第33話:指先革命と、森の道
まだ街全体が眠りから覚めやらぬ、冬の早朝。
ニューログレインの職能ギルドは、いつもの荒々しい喧騒が嘘のように、静まり返っていた。高い天井の窓から差し込む朝の光が、空気中を舞う細かな埃を、きらきらと黄金色の筋として照らし出している。遠くで聞こえるのは、パン屋が窯に火を入れる音と、早起きの鳥たちのさえずりだけ。
ギルドという組織に『休日』という概念はない。依頼は毎日生まれ、誰かがそれをこなし、街は回っていく。だが、この時間帯だけは、夜勤を終えた者と、これから依頼に向かう者が入れ替わる、束の間の凪の時間が流れていた。
その、静寂の中心。
壁に掛けられた巨大な地図の前で、一人の少女が、その栗色の髪を揺らしながら、熱心に何かを指さしていた。
「――ねえ、ノーエっち! この『月光草』ってやつ、マジでヤバくない!? 『夜間、月の光を浴びて、自ら淡い光を放つ』って、何それ、詩人かよ! しかも、採取可能時期、今だけじゃん!」
リヴィアだった。普段なら、この時間はまだベッドの中で二度寝を貪っているはずの彼女が、今日に限っては、まるで遠足前の子供のように、目を輝かせていた。自由に過ごす休日の朝、彼女は決まって早起きで、そのテンションは常軌を逸して高かった。
「はい。文献によれば、極めて特殊な生態を持つ薬草です。ただし、ギルドに登録されている効能は『観賞用』のみ。素材としての価値は、極めて低いと判断されています」
ノエルは、リヴィアの異常な興奮を意にも介さず、いつものように淡々と、しかし正確に情報を補足する。彼女は、壁地図の横に据えられた棚から、『20番 薬草』と書かれた透明なシートを取り出すと、地図の照合点に合わせて、そっと重ねた。地図上に、薬草の分布情報が、淡い緑色のインクで浮かび上がる。
「価値なんて、こっちで決めんの! こんなん、乾燥させて小瓶に詰めたら、絶対アクセサリーとして売れるって! 王都のオシャレな子たちが、飛びつくに決まってんじゃん!」
リヴィアは、ギルドに三人しかいない受付嬢の中で、最も流行に敏感で、その『女子力』は、もはや戦闘能力の域に達していた。
彼女の薬草知識は、あくまでギルドのデータベースに基づくものだったが、ノエルの持つ、軍事的な観点からの補足情報――「この薬草は夜行性の魔物が嫌う成分を含むため、夜間の行動時に身につければ、気休め程度の虫除けにはなる」といった、一見、無価値な知識の応用法――に、プロとしての好奇心と、オシャレ番長としての探求心を、激しく刺激されていたのだ。
「でも、リヴィアさん。この群生地、かなり森の奥です。それに、あなたは非戦闘員。私一人では、護衛は……」
「そこを何とかすんのが、あんたの仕事でしょ、『地図の妖精』様?」
リヴィアは、にやりと笑ってノエルの肩を叩く。彼女が昨日更新したばかりの、『50番 危険情報』のシートを指さした。
「てかさー、ノーエっち、この薬草も知らないの? 『鬼灯茸』。媚薬の効果があるって、もっぱらの噂なんだけど?」
「…いえ。私の知識では、そのキノコは強力な幻覚作用を持つ毒キノコです。摂取すれば、三日は悪夢にうなされるかと」
「マジで!? 危なっ! Dランクの連中、昨日、あれ採りに行くって息巻いてたよ!?」
そんな、プロ同士の情報交換のような会話を交わしていると、ギルドの重い扉が、ギィ、と音を立てて開いた。
真面目な『黎明のそよ風』の二人、サラとリリィだった。彼女たちは、良い依頼は朝のうちに確保する、という信条の下、この時間にギルドへ顔を出すのが常だった。そしてそれは、リヴィアの計画通りだった。
「あ、リヴィアさん。ノエルちゃんも。おはようございます」
「おはよー、サラち、リリぽ! 待ってたよーん!」
リヴィアは、普段のクールな受付嬢の仮面をかなぐり捨て、休日のハイテンションで二人に絡んでいく。サラとリリィは、その、普段とはあまりに違うリヴィアの姿に、若干、引き気味に口を開ける。
「でさー、ちょうどよかった! 今、ノーエっちと、森の奥まで、この『月光草』ってのを採りに行こうって話してたとこなんだけど」
「えっ」
サラとリリィの顔色が変わる。
「二人だけで、ですか? 地図で見ると、ここはダイアウルフの縄張りのすぐ近くじゃ……! 危ないですよ!」
サラが、本気で心配した顔で地図を覗き込む。リリィも、その隣で、こくこくと何度も頷いていた。
「だいじょーぶ、だって! この、うちの天才軍師様が、完璧な安全ルートを割り出してくれてんだから!」
リヴィアは、ノエルの肩を馴れ馴れしく抱きながら、自信満々に胸を張る。しかし、そよ風の二人の心配は、晴れない。
「でも、万が一ということもあります。それに、ノエルちゃんはまだEランクですし……」
「そうですよ。薬草採集に夢中になって、周りが見えなくなることも……」
その、あまりにも純粋な心配の眼差し。リヴィアは、その真面目さに、一瞬だけ呆れたような顔をしたが、すぐに、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そっかー。そんなに心配なんだー。じゃあ、しょーがないなー。あんたたちが、護衛として、ついてきてくれるってこと?」
「「えっ」」
「だって、心配なんでしょ? なら、あんたたちが守るのが、一番手っ取り早いじゃん。ね?」
その、有無を言わせぬ笑顔。
サラとリリィは顔を見合わせ、そして、観念したように、深いため息をついた。
「……分かりました。護衛、させていただきます」
「リヴィアさんの休日のお守りは、骨が折れそうだけど……」
こうして、四人の少女たちによる、一風変わった「薬草採取ピクニック」が、急遽―――リヴィアの計画通り、決定したのだった。
**
森は、厳しい冬の、澄み切った空気に満ちていた。
空は高く、突き抜けるように青い。木々の葉は完全に落ち、その裸の枝が、まるで空に描かれた繊細な模様のように広がっている。地面に積もった落ち葉を踏むたびに、かさ、かさ、と乾いた音が心地よく響いた。
四人は、ノエルが示した、獣道ですらないルートを、慎重に進んで行く。
「てか、マジで魔物の気配、全然しなくない? ノーエっちの地図、ヤバすぎでしょ」
そもそも気配なんて感じたことのないリヴィアは、まるでハイキングでも楽しむかのように、軽い足取りでノエルの隣を歩く。
「……このルートは、大型の肉食獣が、水を飲みに使う沢筋と、縄張りを示すマーキングポイントを、意図的に避けて設定されています。彼らの行動原理から予測すれば、この時間帯に、この場所で遭遇する確率は、2%以下です」
「に、にぱーせんとか、言われても分かんないし!」
その後ろを、サラとリリィが、プロの護衛として、周囲への警戒を一切怠らずについてくる。
リリィの弓を持つ手、サラの剣の柄を握る手。その動きには、一切の無駄がない。
やがて、一行は、森の奥深く、陽光が閉ざされた薄暗い窪地にたどり着いた。そこに、目的の『月光草』は、まるで夜空からこぼれ落ちた星々のように、透き通る青白い光を放ちながら群生していた。
「うわー! きれー……!」
リヴィアとそよ風の二人が、その幻想的な光景に、思わず感嘆の声を上げる。
採取は、順調に進んだ。
休憩中、四人は、近くの倒木に腰を下ろし、それぞれが持ち寄った水筒と、簡単な保存食を広げた。まるで、本当のピクニックのようだった。
「よし、じゃあ、お楽しみタイムと行きますか!」
リヴィアが、待ってましたとばかりに、懐から小さな薬研と、いくつかの薬草を取り出した。
「名付けて、『彩飾!指先革命』! ノーエっち、頼んだよ!」
ノエルは、リヴィアに促されるまま、薬草を調合し、皆の爪を、それぞれ違う色に染めていく。
彼女が使っているのは、ギルドのデータベースにも載っている、ごくありふれた薬草ばかりだ。しかし、魂の知識は、それらの薬草の、全く別の側面を知っていた。
(この青い花の汁は、染料として使える。ただし、樹液を混ぜないと定着しない)
(この赤い根は、発色が強いが、毒性もある。煮沸し、灰汁で中和すれば、安全に使えるはず……)
彼女は、まるで熟練の錬金術師のように、次々と安全で、美しい染料を作り出していく。
そして、その指先には、母から受け継がれた古い知恵が、無意識のうちに宿っていた。
「左の人差し指には、この青い花の汁がいいような、気がします。集中できる、ような……」
リリィの左の人差し指が、夏の空の色に染まる。
「サラさんの、右の中指には、この赤い根を。力が、出る……かもしれません」
サラの右の中指が、燃えるような鮮やかな紅に染まる。
「リヴィアさんには……。この、紫のキノコの胞子を。これは、少しだけ、人の心を惑わす効果が……」
「え、マジ!? それ、気になる男を落とすのに使えるってこと!?」
「……いえ、そういう効果では…」
和気あいあいとした、女子だけの時間。
その、穏やかな空気を引き裂いたのは、獣の、低い唸り声だった。
「「「!?」」」
茂みから飛び出してきたのは、一頭の、巨大なフォレストボア。Cランクの冒険者が、油断すれば手傷を負う、厄介な相手だ。
「リリィ、援護を!」
サラが、即座に剣を抜き、前に出る。リリィも、素早く弓を構えた。
リヴィアとノエルは、非戦闘員として、後方へと下がる。
フォレストボアが、一直線にサラへと突進する。
サラは、いつも通り、その突進を側面へと受け流そうと、剣を構えた。
しかし。
(あれ……? 剣が、いつもより、軽い……?)
その一瞬の思考の隙間。彼女の剣は、いつもよりも、コンマ数秒、速く振るわれた。それは、受け流すには、少しだけタイミングが早すぎた。
「しまっ……!」
サラの剣が、フォレストボアの硬い牙に弾かれ、彼女の体勢が、大きく崩れる。
好機と見たフォレストボアが、その鋭い牙で、サラの無防備な腹部を狙う。
まさに、その瞬間。
ヒュン、と空気を切り裂く音と共に、一本の矢が、フォレストボアの右目に、寸分の狂いもなく突き刺さった。
「グギャアアアアッ!」
凄まじい絶叫を上げ、猪がのたうち回る。その、苦し紛れの暴走が、逆にサラを安全な範囲外へと吹き飛ばした。
体勢を立て直したサラは、その隙を見逃さない。いつもよりも軽く感じる身体にまだ戸惑いながらも、その本能的な戦闘勘は、今が最大の好機だと告げていた。
彼女は、地を蹴り、一気に猪の懐へと飛び込むと、がら空きになった首筋に、渾身の一撃を叩き込んだ。
巨体が、どしん、と重い音を立てて地面に崩れ落ちる。
森に、つかの間の静寂が戻った。
「……助かった、リリィ。ありがとう」
「ううん。でも、今の、なんだか不思議な感じだった。矢を放つ瞬間、いつもより、すごく集中できた、ような……」
「私も……。なんだか、負ける気がしなかった。この爪を見てたら、勇気が湧いてきた、っていうか……!」
サラとリリィは、顔を見合わせ、自分たちの爪に塗られた、鮮やかな色を不思議そうに見つめた。
その言葉に、リヴィアが、ぽん、と手を打った。
「分かった! 絶対、これだよ!」
彼女は、得意げに、自らの爪を掲げて見せた。
「爪を可愛くすると、テンション上がって、戦闘力も上がるんだよ! やっぱ、女子力、最強じゃん!」
「そ、そうなんですかね……?」そよ風の二人が、半信半疑で顔を見合わせる。
「そうに決まってんじゃん!」
リヴィアの、華やかな結論の前に、女子力以外の全ての事柄は、些事としてかき消された。
サラとリリィは、自らの指先に現れた、見たこともない鮮やかな色に、ただただ、目を輝かせる。
和気あいあいとした、女子だけの時間。
四人は、ギルドまでの冬の道に、おしゃべりの花を盛大に咲かせながら歩く。
四人の楽しそうな笑い声が、冬の静かな森に、温かく響き渡っていった。
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