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【第三部開始】『辺境の軍師』~職能ギルドの受付嬢は、戦術の知識で静かに世界を救いたい~  作者: かわたん
第ニ部 第一章 初陣

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第31話:重なりと、可視化

 ニューログレインの職能ギルドの壁に、真新しい、巨大な地図が設置されたのは、ノエルが受付嬢になってから、数日が経った、ある日の昼下がりのことだった。


 今まで、依頼ボードの隣に、申し訳程度に貼られていた古い地図とは違う。壁一面を使った、それは、もはや地図というよりも、一つの『作戦司令室』と呼ぶにふさわしい威容を放っていた。


「――おい、新人。こっちへ来い」


 張り替え作業を終えた、無愛想な頑固親父――査定場のボルツ親方が、カウンターの中にいたノエルを、ぶっきらぼうに手招きする。

 その隣では、見習い査定員のフィンが、師匠の手伝いができることが、よほど嬉しいのか、誇らしげに胸を張っていた。ノエルは、その姿に、全く似ていないはずの、腕白な幼馴染の面影を、なぜか、重ねていた。


「…この、透明なシート。こいつは、フィンの、アイデアだ」

 ボルツは、壁地図の上に張られた、何枚もの『月光花の硝子葉』を、無骨な指で、とん、と叩いた。


「へへ…」フィンが、照れ臭そうに頭を掻く。


「…嬢ちゃんが、前の地図で、やりにくそうにしてた、ってな。…これなら、好きなだけ、情報を重ねられるだろ」


 その、あまりにも画期的な発明を、ギルドホールで暇を持て余していた『鉄の街道』の面々が、興味深げに、取り囲む。


「へぇ、面白いじゃねえか。これなら、地形と、魔物の配置を、同時に見れるってわけだ」


 カイとエルラが、感心したように、シートをめくり、その機能を確かめている。


 ノエルは、その光景を、ただ、静かに見つめていた。そして、誰に聞かせるともなく、ぽつりと、呟く。


「……オーバーレイ。フィルムによる、情報の階層化と、共有…。合理的、です」


 その、誰も知らない言葉に、その場の全員が、きょとんと、彼女の顔を見つめた。


 その、少しだけ気まずい沈黙を破ったのは、カウンターから飛んできた、ハンナの、呆れたような声だった。


「あんたたち! 仕事もしないで、毎日、毎日、酒飲んでるだけでしょ! いい加減に、依頼を受けな、この、ぐうたらども!」


「ガッハッハ! なに言ってやがる、ハンナ! 俺たちは、しばらく遊んで暮らせるくらい、特別報奨金を貰ったんだぜ? 今は、この街で一番面白そうな、地図の妖精様の、新しいおもちゃを、見物させてもらうのが、仕事みたいなもんだ!」


 バルガスの豪快な笑い声に、ノエルは、彼らの、その、あまりにも緊迫感のない姿に、少しだけ、呆れていた。


 **


 その新しい地図は、早速、その真価を発揮しはじめる。


 沼地での依頼を終えた、一組のパーティーが、泥だらけで、ギルドに帰還したのだ。


 ノエルが、慌てて躓きながらカウンターに入り、報告書を受け取る。


「…依頼は、達成、ですね。お疲れ様でした。報酬は…」

「待ちな、ノエル」

 ハンナが、それを制した。


「あんたたち、何か、気づいたことはないかい? 魔物の数が、いつもより多かったとか、妙な足跡を見つけたとか、何でもいい」

 ハンナに促され、パーティーのリーダーは、思い出したように、口を開いた。


「…そういや、妙に、統率の取れた狼の群れを見たぜ。あれは、魔物じゃねえのか…?」

「そうかい。分かった。…ノエル、情報料として、銅貨五枚、追加で支払いな」

「え?」


「ギルドの方針が変わったのさ。これからは、こういう、些細な情報でも、ギルドが、正式に買い取る。そして、その価値を、あたしたちが、分析する」

 ハンナは、そう言うと、ノエルに、にやりと笑いかけた。


「ま、あたしたち、っていうより、あんたの、仕事だがね」


 ノエルは、その新しい情報を、早速、透明なシートの一枚に、正確に書き込んだ。


 そして、カウンターから運び出した、山のような依頼報告書に、一つ一つ目を通しながら、その中から必要な情報だけを、驚くべき速度で抽出し、地図の上に設置された何枚もの透明なシートに、異なる色のインクで書き込んでいく。


『――南西の沼地、霧の発生、今朝の時点で、視界、約30メートル。湿度は、依然として高い数値を維持』


『――同地域、夜間における、ダイアウルフの目撃情報、三件。ただし、いずれも、単独での行動と推察』


『――要注意。沼地の北側、古い木道、一部、腐食により、崩落の危険性あり。重量超過での通行は、推奨されない』


 地形、天候、魔物の配置、そして、インフラの現状。


 これまで、冒険者たちが、自らの経験と勘だけに頼って、断片的に把握していた、戦場の全ての情報。それが、ノエルの手によって、一つの、多層的な、完璧な『総合状況図』へと、再構築されていく。


(…これなら、クレアお姉ちゃんの情報も、ちゃんと整理できる…)


 そして、それを見ていたカイとエルラが、ほう、と感嘆の声を漏らす。


「なるほどな。こうやって、常に最新の情報で更新し、複数のシートを組み合わせることで、あらゆる依頼に、多層的な分析を加えることができる、というわけか。…面白い。実に、面白い」


 ノエルは、その言葉に小さく頷くと、残りの報告書にも、黙々と目を通し、必要な情報を、地図へと転記していく。


 その、あまりにも集中した、人を寄せ付けない横顔。そして、彼女が作り上げていく、恐ろしいほどに精密な情報の城。


 バルガスたちは、いつしか、遠巻きに、畏敬の念を込めて、その光景を見守るようになっていた。


 ―――『地図の妖精』は、死んではいなかった。

 いや、むしろ、ギルドという名の『森』を得て、より強力な、そして、美しい『上位種』へと、進化したのだ。


 その事実を、その場にいた誰もが、肌で、感じ取っていた。


 **


 全ての報告書の分析を終え、ノエルが、ふぅ、と一つ、小さな息をついてカウンターに戻った時には、窓の外の光は、すっかり、午後の色を帯びていた。


 そして何気なく、『鉄の街道』の面々を見た。


 ぐうたらに見える。

 しかし彼らは、いつでも即応できるように、荷物を手の届くそばに置く。そして、その武器の手入れを、決して、怠らない。


 その、プロフェッショナルな姿を、ハンナが、ノエルにだけ、聞こえるように、教えた。

「…あれが、本物の冒険者ってやつさ。それに比べて、王都で、ふんぞり返ってる、どっかの『竜』も、少しは、あの心意気ってやつを、見習えれば、いいんだけどねぇ」


「竜…?」


 ノエルは、ぴくりと首を傾げた。

 竜とは、この世界で、最も強く、そして、最も恐れられる魔物のこと。その口からは、劫火を撒き散らし、全てを焼き尽くすという。まるで、あの、炎の魔道士のように。


 ノエルの、僅かに青ざめた顔を見て、ハンナは、慌てて、付け加えた。

「あ、いや、そっちの竜じゃなくて、だね。最近、王都で、やたらと名を上げている、うちのギルド出身の、『竜の咆哮』っていう馬鹿な五人組のことさ」

「…そう、ですか」


「ああ、そうそう。あいつらは、まだまだ、これからだ。若いんだから、少し、生意気なくらいで、ちょうどいいだろう」

 いつの間にか、会話に加わっていたバルガスが、人の良さそうな笑顔で、そう、笑った。


「ま、俺たちとは、目指すものが、違うからな」


 その会話を最後に、『鉄の街道』は、また、いつもの指定席である、食堂のテーブルへと戻っていった。


 昼から、ずっと、あの調子だ。


 本当に、暇なのだろう。彼らは、食堂のトーマスに、つまみを追加で注文しては、誰が一番早く、木の実の殻を割れるか、などという、心底どうでもいい競争に、熱中し始めている。


 その、あまりにも平和な光景に、ノエルの心も、少しだけ、穏やかになるのを感じていた。


「――ほう、いい地図ができたじゃねえか」


 二階の執務室から降りてきたギルドマスター・マードックが、ギルドホールを見渡す。


「やっぱりここで遊んでやがったな…おい、バルガス、貴様ら暇だろ? ちょっと、アウロラまで、行ってきてくれんか」

 その軽く言い放つ言葉は、有無を言わせない圧力を伴っていた。


 そしてマードックは、先日の、ニューログレイン防衛戦で鹵獲された、『荷車の装置』の解析結果を、彼らに伝えた。


 それは、純度の高い銀の使用や、魔力の痕跡は確認出来たものの、その機能も理論も、ボルツ親方でさえ解析不能とのことであった。


 そして、これを王都へ引き渡すため、まずは、領都アウロラまで、護衛してほしい、と。


「…指名依頼、ってことで、いいんだな? まあ、そんな危ねえシロモノ、俺らが引き受けるしかねえか」

 バルガスの目が、割の良い仕事を見つけた、獣のように、きらりと光った。


 そして、マードックは、カウンターの中で、その会話を、ただ、呆然と聞いていた、ノエルへと、向き直る。

「それと、ノエル」


「は、はいっ!」

「――ちょっと早いが、今日で、新人寮を出てもらう。これからは、職員寮だ。さっさと、荷物をまとめな。引っ越しだ」


 ノエルの、新しい『戦い』と、新しい『日常』が、同時に、動き出す。

 その、予感が、ギルドホールを、満たしていた。

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