第30話:社会人一年生と、専用の壁地図
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【第二部開始記念】
本日は、【一日二話投稿】です。
これは、二回更新の【二話目】です。先に朝7時の投稿からお読みください。
【新章開始】です。
ここから、物語は大きく動き出しますので、ぜひお見逃しなく!
スタンピードの激戦から二日が経ち、ノエルが受付嬢として初めてカウンターに立ったのは、年の瀬も控えた寒い朝のことだった。
ニューログレインの職能ギルドは、いつもと変わらぬ、湿った土と、パンの焼ける暖かい匂いに包まれていた。
新人寮の、硬いベッドの上で目を覚ましたノエルは、今日もまた、自らが置かれた、このあまりにも不可解な世界のルールについて、静かに思考を巡らせていた。
戦場の朝は、もっと単純だった。敵はどこにいるか。食料はあと何日分か。仲間は、生きているか。答えは常に、生存か、死か、その二つに収束する、極めて合理的な世界。
しかし、この『社会』という名の新しい作戦地域は、理不尽と、非効率と、理解不能な感情で満ちていた。
ノエルは、生まれて初めて、自らの魂に宿る『記憶の意思』が、全く役に立たない戦場に、たった一人で立たされていることを、痛感していた。
「――おはよう、ノエル。また、難しい顔して」
カウンターに立てば、先輩受付嬢であるハンナの、呆れたような、しかし、どこか心配そうな声が飛んでくる。
「あの、ハンナさん。一つ、質問が」
「なんだい、朝から」
ノエルは、懐から、先日マードックに手渡された金貨を一枚、そっと取り出した。
それは、スタンピードでの功績に対する特別報酬だったが、彼女の常識では完全に理解出来ていなかった。ただ、なぜか、ギルドで一番偉い人から、手渡されたお金というだけだった。
村では、銅貨を数枚やり取りするのが関の山。銀貨ですら、行商人が持っているのを、遠巻きに眺めるのがやっとだった。こんな、月のように輝く、重い硬貨など、見たこともない。
「ハンナさん…。この金貨というものは、一体、どのように、扱えばよろしいのでしょうか。銀貨、よりも価値があるの…ですよね…?」
その、あまりにも初歩的な問いに、ハンナは、一瞬、言葉を失った。そして、こめかみを強く押さえながら、深いため息をつく。
「…金貨一枚で、銀貨百枚。銅貨なら、千枚分だよ。あんたが毎日食べてる、トーマスのスープなら、それこそ、一年分は優に食べられるだろうね」
「い、一年分…!?」
ノエルは、その、想像を絶する価値に、目を見開いて絶句した。そして、その金貨を、まるで燃え盛る炭火でも触るかのように、慌てて懐へとしまい込む。
「……なくさないように、気をつけな。それだけだよ」
「は、はい…! わかりました…!」
ノエルは、よく分からないまま、しかし、真面目に頷いた。
ノエルが、金貨の価値に一人、戦慄していると、その背後に、いつの間にか、事務長のギデオンが立っていた。
「…新人。昨日の帳場だが」
「は、はいっ!」
びくりと肩を揺らすノエルに、ギデオンは、銀縁の眼鏡の奥から、値踏みするような視線を向ける。
「…数字の計算そのものに、間違いはない。正確無比。そこだけは、評価してやる」
「あ、ありがとうございます」
「だがな」
ギデオンは、とん、と指で帳簿の一点を叩いた。
「銅貨百二十枚を、銀貨十二枚と即座に換算できんようでは、話にならん。第一、なぜ、あの金貨一枚のお釣りを、全て銅貨で渡そうとした。客の麻袋が、破れるところだったぞ」
「…申し訳、ありません。その方が、枚数が多く、お客様が、より多くのものを得られた、と…」
「……はぁ」
ギデオンは、ハンナとは、また質の違う、深い、深いため息をついた。
「…まあいい。お前の教育は、ハンナの仕事だ。私は、結果だけを評価する。計算ができるなら、それでいい。せいぜい、足を引っ張るんじゃないぞ」
それだけを言うと、彼は、再び、音もなく、事務所の奥へと消えていった。
ノエルは、その痩身の後ろ姿に少し怖気づきながらも小さく頷いた。
「……あの人は、元斥候だからね。気味が悪いだろ?」
ハンナは、ノエルの顔を楽しそうに見つめると、耳元でこっそりと囁いた。
ノエルは、ようやく張り詰めていた息を吐き出し、その意識を、再び、ホールの喧騒へと引き戻させた。
ノエルの耳に、ギルドホールで朝から酒を飲む者たちの、陽気な声が飛び込んでくる。
「しかし、今回の戦後処理は、思ったより早かったな!」
「ああ。なんでも、ギルドと代官所が、結構うまく連携してるらしいぜ。街の復興も、順調だ」
「それもこれも、あのスタンピードを、最小限の被害で乗り切れたおかげだよな。…そういや、最近、例の『地図の妖精』、ぱったりと見なくなったよな?」
「ああ! アレだよな! あった、あった! あの、やたらと的確な情報が書かれたメモ! あれのおかげで、助かった奴、結構いるんじゃねえか?」
「だよなー! また、始めてくれねえかなあ。今じゃ、ギルドの名物みてえなもんだったのによ」
ノエルはその会話に、ただ、不思議そうに首を傾げた。「妖精…?」、と。
そして、冒険者たちの視線の先にある、壁の大きな地図へと、自らの視線を移す。
そこには、あの日の午後、自分が、興奮と、混乱と、焦りの中で、チョークで描き殴った作戦図が、まだ、生々しく残されていた。
しかし、今の、冷静になった彼女の目には、それは、ただの『ぐちゃぐちゃの落書き』にしか、見えなかった。
感情のままに引かれた、歪んだ線。統一性のない、走り書きの文字。合理性も、美しさも、そこには、何一つ、存在しない。
彼女の魂に宿る『記憶の意思』は、その合理性と有効性を理解していても、十五歳の少女ノエルにとっては、ギルドの大切な備品を、衝動的に汚してしまった、許されざる行為の痕跡でしかなかった。
(なんて、ひどいことを…。ギルドの、皆さんの、大切な地図に、私は…!)
ノエルの顔から、さっと、血の気が引いた。彼女は、カウンターから飛び出すと、その『罪の痕跡』の前に立ち、どうすればいいのか分からず、ただ、オロオロと、狼狽するばかりだった。
その、あまりにも奇妙で、そして、健気な光景を、カウンターの向こうから見ていたハンナは、本日、何度目か分からない、深いため息をついた。
彼女は、ゆっくりとノエルの元へ歩み寄ると、その小さな手を、優しく、しかし、力強く、掴んで止めた。
「あんた、何やってんだい」
「は、ハンナさん! だって、こんな、汚い落書きが…!」
「落書き、ねえ」
ハンナは、ふっと、笑った。その笑みは、呆れと、そして、どうしようもない、愛おしさに満ちていた。
「そいつは、この街を救った、名誉の勲章みたいなもんだ。消すやつがあるか。…まあ、確かに、そろそろ、新しいのが必要だとは思ってたよ」
ハンナはそう言うと、ギルドの一番奥、いつも、ごう、ごう、と炉の音が聞こえてくる、査定場の方を、ちらりと見やった。
「安心しな。今、あの無愛想な頑固親父――ボルツ親方が、あんたのためだけに、もっとでかくて、もっと情報を書き込みやすい、『専用の壁地図』を作ってくれてるのさ。もうすぐ、完成するって、息巻いてたよ」
「……え?」
ノエルは、その言葉の意味が、まだ、半分も理解できなかった。
自分の、ために?
あの、一度も、目を合わせてくれなかった、怖い顔の、査定員の人が?
彼女は、ただ、ぽかんと、口を開けて、ハンナの、そばかすの散った、少しだけ、楽しそうな横顔を、見つめることしか、できなかった。
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