第36話:声なき道標と、軍師の価値
冬の街道に、重い沈黙が落ちていた。
カイがもたらした『崖崩れ』という絶望的な報告は、野営地の空気を一変させた。
「とにかく、まずは現場を見てからだ」
バルガスは、そう結論付けた。
商隊頭も、その提案に頷く。
「へい。百聞は一見にしかず、です。この目で見て、どうにもならねえようなら、潔く、南の町へ迂回しやすんで」
こうして、一行は、重い空気を引きずりながらも、問題の崖崩れ現場へと、馬車を進めることになった。
**
そしてしばらくの後、目の前の惨状に、その場の全員の動きが停止する。
つづら折りの稜線道が、まるで巨大な獣に食いちぎられたかのように、約五十メートルにわたって、その断面を無残に晒していた。
ギルドの小ぶりな箱馬車なら、腕利きの御者が操れば、なんとか通れるかもしれない。
だが、後続の商隊が引く、商品をうず高く積んだ幌馬車では、絶望的だった。
「こいつは……参ったな……」
現場を見た商隊頭が、がっくりと肩を落とす。しかし、彼はすぐにプロの顔に戻ると、バルガスに頭を下げた。
「バルガスの旦那。うちの荷では、ここを越えるのは無理でしょう。あんた方の荷なら、なんとか行けるかもしれない。我々に構わず、どうか先へ進んでくだせえ。俺たちは、南の町へ迂回しますんで」
それは、商人として、そしてこの世界の旅人として、最も理に適った判断だった。
しかし、バルガスは、その提案に即座には頷けなかった。
(この時期の、南への迂回路は危険すぎる。それに、あの傭兵一人じゃ、荷を満載した馬車二台は守り切れねえ。今は年の瀬で、盗賊どもが一番活発に働く時期だっていうのに……)
彼の脳裏には、マードックの言葉と、ギルドの、そして『鉄の街道』の看板を背負う者としての、矜持が渦巻いていた。
一行が膠着状態に陥る中、これまで一切の感情を見せなかった傭兵ナルが、静かに口を開いた。
「……バルガス殿。これは、本当にただの自然災害か?」
その声は低く、淡々としていたが、その場の全員の背筋を、わずかに凍らせる響きがあった。
「この崩れ方は、あまりに局所的だ。まるで、誰かが、ここが崩れるのを『知っていた』かのように……。自然災害を利用した、盗賊どもの待ち伏せの可能性も、考慮すべきだ」
ナルの視線が、ギルドの箱馬車へと、鋭く注がれる。『鉄の街道』の面々の間に、緊張が走る。
「あんたたちの荷は、危ないものなのだろう?」
その、熟練の男たちの思考が交錯する様を、ノエルは、レオンの背後から、ただ静かに観察していた。
彼女の頭の中では、魂に宿る知識が、高速で状況分析を開始している。
――任務:荷を、予定通り、遅滞なくアウロラへ届ける。
――敵情:不明。ただし、ナルの指摘通り、人為的な罠の可能性もゼロではない。
――地形:視界・射界はつづら折りのため制限を受ける。掩蔽・隠蔽に適した場所は少ない。障害は、この崩落箇所そのもの。緊要地形はこの場所。この停滞した状況を敵が利用して奇襲することが可能。そして、接近経路は、前後左右、どこからでも接近できる。
そして、ノエルの目は、地図にはない、別のものを見ていた。
崩れた土砂の断面を、じっと見つめる。そこを流れる、僅かな水の筋。雨水が、どこから来て、どこへ流れていくのか。
(……違う。罠じゃない。この崩れ方、水の流れ方…。この真上に、地図にはない沢がある。そして、あそこ……)
彼女の視線が、冬枯れの森の中に、僅かな植生の違いで生まれる、一本の不自然な線――『植生境界』――を捉えた。
議論が平行線を辿る中、ノエルが、一歩前に出た。
「……バルガスさん。道は、あります」
その、静かだが、確信に満ちた声に、全員の視線が集まる。
「迂回路は、あります。でも、南の湿地帯ではありません。……あちらです」
彼女が指さしたのは、何もない、ただの丘のなだらかな斜面だった。
「あの、木の種類が変わっている場所。植生境界の線上は、地盤が固く、土が流れることもありません。それに、今の時期なら草木も少なく、馬車が十分に通れる道が、見えているはずです」
その、あまりにも常識を逸脱した分析。商隊頭は「何を言ってるんだ、この小娘は」と、呆れた顔をしている。
ナルもまた、その提案に、初めて感情を露わにした。
「……嬢ちゃん、何を言っている。ただの勘か? そんな不確かな道を行く方が、よほど危険だ。……それとも、あんたには『見えて』いるのか?」
彼は、ノエルの黒髪黒目をじっと見つめ、核心を突いた。
「……魔法で、道を調べたのか? それくらい、できるはずだ。――『魔族』なんだろう?」
場の空気が、凍りつく。
エルラとレオンが、咄嗟にナルとノエルの間に立ちはだかる。
その言葉は、ノエルの心の、最も柔らかな部分を、冷たい刃で抉った。
――『魔族』。
ギルドの地下資料室で、埃っぽい文献の中に見た、あの禍々しい言葉。
『森の奥深くに住み、魔法を巧みに使い、天変地異を引き起こす、恐るべき存在』
その記述は、常に、恐怖と敵意に満ちていた。
自分の黒髪黒目が、その「異質な存在」の証明だと、突きつけられたかのようだった。
血の気が引き、唇が、小さく震える。反論しようにも、言葉が出てこない。
違う。私は、違う。そう叫びたいのに、喉が、恐怖で凍りつく。
ただ、絶対的な確信を宿した瞳で、パーティーのリーダーであるバルガスを、真っ直ぐに見つめる。そして、今、必要な言葉を絞り出す。
「……道は、あります」
その瞳の力。バルガスは、一瞬、ギルドマスター・マードックの、あの全てを見透かすような眼光を思い出した。
彼は、賭けることにした。この、小さな軍師の『目』に。
「よし、全員聞け! 小迂回して進む! カイ、先行してルートの安全を確認してくれ」
「へっ、言われずとも」
カイは、バルガスの言葉が終わる前に、音もなく丘の斜面へと消えていった。
その、独断とも言える決断と、力強いリーダーシップ。それを見ていたエルラが、呆れたように、しかしどこか誇らしげに、バルガスにだけ聞こえる声で言う。
「……やれやれ。だんだん、マードックに似てきたじゃないの、あんた。あの人の『面白い』は、こういうことだったのね」
「うるせえ!」
バルガスは、照れ隠しに、そっぽを向くと、唖然としている商隊頭に一言告げた。
「『鉄の街道』を信じるなら、ついてきな」
そして自らも馬車の準備を始める。その背中には、リーダーとしての、揺るぎない覚悟があった。
**
カイが丘の斜面へと消えた後、バルガスは即座に指示を飛ばしていた。
一行は、崖の手前で、箱馬車を守るように円陣を組み、いつでも動けるように警戒態勢を維持している。
その静寂の中、ナルが、一人地図を広げて今後のルートを思考するノエルの元へ、静かに歩み寄った。
「……嬢ちゃん。さっきは、悪かったな。『魔族』なんて言って」
その、予想外の謝罪の言葉に、ノエルは顔を上げた。
「あれは、俺たちのような傭兵が、戦場で使う、蔑称みてえなもんだ」
ノエルは、その言葉に、静かな衝撃を受けていた。『魔族』という、自分に向けられた明確な拒絶の言葉。それが、ただの『無知』と『立場』から来るものであったという事実。
「嬢ちゃんのような黒髪黒目の連中は、本来は『森の民』と呼ぶのが正しい、と、西の森の向こうに住む連中は言っていた。……あんたが何者かは知らんが、魔法が使えねえなら、あんたは、ただの『嬢ちゃん』だ。それだけだ……」
森の、民……。
ノエルの脳裏に、炎の魔道士が残した、母の伝言が、雷のように蘇る。
――『両親は、森の民の集落で、生きている』
「その……! 『森の民』のこと、もっと詳しく教えてください!」
ノエルは、思わず、ナルのローブの袖を掴んでいた。その、あまりにも必死な様子に、ナルは少しだけ目を見開く。
「……いや。俺が知っているのは、それだけだ。すまん」
その会話を、エルラとレオンが、少し離れた場所から、静かに見守っていた。
レオンが、感心したように、しかし、誰に言うでもなく呟く。
「傭兵も、意外と筋を通すものなのだな……」
その呟きに、エルラが、ふん、と鼻を鳴らして応じた。
「傭兵なんて、理念もなく金で動くだけのコウモリ野郎ばかりかと思っていたけど。たまには、ああいう殊勝な奴もいるのね」
その口調は、まだ僅かに侮蔑の色を残していたが、ナルという個人への評価が、少しだけ変わったことを示していた。
**
ノエルが指し示した、地図にない道。
それは、ただの勘や、希望的観測に基づいたものではなかった。冬枯れの森が、その僅かな植生の違いによって、無言で語りかけてくる、大地の声。
彼女は、その声を聞き分け、最も確実な活路を、ただ論理的に導き出したに過ぎない。
バルガスが下した、リーダーとしての決断。
それは、パーティーの、そしてキャラバン全体の運命を、たった一人の少女の常識外れの分析に委ねず、全ての責任をバルガスが負うということだった。
斥候カイは、バルガスの命令を受け、逡巡することもなく、その未知のルートの安全確保へと向かった。それは、鉄の街道というパーティ間の信頼だった。
一行は、カイの帰りを待つ間、崖の手前で緊張したまま待機する。
冬の陽は短く、既に空は、昼の青さを失い、淡い茜色に染まり始めている。道が見つからなければ、今日中に宿場町へ着くのは絶望的だ。
焦りと、寒さと、そして見えざる敵への警戒が、一行の体力を静かに、しかし確実に奪っていく。
その、誰もが口を開きかねる重い空気を、不意に傭兵ナルが崩れた崖の方へ顔を向けたのが、断ち切った。
そして、その崖の向こうから、カイが音もなく帰還する。
「バルガス、道はあった。ひよっこの言う通りだ。多少の坂はあるが、地盤は固い。これなら、問題なく街道に合流できる。今日中には、宿場町に着けるだろう」
安堵の声が、一行から漏れる。しかし、カイは、険しい表情のまま、バルガスにだけ聞こえる声で続けた。
「……だが、奇妙だ。道中、ずっと、誰かに見られているような、嫌な視線を感じた。最初は、あの傭兵かと思ったが、どうやら違う……」
その言葉が、安堵しかけていた一行の空気を、再び鋭い緊張で満たしていった。
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