第41話:記憶の断片と、小さな世界
領都アウロラの職能ギルド、その三階に位置する資料室は、静寂と、古い紙の匂いに満たされていた。
高い天井まで届く書架には、この地方の、百年あまりの歴史と知識が、埃をかぶった背表紙となって、眠りについている。
その、床にまで積み上げられた書物の山を、少女は、まるで宝の山を探索するように、一つずつ、優しく紐解く。
ノエルは今、自らのルーツへと繋がる、ささやかな糸を手繰り寄せることに、全ての時間を捧げていた。
彼女がここに来たときには、既に古い書物たちは誰かの手により分別され、すぐに、いくつかの興味深い記述を発見することが出来た。
一つは、この地方の民間伝承をまとめた、古い書物の一節。
――明星祭では、古の森の民の言い伝えに由来する銀の鏡を掲げる――
そして、もう一つは、王国の歴史を編纂した、分厚い書物の、小さな、小さな注釈。
――魔族とは、蔑称である。元は、人族のうち、魔法に、特に優れた才能を持つ者たちを指した。しかし、その力を恐れた為政者によって、異端として迫害され、森へと追いやられた――
その注釈は、続けて『魔族』の能力を、こう記していた。『人には真似できぬ強力な魔法を操る』『人の理を超越した知恵』『人にあらざる剛腕』、そして、『恐ろしき魔物を意のままに操る』、と。
ノエルは、その一文を、指で、そっと、なぞった。
魔族。それは、おとぎ話に必ず現れる、恐怖と、忌避の対象。しかし、その正体は、ただ、魔法の才能に恵まれただけの、人間だったというのか。
彼女の脳裏に、街道で出会った、あの美しい黒髪の青年、リオの姿が蘇る。そして、ナルの、あの静かな言葉も。
「……なるほど。そういうこと、でしたか」
一人、納得の声を漏らした、その時だった。
「おや、これはこれは。熱心ですな、お嬢ちゃん」
背後から、穏やかで、しかし、どこか上から見定めるような声がかけられた。
振り返ると、書庫の管理を任されているという、年配のギルド職員が、にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべて立っている。
「しかし、このような、埃っぽい場所に、若いお嬢さんが一人で籠もっていては、いけませんな。女衆は、厨房で、祭りの準備の手伝いでもしている方が、よほど、華やかでよろしい」
その言葉には、一切の、悪意がない。
ただ、この世界では、それが、あまりにも当たり前の『常識』であり、『親切心』からくる、ありきたりな言葉であることを、ノエルは、痛いほど、理解していた。
だが、彼女の、内なる『魂の意思』は、その、悪意なき言葉に、静かな、しかし、明確な『違和感』を覚える。
なぜ、性別で、いるべき場所が、決められるのだろう。
なぜ、厨房にいることが、『華やか』なのだろう。
「……ご忠告、ありがとうございます。ですが、私には、こちらの方が、性に合っているようですので」
ノエルは、内心の揺らぎを、完璧に隠し、ただ、にこりと、愛想の良い笑みを返すことしかできなかった。
**
「ノエルー! 生きてるかー!」
資料室の重い扉が、遠慮なく、大きな音を立てて開かれた。
顔を覗かせたのは、両手に、籠いっぱいのパンや果物を抱えた、エルラだった。その後ろから、温かいスープの入ったポットを、大事そうに持ったレオンも、苦笑しながら入ってくる。
「エルラ、もう少し、静かに入ってやれ。ノエルが、集中しているだろう」
「だって、この子、放っておいたら、本当に、何日でも、ここに籠もってそうだもの!」
「……お二人とも、ありがとうございます」
年配の職員が、呆れたように肩をすくめて去っていくのを横目に、レオンが、ノエルの隣に、そっとスープを置いた。
「あまり、根を詰めすぎるなよ。バルガスさんも、心配していた。たまには、外の空気も吸った方がいい」
レオンの、その、穏やかで、全てを受け入れるような優しい声は、先ほど、ノエルの心に、ささくれのように刺さった、あの職員の言葉を、そっと、癒してくれるかのようだった。
三人は、資料室の片隅で、ささやかな食事を摂った後、レオンの提案で、気分転換に、街へと繰り出すことにした。
明星祭を明日に控えたアウロラは、まさに、その熱狂の頂点にあった。
街のあちこちで奏でられる陽気な音楽、子供たちの弾けるような笑い声、そして、道行く人々の、誰もが、浮き足立ったような、幸せそうな顔。
その、あまりにも平和な光景に、ノエルの心も、少しずつ、解きほぐされていく。
「わー、ノエル! あれ見て、あれ! 焼きたてのリンゴ飴だって!」
エルラは、まるで子供のようにはしゃぎながら、ノエルの腕を引いて、人混みの中を器用にすり抜けていく。
「こら、エルラ、あまり走るな。ノエルが転んだらどうする」
レオンが、父親のような口調で嗜めるが、その手には、既に串焼きの肉が二本、しっかりと握られている。
ノエルは、そんな二人のやり取りに、思わず、くすりと笑みを漏らす。
資料室の、静かで、重い空気とは違う。甘く香ばしい匂いと、人々の楽しそうな声、そして、すぐ隣にある、仲間たちの、温かい体温。それは、彼女が、忘れかけていた、ただの少女としての、ささやかな幸せだった。
と、その時。
大通りに面した、高級な洋品店の前から、甲高い、子供の泣き声が聞こえた。
見ると、上等な絹の服を着た、貴族の少年が、同じ年頃の、しかし、薄汚れた服を着た平民の少年を、突き飛ばしていた。
「汚いな! 近寄るなよ、平民のくせに!」
「……っく」
平民の少年は、何も言い返せず、ただ、悔しそうに、唇を噛みしめて泣き止む。周囲の大人たちは、その光景を、見て見ぬふりをするか、あるいは、『仕方ない』とでも言うように、小さくため息をつくだけだった。
誰も、それを、おかしいことだとは、思っていない。
それが、この世界の、あまりにも、当たり前の、光景だからだ。
ノエルの、内なる違和感が、今度は、静かな『確信』へと、その姿を変えた。
**
宿に戻ったノエルは、一人、自室のベッドの上で、今日、体験した、二つの出来事を、静かに反芻していた。
ギルドの職員が見せた、男女の、悪意なき固定観念。
街で見た、貴族と平民の、あまりにも、あからさまな身分差別。
そして、資料室で読んだ、『魔族』という、同じ人間の作った、蔑称の歴史。
(……なぜ、だろう)
彼女の、内なる『魂の意思』が、静かに、別の世界の断片を見せる。
考えられないことだった。もちろん、格差や偏見が、全くなかったわけではない。しかし、少なくとも、性別や生まれで、人の価値が、ここまで公然と決めつけられることはなかった。
(なぜ、この世界の人々は、同じ人間を、わざわざ『区別』したがるのだろう)
その、たった一つの、根源的な『問い』が、彼女の頭の中で、全ての事象を、一つに結びつけていく。
森の民と、人族――
王国と、帝国――
貴族と、平民――
男と、女――
正義と、悪――
全ての対立。全ての争い。全ての悲劇。
そして人々は、その根源である『区別』を、当たり前のものとして受け入れ、それぞれの意思で、それぞれの正義を、振りかざしているだけなのではないか。
その、あまりにも重く、そして、孤独な結論に、ノエルの小さな心が、ぎしりと悲鳴を上げた。
そして不意に、彼女の脳裏に、遠い昔の温かい記憶が、断片的に蘇る。
母の、優しい声。膝の上で聞いた、おとぎ話。
――賢いフクロウは言いました。東の空に、明けの明星が一番強く輝く時、森の奥深くにあるという、お日様を写す銀の鏡が見つけられるのだよ。
その瞬間、ノエルは、それまでの、哲学者のような、難しい表情を、ふっと、解いた。
彼女は、ベッドから飛び起きると、談話室で、カイとカードゲームに興じていた、エルラとレオンの元へと、駆け寄った。
そして、今まで見せたことのない、真剣な、しかし、どこか、子供のような、少し、舌足らずな口調で、こう、お願いした。
「エルラさん、レオンさん。あの、お願いが、あります……」
「……明けの明星が、一番、強く、輝く場所に、私を、連れて行ってください!」
その、あまりにも、唐突で、そして、どこか、幼さを感じさせる、その願いに、エルラとレオンは、顔を見合わせ、ただ、戸惑うばかりであった。
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