第4話:鉄の信条と、異端の才能
ノエルの服から微かに漂う、鉄錆のような匂い。
クレアは、その正体に気づかぬふりをした。妹を強く抱きしめていた腕をそっと解き、努めて優しい声で言った。
「さ、冷えるわ。早く中に入りましょう。お父さんもお母さんも、心配していたのよ」
その夜、食卓はいつも通りの、ささやかで温かいものだった。
父が、畑仕事で痛めた腰をさすりながら、隣村の収穫祭の噂話を陽気に語り、母がそれに優しく相槌を打つ。クレアも微笑みながら、時折、横目でノエルの様子をうかがった。
妹は、いつもより口数が少なく、心ここにあらずといった様子で、ただ黙々と木のスプーンを口に運んでいる。その小さな肩が、わずかに震えているように見えた。
(あの子は、嘘をついている。そして、何かをひどく、恐れている)
クレアは確信していた。
転んで怪我をした獣でも助けたのかもしれない。そうであってほしいと願う。だが、クレアの胸の奥深くでは、別の、もっと得体の知れない可能性が、冷たい霧のように渦巻いていた。
妹の瞳に時折宿る、あの不思議な光。それは、子供の無邪気さとは程遠い、あまりにも成熟し、完成された何かの色をしていた。
食事が終わり、ノエルが「先に休むね」と力なく言って部屋に籠った後。
クレアは一人、洗い物をしながら、窓の外に広がる闇を見つめていた。
(ノエル……あなたはいずれ、この村では収まりきらなくなる。その時、私は、あなたを守ってあげられるのかしら……)
夜空に浮かぶ月が、雲に隠れて、その光を翳らせた。
**
ノエルの部屋。
粗末な寝台に横たわり、彼女は天井の木目をじっと見つめていた。
眠れない。
目を閉じると、あの男の言葉が、耳の奥で何度も繰り返される。
『――女は戦場に出るべきではない』
それは、侮蔑ではなかったのかもしれない。彼なりの気遣いだったのかもしれない。
でも、ノエルの心には、冷たい棘のように突き刺さっていた。
(やっぱり、私は、おかしいんだ)
今日、森で自分がしたことが、信じられなかった。血を見ても怖くなかったわけじゃない。むしろ、今も思い出すだけで、胃の腑がひっくり返りそうだ。
それなのに、あの時、自分の体は勝手に動いた。まるで、熟練した医者のように。まるで、百戦錬磨の兵士のように。
あの男が「追っ手は?」と聞いた時、自分の口から滑り出た言葉を、ノエルは今でもはっきりと思い出せる。
『陽動』『任務』。
聞いたこともない言葉だった。でも、その意味を、なぜか自分は完璧に理解していた。
(私は、異端だ)
村の女の子たちは、刺繍や料理の話で楽しそうに笑う。でも、自分は、そんな会話の輪の中にいても、どこか上の空だ。風の音や、遠くの物音、人々の表情の僅かな変化から、自分だけが、何か別の情報を読み取ってしまう。
あの男の言葉は、その事実を、残酷なまでに突きつけてきた。
ノエルは、ぎゅっと目を閉じた。
この力も、この知識も、いらない。
ただ、クレアお姉ちゃんみたいに、優しくて、賢くて、みんなに愛される、「普通の女の子」になりたかった。
涙が、枕を静かに濡らしていった。
**
同じ月を、街道沿いの宿場町で見上げている男がいた。
川を下り、森を抜けた斥候は、近くの街で軍の定期輸送便に合流することに成功していた。王都までは、まだ馬車で一月以上かかる。しかし、この輸送便を使えば、途中の駐屯地まで、安全かつ迅速に移動できる。そこで正式な報告書を作成し、特別な早馬で王都へ送る手はずだった。
彼は、自らの脚に巻かれた布を、そっと解いた。
驚くべきことに、あれほど酷かった出血は、ほぼ完全に止まっている。傷口に塗られた緑のペースト状のものが、ひんやりと心地よかった。
(……見事な処置だ)
軍の衛生兵でも、これほど迅速で的確な応急処置ができる者は少ないだろう。
彼は、ノエルという少女の存在を反芻する。
か細い腕。怯えたような瞳。そして、時折見せる、全てを見透かすかのような、冷徹な光。
(俺の言葉は、何と陳腐だったことか……)
彼は、自分の言葉が、あの少女の前ではいかに無力で、的外れであったかを痛感し、自嘲の笑みを漏らした。
彼は、鍛冶職人の息子だった。
幼い頃から父の仕事を見て育ち、「鉄は、叩けば叩くほど、強靭な鋼になる」という哲学を学んだ。その信条は、彼の生き方そのものだった。
平民の出身である彼は、努力と実績だけで、この地位まで這い上がってきたのだ。
だが、ノエルという少女は、その彼の信条そのものを、根底から揺るがした。
彼女は「鍛えられた」わけではない。生まれながらにして、完成された「戦術」そのものを、その小さな体に宿していた。
**
輸送便の馬車が、夜の街道を駆けていく。
揺れるランプの灯りの中、男は決意を新たにしていた。
(この国は、変わらなければならない。俺が、変える)
もはや、家柄や性別で、人の価値を決められる時代ではない。
真の『才能』だけが、この国を救うのだ。
鉄も、人も、磨けば光る。だが、中には、磨かれるまでもなく、生まれた時から光を放つ原石がある。あの少女のように。
ならば、その原石を見出し、正しく導き、国家の礎とすることこそが、自分の新しい任務ではないのか。
彼の脳裏に、あの少女の、冷徹で、そしてどこか寂しげな瞳が焼き付いて、離れなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価ポイントで応援していただけると、執筆の大きな励みになります。
感想や誤字報告なども、お気軽にいただけると嬉しいです。