑。
その中で、彼らは自分たちが、壮大な謀略の、名もなき、そして滑稽な駒として、使い捨てられたことを悟ったのだ。
兵士たちは、嘲笑を浮かべたまま、その輪をじりじりと狭め、まるで罪人であるかのように五人を囲み、近づいてくる。その目には、もはや公務執行の光はなく、ただ獲物を嬲るかのような、冷たい光だけが宿っていた。
「……グレン、走るわよ!」
イリスの、悲痛な叫びにも似た合図が、凍りついた場の空気を切り裂いた。
◇
それからさらに三日後の領都アウロラ。
場末の酒場の、昼間から薄暗い個室で、『竜の咆哮』のリーダー、グレンは、テーブルを拳で叩きつけた。ガシャン、と音を立てて、エールのジョッキが倒れる。
「―――ふざけるなよッ!!」
その、獣のような咆哮に、他のメンバーは、ただ押し黙るしかなかった。
彼らがアウロラにたどり着いたのは、つい先程のこと。その足でギルドに報告する気力もなく、この酒場に転がり込んだのだ。
「なんだってんだよ、一体……! 砂袋だぁ? 俺たちは、あんなもんを、命懸けで運んできたってのか!? あの御者も、いつの間にか消えやがって……!」
「落ち着きなさい、グレン」
イリスが、冷静に、しかし疲労の色が濃い声で言った。
「あの領都アステルでの一件、どう考えても、ただ事じゃない。私たちは、何か、とんでもないことに巻き込まれたのよ」
守備隊の隙を突いて、どうにかアウロラまで逃げ延びてきたものの、彼らの心は、砕かれた誇りと、行き場のない怒りで、焼け付くようだった。
「……この失態が王都に知られたら、俺たちはもう、まともな依頼を受けられなくなるかもしれない。Aランクへの道が……」
グレンの言葉は、単なる怒りではない。自らの未来が閉ざされることへの、切実な恐怖に震えていた。
「……くだらない。こんな茶番に、付き合う必要はなかった」
シンが、吐き捨てるように言った。その瞳には、世界の全てを拒絶するかのような、冷たい光が宿っている。
「まあまあ、そう言うなって。おかげで、久しぶりにスリリングな鬼ごっこができたじゃねえか」
アッシュが、軽薄な口調で茶化すが、その顔にいつもの笑みはなかった。
その、重苦しい沈黙を破るように、個室の扉が、静かに開かれた。
「おや、早いお帰りですね」
そこに立っていたのは、職能ギルド・アウロラ地方本部長、オルド・ホワイトだった。彼は、人の良さそうな笑みを浮かべて、部屋の中を見渡した。まるで、彼らがここに来ることを、ずっと前から知っていたかのように。
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