第43話:触れる髪と、髪を結う手
明星祭、二日目。
昨日、重く沈んでいたノエルの心は、鉄の街道という、不器用で、しかしあまりにも温かい家族の優しさによって、ほんの少しだけ、軽くなっていた。
バルガスの『祭りを楽しむぞ!』というその言葉通り、今日の彼らには、難解な任務はない。ただ、この年に一度の祭りを、三人で心ゆくまで楽しむだけだ。
「わー! すごい人! 昨日よりもっと賑やかになってない!?」
エルラが、子供のようにはしゃぎながら、目を輝かせる。
大通りは、色とりどりの衣装をまとった人々で、まっすぐに歩くことすら難しいほどだった。
隣を歩く、見知らぬ家族連れの父親が、娘を肩車して満面の笑みを浮かべている。向かいの通りでは若い恋人たちが、一本の串焼きを恥ずかしそうに分け合っていた。
陽気な楽団の音楽、子供たちの弾けるような笑い声、そして、どこからともなく漂ってくる、甘く、香ばしい匂い。その全てが混じり合って、街全体が一つの、巨大な幸福の集合体のように輝いていた。
「おっと、ノエル、はぐれるなよ」
レオンが、人混みからノエルを庇うように、そっと一歩前に出る。そのさりげない優しさに、ノエルは小さくこくりと頷いた。
「あっ! ノエル、レオン! あれ、あれ! 美味しそうな匂いがする!」
エルラが、鼻をひくつかせながら指差した先。
そこには、威勢のいい呼び声と共に、もうもうと白い煙を上げる、一軒の串焼きの露店があった。
「へい、らっしゃい! 王都で評判の、イノシシの串焼きだよ! 特製の甘辛いタレが、たっぷりだ! 明日はいよいよ、『映し返しの儀』だからね! 今日これを食べなきゃ、損だよ!」
人の良さそうな恰幅のいいおばちゃんが、豪快に、焼き網の上で肉を転がしている。
「あの、エルラさん。『映し返しの儀』、とは、一体、何をするのですか?」
串焼きを受け取りながら、ノエルは、ふと疑問に思ったことを口にした。
「え? あー、それは、その……」
エルラが答えに窮し、ちらりとレオンへ視線を送る。
その一瞬の戸惑いに、串焼き屋のおばちゃんが、にっと、悪戯っぽく笑った。
「おや、お嬢ちゃん。明星祭は初めてかい? だったらそれは明日まで内緒だよ! この祭り一番のお楽しみは最後にとっておかなくっちゃね! ……そうだ、『返礼詞』は、覚えておきなよ!」
その太陽のような屈託のない笑顔に、ノエルも、思わずつられて微笑んでしまった。
**
エルラに教えられた不思議な『返礼詞』を、心の中でそっと繰り返しながら、ノエルは祭りの喧騒の中を歩いていた。
「映し、返れ、砕けて、咲けよ……」
一体、何が砕けて、何が咲くのだろう。
そんなことを考えていると、ふと彼女の視線が、通りの一角にある小さな露店に釘付けになった。
色とりどりのガラス細工と、木彫りの装飾品。それらが陽の光を浴びてきらきらと輝き、ノエルは小さく囁く。
「……綺麗」
時を同じくして、リオとリナもまた、普通の街人として、その喧騒を楽しんでいた。
リオの『休暇にしよう』という少し強引な提案に、初めは戸惑っていたリナだったが、楽しげな人々の笑顔と、次々と現れる美味しそうなスイーツの誘惑に、彼女の参謀としての硬い表情は、少しずつ解きほぐされていた。
「リオ、あれ! リンゴを丸ごと飴で固めているようです。なんて美しい赤色……」
「はは、本当だ。一つ、買っていこうか」
リオは心から楽しそうに、リナのそんな小さな変化を見守っていた。
リナは、まるで子供に戻ったかのように、自然な笑顔があふれていることに、気づいていなかった。
そして、ふと、彼女の視線が、通りの一角にある小さな露店に釘付けになる。
色とりどりのガラス細工と、木彫りの装飾品。それらが陽の光を浴びてきらきらと輝いている。
その、たくさんの輝きの中で、なぜかたった一つ、星の形を模した繊細な銀細工――小さな髪飾りが、リナの心を強く捉えて離さなかった。
(……綺麗)
彼女はまるで、何かに導かれるようにその髪飾りに手を伸ばし、そっと手に取った。
(…ふふ、可愛い。……あの娘に、似合いそうね。……あれ? あの娘って、誰だっけ……?)
脳裏に浮かぶのは、小さな村の収穫祭の風景。幼い少女に、可愛い髪飾りを結んであげた、遠い記憶の断片。
自らの心に浮かんだ、そのあまりにも唐突で、そして、あまりにも温かい想いに、リナは小さく首を傾げる。
「リナ、どうしたんだい? そんなに難しい顔をして。ほら、あっちに、もっと美味しそうな串焼き屋があるよ! 今なら空いてる!」
リオの、そのどこまでも明るい声に、彼女は、はっと我に返った。
「……うん、そうね。行きましょう」
リナは、名残惜しそうに、一度だけ髪飾りを見つめると、それを、そっと元の場所に戻し、リオに向き直った。
その一瞬。リナと入れ替わるように、リナの置いた髪飾りを見知らぬ少女が手に取る。その少女の、流れるような黒髪がリナの手に触れ、心をかすめていく。
(……そうね。あんなに綺麗な黒髪なら、あの髪飾りが似合いそうね……)
その少女――ノエルもまた、まるで何かに引き寄せられるように、その、髪飾りを手に取っていた。
ノエルは、他のどの輝きでもなく、リナが選んだそのたった一つの銀の髪飾りに惹かれていた。
**
その、直後。
「きゃあ! スリよ!」
雑踏の中から、甲高い悲鳴が上がった。
その声は、祭りの陽気な喧騒の中に、一瞬の、小さな波紋を広げ、そしてすぐにかき消されていく。誰もが一瞬、そちらに目を向けるが、すぐに、自らの楽しみへと戻っていく。
人の多い領都では、日常茶飯事の小さな事件。
しかし、その小さな波紋を、決して見逃さない、二つの視線があった。
ノエルと、リナ。
二人の視線が、人混みの向こう側で音もなく交差し、同じ一点へと鋭く向けられる。
ノエルの頭脳が、高速で回転を始める。
「スリ? 村やニューログレインでは見なかった手口……。被害者は、上質な服を着た女性。狙われたのは手提げの鞄? 走り去った影は、小さい――子供。この人混みを利用した犯行。ならば、仲間がいるはず! さっき三番目の路地にいた、二人組? じゃあ、あそこが合流地点……!」
「レオンさん! あの、三番目の、路地です! 鞄を持って走り去った子供と、さっき二人組がいました!」
その、凛と通る少女の声。
その声を聞いた瞬間、リナの参謀としての魂が共鳴した。
(……なんて的確な分析。一瞬でそこまで読み解くとは。……だが、それだけでは足りない。相手が子供の足であること、そして、この祭りの警備の手薄さを考えれば、合流地点はもう一つ奥。昔からあの娘が得意だった――かくれんぼの遊び……。隠れるなら、あそこだ……!)
「リオ! あの、パン屋の角を曲がった先の、袋小路よ! 先回りして!」
二人の天才の声は、決して交わらない。
しかし、その指示は、完璧な連携となって、それぞれの最強の『駒』を、一つの場所へと導いていた。
**
息を切らして、路地裏へと駆け込んだ小さな少年。その目の前には、二人組のチンピラ風の男が、にやにやと笑いながら立っていた。
「これで、妹の、薬を……!」
少年が、震える手で、女性用の手提げ鞄を差し出した。
「いやあ、これじゃあ、足りないね」
チンピラの一人が、せせら笑い、少年の、鞄を、奪い取ろうとする。
その、刹那。
「――そこまでだ」
路地の入り口からかけられた、静かな、しかし有無を言わせぬ声。
音もなく、そこに立っていたのはリオだった。
「ちっ、なんだ、てめえ!」
チンピラたちが、ナイフを抜こうとする、その、一瞬よりも早く。
リオの体が風に霞み、一人の鳩尾に正確な蹴りが叩き込まれる。
そして、もう一人が、驚愕に目を見開いたその時。レオンの拳が、切り裂くように下からその顎を打ち上げていた。
少し遅れて到着したレオンは、既に事を終えているリオの、その圧倒的な強さに、驚きを隠せない。
「……あんたは、確か……」
「これは、これは。『鉄の街道』の、レオンさんでしたか」
リオは武器も持たない普通の街人の格好だったが、その動きは、街道での異常な身のこなしそのままだった。
「我々は、少々事情がありましてね。この少年は、我々が預かりますので、後の処置は、お任せしてもよろしいかな?」
リオは、そう言うと、気絶したチンピラたちを一瞥し、震えている少年の肩を、そっと抱き、人混みの中へと消えていった。
その直後にノエルとエルラが駆けつける。
そこには既に、気絶したチンピラたちと、腕を組んでやれやれとため息をつくレオンの姿があるだけだった。
**
夕方、一行は祭りの喧騒と、心地よい疲労感をその身にまといながら、宿へと戻った。
ノエルの、その艶やかな黒髪には、あの露店で結局購入することにした銀色の髪飾りが、夕陽を浴びて、ちかりと可愛らしく揺れている。
ノエルは、そっと、その髪飾りに触れた。
なぜだろう。
自分で選んだはずなのに、まるで、ずっと会っていないクレアお姉ちゃんが、『あなたには、これが似合うわ』と、いつもの優しい笑顔で選んでくれたような、そんな不思議な、温かい気持ちに包まれるのだった。
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