第31話:重なりと、可視化
ニューログレインの職能ギルドの壁に、真新しい、巨大な地図が設置されたのは、ノエルが受付嬢になってから、数日が経った、ある日の昼下がりのことだった。
今まで、依頼ボードの隣に、申し訳程度に貼られていた古い地図とは違う。壁一面を使った、それは、もはや地図というよりも、一つの『作戦司令室』と呼ぶにふさわしい威容を放っていた。
「――おい、新人。こっちへ来い」
張り替え作業を終えた、無愛想な頑固親父――査定場のボルツ親方が、カウンターの中にいたノエルを、ぶっきらぼうに手招きする。
その隣では、見習い査定員のフィンが、師匠の手伝いができることが、よほど嬉しいのか、誇らしげに胸を張っていた。ノエルは、その姿に、全く似ていないはずの、腕白な幼馴染の面影を、なぜか、重ねていた。
「…この、透明なシート。こいつは、フィンの、アイデアだ」
ボルツは、壁地図の上に張られた、何枚もの『月光花の硝子葉』を、無骨な指で、とん、と叩いた。
「へへ…」フィンが、照れ臭そうに頭を掻く。
「…嬢ちゃんが、前の地図で、やりにくそうにしてた、ってな。…これなら、好きなだけ、情報を重ねられるだろ」
その、あまりにも画期的な発明を、ギルドホールで暇を持て余していた『鉄の街道』の面々が、興味深げに、取り囲む。
「へぇ、面白いじゃねえか。これなら、地形と、魔物の配置を、同時に見れるってわけだ」
カイとエルラが、感心したように、シートをめくり、その機能を確かめている。
ノエルは、その光景を、ただ、静かに見つめていた。そして、誰に聞かせるともなく、ぽつりと、呟く。
「……オーバーレイ。フィルムによる、情報の階層化と、共有…。合理的、です」
その、誰も知らない言葉に、その場の全員が、きょとんと、彼女の顔を見つめた。
その、少しだけ気まずい沈黙を破ったのは、カウンターから飛んできた、ハンナの、呆れたような声だった。
「あんたたち! 仕事もしないで、毎日、毎日、酒飲んでるだけでしょ! いい加減に、依頼を受けな、この、ぐうたらども!」
「ガッハッハ! なに言ってやがる、ハンナ! 俺たちは、しばらく遊んで暮らせるくらい、特別報奨金を貰ったんだぜ? 今は、この街で一番面白そうな、地図の妖精様の、新しいおもちゃを、見物させてもらうのが、仕事みたいなもんだ!」
バルガスの豪快な笑い声に、ノエルは、彼らの、その、あまりにも緊迫感のない姿に、少しだけ、呆れていた。
**
その新しい地図は、早速、その真価を発揮しはじめる。
沼地での依頼を終えた、一組のパーティーが、泥だらけで、ギルドに帰還したのだ。
ノエルが、慌てて躓きながらカウンターに入り、報告書を受け取る。
「…依頼は、達成、ですね。お疲れ様でした。報酬は…」
「待ちな、ノエル」
ハンナが、それを制した。
「あんたたち、何か、気づいたことはないかい? 魔物の数が、いつもより多かったとか、妙な足跡を見つけたとか、何でもいい」
ハンナに促され、パーティーのリーダーは、思い出したように、口を開いた。
「…そういや、妙に、統率の取れた狼の群れを見たぜ。あれは、魔物じゃねえのか…?」
「そうかい。分かった。…ノエル、情報料として、銅貨五枚、追加で支払いな」
「え?」
「ギルドの方針が変わったのさ。これからは、こういう、些細な情報でも、ギルドが、正式に買い取る。そして、その価値を、あたしたちが、分析する」
ハンナは、そう言うと、ノエルに、にやりと笑いかけた。
「ま、あたしたち、っていうより、あんたの、仕事だがね」
ノエルは、その新しい情報を、早速、透明なシートの一枚に、正確に書き込んだ。
そして、カウンターから運び出した、山のような依頼報告書に、一つ一つ目を通しながら、その中から必要な情報だけを、驚くべき速度で抽出し、地図の上に設置された何枚もの透明なシートに、異なる色のインクで書き込んでいく。
『――南西の沼地、霧の発生、今朝の時点で、視界、約30メートル。湿度は、依然として高い数値を維持』
『――同地域、夜間における、ダイアウルフの目撃情報、三件。ただし、いずれも、単独での行動と推察』
『――要注意。沼地の北側、古い木道、一部、腐食により、崩落の危険性あり。重量超過での通行は、推奨されない』
地形、天候、魔物の配置、そして、インフラの現状。
これまで、冒険者たちが、自らの経験と勘だけに頼って、断片的に把握していた、戦場の全ての情報。それが、ノエルの手によって、一つの、多層的な、完璧な『総合状況図』へと、再構築されていく。
(…これなら、クレアお姉ちゃんの情報も、ちゃんと整理できる…)
そして、それを見ていたカイとエルラが、ほう、と感嘆の声を漏らす。
「なるほどな。こうやって、常に最新の情報で更新し、複数のシートを組み合わせることで、あらゆる依頼に、多層的な分析を加えることができる、というわけか。…面白い。実に、面白い」
ノエルは、その言葉に小さく頷くと、残りの報告書にも、黙々と目を通し、必要な情報を、地図へと転記していく。
その、あまりにも集中した、人を寄せ付けない横顔。そして、彼女が作り上げていく、恐ろしいほどに精密な情報の城。
バルガスたちは、いつしか、遠巻きに、畏敬の念を込めて、その光景を見守るようになっていた。
―――『地図の妖精』は、死んではいなかった。
いや、むしろ、ギルドという名の『森』を得て、より強力な、そして、美しい『上位種』へと、進化したのだ。
その事実を、その場にいた誰もが、肌で、感じ取っていた。
**
全ての報告書の分析を終え、ノエルが、ふぅ、と一つ、小さな息をついてカウンターに戻った時には、窓の外の光は、すっかり、午後の色を帯びていた。
そして何気なく、『鉄の街道』の面々を見た。
ぐうたらに見える。
しかし彼らは、いつでも即応できるように、荷物を手の届くそばに置く。そして、その武器の手入れを、決して、怠らない。
その、プロフェッショナルな姿を、ハンナが、ノエルにだけ、聞こえるように、教えた。
「…あれが、本物の冒険者ってやつさ。それに比べて、王都で、ふんぞり返ってる、どっかの『竜』も、少しは、あの心意気ってやつを、見習えれば、いいんだけどねぇ」
「竜…?」
ノエルは、ぴくりと首を傾げた。
竜とは、この世界で、最も強く、そして、最も恐れられる魔物のこと。その口からは、劫火を撒き散らし、全てを焼き尽くすという。まるで、あの、炎の魔道士のように。
ノエルの、僅かに青ざめた顔を見て、ハンナは、慌てて、付け加えた。
「あ、いや、そっちの竜じゃなくて、だね。最近、王都で、やたらと名を上げている、うちのギルド出身の、『竜の咆哮』っていう馬鹿な五人組のことさ」
「…そう、ですか」
「ああ、そうそう。あいつらは、まだまだ、これからだ。若いんだから、少し、生意気なくらいで、ちょうどいいだろう」
いつの間にか、会話に加わっていたバルガスが、人の良さそうな笑顔で、そう、笑った。
「ま、俺たちとは、目指すものが、違うからな」
その会話を最後に、『鉄の街道』は、また、いつもの指定席である、食堂のテーブルへと戻っていった。
昼から、ずっと、あの調子だ。
本当に、暇なのだろう。彼らは、食堂のトーマスに、つまみを追加で注文しては、誰が一番早く、木の実の殻を割れるか、などという、心底どうでもいい競争に、熱中し始めている。
その、あまりにも平和な光景に、ノエルの心も、少しだけ、穏やかになるのを感じていた。
「――ほう、いい地図ができたじゃねえか」
二階の執務室から降りてきたギルドマスター・マードックが、ギルドホールを見渡す。
「やっぱりここで遊んでやがったな…おい、バルガス、貴様ら暇だろ? ちょっと、アウロラまで、行ってきてくれんか」
その軽く言い放つ言葉は、有無を言わせない圧力を伴っていた。
そしてマードックは、先日の、ニューログレイン防衛戦で鹵獲された、『荷車の装置』の解析結果を、彼らに伝えた。
それは、純度の高い銀の使用や、魔力の痕跡は確認出来たものの、その機能も理論も、ボルツ親方でさえ解析不能とのことであった。
そして、これを王都へ引き渡すため、まずは、領都アウロラまで、護衛してほしい、と。
「…指名依頼、ってことで、いいんだな? まあ、そんな危ねえシロモノ、俺らが引き受けるしかねえか」
バルガスの目が、割の良い仕事を見つけた、獣のように、きらりと光った。
そして、マードックは、カウンターの中で、その会話を、ただ、呆然と聞いていた、ノエルへと、向き直る。
「それと、ノエル」
「は、はいっ!」
「――ちょっと早いが、今日で、新人寮を出てもらう。これからは、職員寮だ。さっさと、荷物をまとめな。引っ越しだ」
ノエルの、新しい『戦い』と、新しい『日常』が、同時に、動き出す。
その、予感が、ギルドホールを、満たしていた。
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