第39話:待ち伏せと、白いカラス
そして、冬の、遅い夜が明ける。
商隊の二台の馬車は、まだ薄闇が残る中、音もなく宿場町を出発していった。ナルもまた、商隊護衛として、その隊列の後方に付き従い、そして見えなくなった。
夜明けと共に出発した商隊を、荷駄宿の二階から見送った後、『鉄の街道』とノエル、そして御者の乗る箱馬車は、再び冬の街道へと出発した。
キャラバンから、たった一台の馬車へと姿を変えた一行。その風景は、彼らの任務の『極秘性』と『孤独さ』を、より一層際立たせていた。
ノエルは、馬車に揺られながら、ナルから聞いた『森の民』の歴史と、母が残した伝言を、頭の中で反芻していた。
彼女の目的は、『姉との再会』である。しかし、『自らのルーツを知る』という、新たな、そしてより根源的な目的が、彼女の中で静かに芽生え始めていた。
**
カイは、宿場町を出ると、すぐに尖兵として先行する。
彼は、昨日までと同じように、経路上の地形や、伏撃に適した位置を、念入りに確認しながら進んでいた。
しかし、その全ての場所には、既に誰かが安全を確認したことを示す、微かな印が残されていることに、彼は気づいた。
それは、先行して出発した、あの傭兵からの、プロ同士だから理解できる、無言のメッセージだった。
三本の小枝が、人為的に、しかし、自然に見えるように組まれている。
(この先、異常なし)
カイは、その行為に、プロとしての矜持と、自分たちへの、奇妙な敬意を感じ取り、口の端に、かすかな笑みを浮かべた。
(……やるじゃねえか、あの傭兵)
そして、何事もなく、冬の低い太陽が昼の時間を示す。
一行が、暫しの休憩のために、街道沿いの広場に馬車を停めたところ、カイが、森の中から音もなく合流した。
「バルガス。この先に、10人だ」
その声には、いつもの軽口はない。
「身なりは平民に偽装しているが、腰の剣、足元のブーツは、全て同じもので揃えられている。……あれが、王国軍ってことか?」
バルガスは、カイの言葉をじっくりと考察する。
「……わからん。取引相手なら、書状を携行しているはずだ。……10人なら、何とかなるだろう。確かめるしか、ねえな」
バルガスは、覚悟を決め、短く答えた。
昼休憩は、切り上げられた。一行は、緊張感を一気に高めながら、前進を再開する。
ノエルは、その会話を聞き、これから起こりうる行動を予測していた。
昨夜、ナルに言われた言葉が、彼女の胸に蘇る。
『お前が本当に見るべきは、地図の上の駒じゃない。お前の周りにいる、そいつらの顔だ』
そうだ。私の役割は、ただ最適解を提示することじゃない。この人たち――バルガスさん、エルラさん、レオンさん、カイさん――が、その力を最大限に発揮できる状況を作り出すこと。彼女は、自らの役割を、そう再定義していた。
そして、自ら馬車の陰へと乗り込み、いつでも指示を出せるように、地図と、目の前の地形を照合し始める。
**
やがて、街道の先、広場へと続く道の入り口に、カイが報告した通りの集団が見えた。
道の中央に立つのは、四人だけ。しかし、街道脇の冬枯れの林の中に、微動だにせず佇む、残りの六つの気配を、バルガスたちは肌で感じていた。
確かに、平民を装ってはいるが、その立ち姿、重心の置き方、そして、全員が履き慣れたものであろう、同じ型のブーツを履いているという異様さ。
それは、紛れもなく、厳しい訓練を受けた軍人のそれだった。
(ただの荷物の受け渡しに、ここまであからさまな配置をするか……? まるで、待ち伏せだな)
彼らは、敵意を見せるでもなく、ただ、静かにこちらを見つめている。
バルガスは、相手から十分に間合いを取った位置で、御者に馬車を停めさせた。そして、自らが馬車の前に立ち、腹の底から、声量のある声を張り上げる。
「あんたらが、取引相手か? 場所が変わったなんて聞いてないぞ」
返事の代わりに、道の中央に立つ四人の中から、一人の男が、ゆっくりと前に進み出た。
その男の姿を見て、バルガスは、思わず眉をひそめる。
他の者たちが、平民を装って、くすんだ色の服に身を包んでいるのに対し、その男だけが、まるで自分たちの身分を誇示するかのように、仕立ての良い革鎧の上に、深紅のマントを羽織っていた。陽の光を鈍く反射する胸当てには、見慣れない貴族家の紋章が、銀糸で緻密に刺繍されている。
それは、実戦の場で汚れることなど、想定すらしていないかのような、あまりにも場違いな出で立ちだった。
(……なんだ、こいつは。貴族のお坊ちゃんが、物見遊山でこんな辺境まで来たってのか……?)
相手のリーダーらしき男は、まるでそれが正しい平民への態度だとでも言うように、見下したような笑みを浮かべる。
「そうだ。間違いない。その荷を引き受けに来た。これが、正式な書状だ。見たいと言うなら、見ればいい」
男は、懐から、王家の紋章が入った羊皮紙を差し出して鷹揚に掲げて見せる。
バルガスは、それをチラリと横目で確認すると、相手の目を真っ直ぐに見据えた。
「あんたが、副官か? 俺は、副官に直接渡すようにと、ギルマスから言われてるもんでね」
その、息の詰まるような、腹の探り合い。
まさに、その時。
これまで、ただの御者として、馬の手綱を握っていた男が、音もなく馬車から飛び降りる。彼は、バルガスの左前に立つと、彼にだけ聞こえるような、低い声で告げた。
「――バルガス殿。あれは、偽物だ」
御者は、自らのローブの合わせを、僅かに、しかし、バルガスにはっきりと見えるように、指でつまみ上げる。
その下には、ただの御者には、決して似つかわしくない、使い込まれた短剣と、漆黒の革鎧。
そして、その左胸には。
月光を浴びて静かに佇む、三ツ目の『白いカラス』の紋章が、くっきりと刻まれていた。
「……相手は、王国軍ではない。あの紋章は、どこかの領主に忠誠を誓う『騎士団』のものでしょう」
御者の、冷静な囁き。
その情報に、バルガスの頭の中で、全てのピースが、音を立てて繋がった。マードックとの会話、貴族への不信感、そして、この、あまりにも芝居がかった出迎え。
バルガスは、にやりと、獣のような笑みを浮かべた。そして、今度は、相手を煽るように、声を張り上げる。
「ほう、王国軍の副官と聞いていたが、その薄汚れた格好は偽装か? それとも、どこぞの騎士様が、物取りにでも身をやつしたのか?」
「なっ…!」
その、平民からの、あまりにも無礼な言葉に、貴族らしき男の顔色が変わる。
そしてエルラが、呆れたように小さくため息をついた。
「はあ、バルガスの貴族嫌いの悪いところがあふれ出したね…」
「平民の分際で、我々は騎士だぞ! 騎士爵を持つ者を愚弄するなら、手打ちにして、力ずくで奪ってもいいのだぞ!」
その言葉を合図に、街道脇に隠れていた六人が、一斉に姿を現し、バルガスたちを包囲する。
バルガスは、すかさず問う。
「ほう、王国軍ではない、と、そう認めるんだな? では、貴族の名を詐称する盗賊ってことでいいな?」
しかし、相手は、腐っても訓練された騎士10人。こちらの戦力は、『鉄の街道』と御者の5人。しかも、馬車と、中にいるノエルを守りながらの戦闘は、あまりにも分が悪い。
騎士然とした男は、自分たちが数の上で有利だと判断し、勝ち誇ったように声を上げた。
「どうする? 今ならただの騎士侮辱罪として、お前の首だけで勘弁してやろう。さあ、積み荷を置いて立ち去れ!」
男は、威勢を張るため、その腰のロングソードを、派手な音を立てて抜き放った。
それは、最悪の手だった。
街道で待ち伏せをし、王国軍を騙り、そして、先に剣を抜く。どう考えても、ギルドの規約上、「盗賊」として処理されても、文句は言えない。
さらに、訓練された騎士たちは、指揮官の抜剣を「攻撃開始」の号令として捉え、全員が、一斉に剣を抜き、天へ掲げた。
「……やれやれだ」
バルガスは、呆れながらも、戦斧を静かに構える。エルラとレオンも、腰の短剣に手を掛けた。最初から、接近戦に持ち込み、リーダーを叩き潰す算段だった。
そしてここには、カイの姿はない。カイは、この騒ぎが始まる前に、既に木立の中へと静かに消えていた。
戦闘が始まる、バルガスの合図だけを、息を殺して待っていた。
そのカイの目に、街道の反対側の枯れ林の間から、キラリ、と太陽の光が反射した。
そこには、傭兵ナルの姿があった。不穏な空気を感じて、街道を戻り、抜いた剣で太陽光を反射させ、カイに気づかせた。
さらに、左手の指を立てて企図を伝える。
(左、敵、二人、任せろ)
カイは、ニヤける口元を必死で隠し、掲げた左手を握り、応える。
(了解。待機)
そして右手で、短剣を強く握り直した。情報の包囲網は、完全に、完成していた。あとは、盗賊として処理していいものか、バルガスの判断を待つだけだった。
そしてバルガスは、さらに追い打ちをかける。
「ん? どうした? 盗賊のくせに、抜いた剣の使い方を知らんのか?」
「うるさい、黙れ! もういい、全員殺せ!」
リーダーの男が、怒りのままに、そう叫んだ。
その瞬間。
街道に、風が流れた。
馬車を囲んでいた六人の騎士たちの足元から、冬の枯れた大地を突き破り、無数の蔦が、蛇のように瞬時に生え、彼らの足に絡みつき、その体勢を崩させる。
「なっ!?」
驚く彼らの間を、魔力を纏った黒い一陣の疾風が、バルガスの後方から敵陣へと吹き抜けた。
音は、ない。
ただ、風が通り過ぎた後には、中央にいた指揮官を除く、三人の騎士たちが、声もなく、膝から崩れ落ちていた。
タイミングを合わせて飛び出したカイとナルは、その、あまりにも圧倒的な、一瞬の出来事に、動きを止めて立ち尽くす。
そこにいた全員が、何が起きたのか分からないまま、声も出せない。もちろん、敵のリーダーも。
彼の首筋には、いつの間にか、細身の片刃の剣が、冷たく添えられていた。
しかし、バルガスからは、男の影になって、その剣の持ち主の姿は見えない。
ただ、静かな、しかし、芯の通った声だけが聞こえた。
「バルガス殿、移送警護、感謝する。申し訳ないが、そこに転がっている盗賊どもを、縛り上げていただけないか? 帝国軍ではなくて、まさかこんな面白いものが釣れるとは思っていなかったのでね。対処が、少し遅れた。申し訳ない」
声の主が、敵リーダーの影から、ゆっくりと姿を現す。
そこには、漆黒のローブに身を包んだ、黒髪黒目の青年が、男の首筋に剣を立て、静かに立っていた。
「烏……か……」
バルガスは、隣に立つ御者が、畏敬の念を込めて、そう呟くのを聞き逃さなかった。
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