第35話:冬の街道と、傭兵
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【新章開始】です。
ここから、物語は大きく動き出しますので、ぜひお見逃しなく!
吐く息が、冬の冷たい大気の中で、真っ白な結晶となって霧散する。
新年まで、あと一週間。
年の瀬の浮かれた空気などまるで届かぬように、ニューログレインの職能ギルドのトップ―――ギルドマスター・マードックの執務室は、静かな緊張感に支配されていた。
「――いいか、バルガス。今回の荷は、ただのガラクタじゃねえ。下手をすりゃ、国がひっくり返る代物だ。道中、何があっても、絶対に手放すんじゃねえぞ」
マードックは、机の上に広げられた領都アウロラまでの街道図に、太い指で一本の線をなぞりながら、地の底から響くような声で言った。
彼の前には、『鉄の街道』のリーダー、バルガスが、熊のような巨体を少し窮屈そうにしながらも、腕を組んで立っている。
「へっ、分かってるさ、ギルマス。だからこそ、俺たち『鉄の街道』にご指名がかかったんだろ?」
「そういうことだ。……それと、アウロラに着いたら、王国軍から、どこかの部隊の副官が合流する手筈になっている。装置の引き渡しは、そいつの指示に従え。よろしく頼むぞ」
マードックが、机の上の書類に目を通しながら、何気なく告げる。
その言葉に、バルガスは、面倒くさそうに無精髭の生えた顎を掻いた。
「副官って言うと、参謀様か。このクソ忙しい戦時に、そんなに暇な部隊があるたぁ、驚きだ。まあ、どっちにしても、偉そうな貴族様のお相手は、ごめんだぜ」
「まあ、上手くやってくれ……」
マードックの口元が、わずかに歪んだ。長年の付き合いになる二人の間には、それ以上の言葉は必要なかった。
**
東門の前は、旅立つ者と、それを見送る者たちの、白い息遣いで満ちていた。
ノエルは、ハンナに譲られたお古のローブを、自分の小さな体に合わせて詰め、大切そうに着込んでいる。その分厚い生地が、辺境の冬の厳しい風から、彼女の体を守っていた。
「いいかい、ノエル。足手まといになるんじゃないよ。少しでも危ないと思ったら、すぐにバルガスの背中に隠れな。あんたを無事に帰すまでが、あたしの仕事なんだからね」
ハンナは、いつものようにぶっきらぼうに言うが、その目には、隠しきれない心配の色が浮かんでいた。
「リヴィアさんからも伝言!『領都のイケメン情報、絶対ゲットしてきてよね!』だってさ!」
「も、もう! サラちゃん!」
サラとリリィが、いつものようにじゃれ合いながら、ノエルに小さな布袋を差し出す。中には、旅の安全を願う、手作りのお守りが入っていた。
「……ありがとう、ございます」
仲間たちの温かい見送りを背に、ノエルは、深々と頭を下げた。そして、今回の任務のためにギルドが用意した、小ぶりな箱馬車の横へと、静かに進む。
そして、バルガスの号令一下、一行は動き出す。
その行軍陣形は、完璧だった。
斥候であるカイの姿は、最初からどこにもない。彼は、一行が出発するよりも遥か前から、この先の街道の安全を確保するため、既に薄闇の森へと消えていた。
馬車の右側を、治癒の心得もあるエルラが、左側を、パーティーの良心である槍使いのレオンが、それぞれ馬の歩調に合わせて歩く。
そして、最後尾の殿は、巨大な戦斧を背負ったバルガス自身が固める。
ノエルは、一応は護衛対象であるものの、馬車には乗らず、フル装備のレオンのすぐ後ろを軽装で黙々と歩く。
それは、彼女の並外れた持久力を知る『鉄の街道』の面々が、その選択に何も言わなかったからだ。それでも、いつでも馬車に飛び乗れるように注意はされていた。
『鉄の街道』の姿は、一見してプロの戦闘集団であることをうかがわせた。それは、彼らが纏う、よく似た意匠のローブによるものであった。
ギルド支給品を元にしたローブではあるが、長年の使用でところどころに継ぎ接ぎがされ、それぞれの戦闘スタイルに合わせて、裾の長さや切れ込み、フードの深さが微妙に調整されていた。それは、彼らが一つのチームであり、同時に、それぞれが独立したプロフェッショナルであることを、雄弁に物語っていた。
**
街を出て、街道に差し掛かった最初の広場。
そこには、既に2台の荷馬車が、出発の準備を整えて待っていた。彼らは、『鉄の街道』という、この地域で最も信頼の置ける護衛パーティーが出発するのを見計らい、ここで合流するつもりだったのだ。
「バルガスの旦那、おはようございます! いやはや、冷えますな! よろしければ、少し後ろから、ご一緒させていただいても?」
商隊頭の男が、最後尾のバルガスに、敬意を込めて、しかし商魂たくましく挨拶する。
「おう、構わねえぜ。だが、俺たちの仕事は、こっちの荷だけだ。てめえらの面倒は見ねえ。それでもいいならな」
「へい! もちろんでさ!」
この辺りの街道は、ここ数年、比較的安全だと言われている。それは、ひとえにニューログレインの職能ギルド、特に『鉄の街道』の地道な魔物討伐の賜物だった。
彼らのようなBランクパーティーが一本の街道を定期的に利用するだけで、その周辺の魔物は危険を察知して寄り付かなくなる。彼らの存在そのものが、最強の『魔除け』なのだ。
護衛代を払わずとも、彼らの数キロ後ろを走るだけで、安全のレベルは段違いになる。
それが、この街道の暗黙のルールであり、商隊の知恵だった。
一行は、追随してくる商隊と共に、再び歩みを進める。
ノエルは、商隊の護衛の中に、一人だけ、ギルドの者とは明らかに異質な空気を纏う男がいることに気づいていた。
傭兵なのか、どこかの私兵なのかは分からない。ただ、その静かな佇まいが、彼女の魂の奥底にある「知識」に、微かな警鐘を鳴らしていた。
「…レオン、どう思う? あの傭兵」
最後尾を歩くバルガスが、馬車の左側を行くレオンに、低い声で問いかけた。
「…分かりません。ただ、あのローブの捌き方、腰の落とし方。得物は、腰に下げたあの感触からして、短めの短剣の類でしょう。相当な体術の心得もありますね。少なくとも、そこらのゴロツキとは訳が違う……」
「だろうな」と、バルガスは頷く。
「エルラ、お前から見て、あの男の魔力は?」
馬車の右側から、エルラの冷静な声が返ってくる。
「ほとんど感じないわ。でも、それは、完全に抑え込んでいるからかもしれない。いずれにせよ、油断できる相手じゃないわね」
『鉄の街道』は、その一瞬のやり取りだけで、名も知らぬ傭兵の力量を、正確に分析し終えていた。
エルラが、部隊間の連携のため、その傭兵に声をかける。
「道中、何かあれば合図を。不測の事態には、協力をお願いしたい」
「……ナルだ。戦場で聞き間違えることがない」
傭兵は、必要最低限の言葉で、そう名乗った。
そして、静かに続ける。
「契約は、この商隊の護衛のみ。貴殿らの戦闘に、関与する義理はない。こちらも、不測の事態以外は、手出し無用で願いたい」
その明確な拒絶と、ギルドへの不信感が滲む声に、カイがいれば舌打ちの一つもしただろう。
「……まあ、傭兵なんざ、そんなもんだ」
そう言って、バルガスは肩をすくめるだけだった。
ナルと名乗った傭兵は、その会話の間、ノエルの黒髪黒目を、フードの奥から一瞥していた。
(…黒髪の嬢ちゃんか。珍しい。…魔族か? それにしては、魔力の気配が、まるで感じられんが…)
彼の心中の呟きを、知る者は誰もいない。
**
一日目の夜は、凍てつくような寒さの中での野営となった。
予定通り、街道から少し外れたこの場所に一行は腰を落ち着けた。
この場所には、頻繁に旅人や商隊が利用するためだろう、焚き火の跡がいくつも残る、開けた野営地として自然に整備されていた。
焚き火の暖かさだけが、唯一の救いだった。それぞれのプロが、それぞれの役割を黙々とこなし、野営地には、薪のはぜる音と、冬の風の音だけが響く。
「嬢ちゃんの仕事じゃない……」
ノエルは、食事の準備を手伝おうとした。故郷の村では、それが当たり前だったからだ。だが、焚き火の番をしていたレオンに、やんわりと断られてしまった。
彼女は、ここが村とは違う、プロフェッショナルの世界なのだと、改めて痛感した。自分の役割は、足手まといにならないよう、ただ付いて歩くことだけ。
彼女は、差し出された簡素だが温かいスープを黙って受け取ると、一人、火の輪から少し離れた場所で、羊皮紙の地図を広げた。
その小さな背中に、ふわりと、もう一枚の毛布がかけられる。振り返ると、エルラが静かに立っていた。
「明日は、この旅で唯一、暖かいベッドで眠れる宿場町よ。それまでの辛抱だから、今夜は体を冷やさないようにね」
そう言うと、エルラはノエルの返事を待たずに、馬車の横を指さした。
「そこなら風が当たらない。そこで休みなさい」
ノエルは、その不器用だが確かな優しさに、小さく頷くと、言われた通りに馬車の横に寄りかかり、毛布にくるまって目を閉じた。
**
二日目の、まだ夜が明けきらない薄明の中。
一行が出発の準備を始めていると、森の中から、まるで影が滲み出るように、カイが音もなく帰還した。彼は、出発を控え、既に前方の街道の偵察を終えてきたのだ。
カイは、焚き火で凍えた手を温めながら、バルガスにだけ聞こえる声で報告する。
「バルガス、ヤバいぜ。この先の崖道、昨日の夜の冷え込みで、盛大に崩落してやがる。俺たちの馬車は通れるが、商隊の連中の、荷を満載した幌馬車じゃ、まず無理だ」
その絶望的な情報に、バルガスは唸った。商隊の連中のことは契約外だ。放っておくのが、ギルドの流儀かもしれない。だが。
「……ちっ、見殺しにもできねえか」
長年の経験を持つ商隊頭のことだ、迂回路の一つや二つは知っているだろう。
しかし、この時期の、地図にない道は危険すぎる。下手に情報を与えれば、彼らを死地に追いやることにもなりかねない。
かといって、このまま置き去りにするのも、寝覚めが悪かった。
馬車の横で、その会話を聞いていたエルラが、静かに問いかける。
「どうするつもり、バルガス? 我々の契約は、あくまでこの荷を運ぶことだけ。彼らに深入りするのは、ギルドの流儀に反するわ」
「……分かってる。少し、考えさせろ」
バルガスは、頭をガシガシと掻くと、腕を組んで深く考え込んだ。彼の眉間に、再び深い皺が刻まれる。
問題は、もはや彼の胸の内だけのものではなかった。それは、パーティー全体の判断として、重く、冷たい冬の石のように、そこに鎮座していた。
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