第32話:相部屋と、好奇心
マードックから、突然の「引っ越し」を命じられた、その日の夕方。
外は、もう、冬の早い闇に包まれている。
ノエルは、ハンナに半ば、引きずられるようにして、ギルドの裏手にある、小さな職員寮の前に、立っていた。
彼女の全財産は、その、か細い両腕に、全て収まってしまう。
ハンナからもらった、一冊のぶ厚いノートとひと揃えの服。そして、懐の奥に、そっと、しまい込んだ、あの、木彫りの人形。
それだけが、彼女が、この世界に、存在している、唯一の証だった。
「――あらあら、ノエルちゃん。お疲れ様」
扉を開けると、温かいランプの灯りの中から、小柄で、穏やかな笑みを浮かべた寮監の女性が、顔を覗かせて出迎える。
「さあ、冷えたでしょう。スープができてるわよ。ハンナさんも、一緒にどう?」
「いや、あたしは、いいよ。こいつを、頼んだよ、エマさん」
ハンナは、そう言うと、ノエルの背中を、ぽん、と一つ叩き、まるで、逃げるように、足早に、去っていった。
「…ここが、あなたの、新しいお部屋。もう一人、先に住んでる子がいるけど、すぐに仲良くなれるわ」
エマに案内された部屋の扉を開けた瞬間、ノエルは、目を丸くする。
部屋の半分は、華やかな、色とりどりの服や、化粧品らしき、キラキラした小瓶、読みかけの本などが、無造作に、しかし、生命力に満ちて、散らかっている。
村では、見たこともない、女の子らしい、甘い匂い。
ノエルは、その、あまりにも眩しい光景に、一瞬だけ、目を、輝かせた。
(……かわいい)
それは、彼女が、村での生活では感じなかった、年相応の、純粋な憧憬だったのかもしれない。
しかし、すぐに、我に返る。
与えられたのは、部屋の、もう半分。何もない、空っぽのベッド。彼女は、そこに、そっと、腰を下ろす。そこだけが、まるで、戦場の、仮設テントのように、静かで、冷たい。
ノエルは、自分が、この華やかな世界の住人ではないことを、改めて思い知らされた気がした。
その夜。
ノエルが、ベッドの上で、膝を抱え、今日一日、ギルドで得た情報を、ノートに整理していると、勢いよく、扉が開いた。
「ただいまー! あー、疲れた! 今日も、マジ、ありえないヤツばっかでさー!」
入ってきたのは、太陽のような、明るい栗色の髪を揺らした、一人の少女。ルームメイトのリヴィアだった。
彼女は、部屋の奥に、小さくうずくまっている、ノエルの存在に、ようやく、気づく。
「え。……あ。あんたが、噂の新人ちゃん? へぇ、マジじゃん。よろしく! アタシ、リヴィア!」
その、あまりにも屈託のない笑顔。ノエルは、その眩しさに、目を細め、ただ、小さく、頷くことしか、できなかった。
**
それから数日。
二人の、奇妙な共同生活が、始まった。
ノエルは、夜明け前には起床し、身支度を整え、エマのスープを飲む。そしてギルドへ一番乗りし、『地図の妖精』としての準備を終え、そして、日中は受付嬢として(相変わらず、ポンコツながらも)真面目に働く。
対して、リヴィアは、ノエルが出勤する頃、ようやく、ベッドから、むくりと起き出し、いつも、出勤時間ギリギリに、寮を飛び出していく。
二人は、同じ部屋にいながら、その生活リズムは、まるで、太陽と月のように、全く、交わらなかった。
ギルドの休日。
リヴィアが、まだ、夢の中にいる頃、ノエルは、一人、ギルドの、地下にある、埃っぽい資料室に、籠っていた。
目的は、両親の手がかりとなる、『森の民』に関する、情報の収集。
しかし、古い文献を、いくら、めくっても、『森の民』という言葉は、どこにも、見当たらない。代わりに、彼女の目に、頻繁に、飛び込んでくる言葉があった。
『魔族』――森の奥深くに住み、魔法を巧みに使い、天変地異を引き起こす。恐るべき存在。その記述は、常に、恐怖と敵意に満ちていた。
そして、彼女は、この地域の、古い魔物の生態記録の中から、一つの、不吉な名前を見つけ出す。
『竜』――かつて、この沼地一帯を支配し、その口から、劫火を撒き散らしたという伝説級の魔物。その描写は、まるで、あの、炎の魔道士の姿を現わしているかのようだった。
ノエルは、得体の知れない恐怖に、背筋が、すうっと、冷たくなるのを感じた。
失意の中、彼女は、資料室を出て、森へと向かう。
クレアが、最後に残した、あの、あまりにも微かな『痕跡』を、もう一度、自らの目で確かめるために。
しかしその痕跡は、季節の変化と共に、完全に自然に飲まれて消えてしまっていた。
ノエルは、足元に生える薬草を見つめる。姉があれほど夢中になっていた『薬の調合』。彼女は、初めて、自らの手で、試してみようと決意した。
それは、姉を理解したいという、妹の、切ない願いの、始まりだった。
**
夜。
すっかり、陽も落ちた頃、リヴィアが、あくびをしながら、部屋の扉を開けた。
彼女が見たのは、ベッドの上で、自分の、両手の爪を、不思議そうに、じっと見つめている、ノエルの姿だった。
その爪は、鮮やかな、しかし、どこか毒々しい、緑色に、染まっていた。
それは、彼女が、森で、希少な薬草の研究に没頭した、結果だった。
「――え。なにそれ!?」
リヴィアの、驚きの声。
彼女は、ノエルの手を取り、その、奇妙で、しかし、見たこともない、美しい(?)色に、目を、キラキラと、輝かせた。
「ノーエっち、これ、どうやったの!? てか、ヤバくない!? 超、ウザ可愛いんだけど! ねぇ、教えてよ!」
彼女は、ノエルの、薬草で染まってしまった爪に、異常なほどの興味を示した。
「ねえ、それ、他の色でもできんの!? 教えてよ!」
その、あまりにも強引な勢いに、流されるまま、ノエルは、薬草の調合知識を、ぽつり、ぽつりと語り始める。リヴィアは、それを、目を輝かせて聞き、元気のいい声を上げる。
「よし、決めた! 今度の休日、サラちと、リリぽも誘って、作戦会議ね! 名付けて、『彩飾!指先革命』作戦!」
ノエルは、その、全く理解不能な作戦に、ただ、首を傾げることしかできなかった。
初めて、本格的に、交わった、二人の視線。
ノエルの『孤独な探求』と、リヴィアの『好奇心』。
その、全く交わるはずのなかった、二人の世界が、この、『鮮やかな緑色の爪』という、たった一つの点を、接点として、今、まさに、繋がろうとしていた。
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