閑話2:カイとノエルの模擬戦
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決戦から数週間が過ぎた、ある日の昼下がり。
ニューログレインの職能ギルドは、嵐の後の凪のように、穏やかで、少しだけ気の抜けた空気に包まれていた。
食堂のテーブルでは、先の防衛戦の武勇伝が、すでに数十回は繰り返されたであろう自慢話となって、惰性で語られている。
カウンターでは、ハンナがうんざりした顔で、溜まりに溜まった書類仕事に追われていた。
そんな、平和そのものの光景の中。
ギルド最強の斥候、カイは、手持ち無沙汰を持て余していた。
「……おい、ひよっこ」
彼が声をかけたのは、食堂の隅のテーブルで、分厚いギルドの規約集を、真剣な表情で読みふけっているノエルだった。
「チェス、できるか?」
その唐突な申し出に、ノエルは、規約集から顔を上げて、こくりと小さく頷いた。
その様子を見ていたバルガスが、ガッハッハと豪快に笑う。
「おいおいカイ、ガキ相手に本気になるんじゃねえぞ!」
「うるせえ。ただの暇つぶしだ」
カイはそう言って、食堂の隅に置かれていた、駒も欠けて年季の入ったチェス盤を、ノエルの前に置いた。
――そして、一時間後。
「はい、チェックメイト」
「……ぐ」
「これで、五連勝だな」
盤上は、カイの圧勝だった。
彼の指す手は、まるで未来を読んでいるかのように的確で、ノエルが築いた守りの陣形は、その鋭い攻めの前に、ことごとく切り崩されていった。ノエルの思考は、常にカイに一手先、二手先を読まれていた。
「へっ、まだまだだな、ひよっこ。盤上の読み合いは、経験の差が出るんだよ」
カイは、すっかり気を良くして、皮肉混じりの笑みを浮かべた。
周りで見物していたサラが、「カイさん、すげー!」と目を輝かせ、リリィが、しょんぼりしているノエルに「だ、大丈夫だよ、ノエルちゃん…」と、慰めの言葉をかけている。
その、賞賛と憐憫の空気に、カイの自尊心は、すっかり満たされていた。彼は、調子に乗って、説教じみた口調で、ノエルに語り始める。
「いいか、ひよっこ。チェスは所詮、駒の動かし方を覚えるだけの遊びだ。だがな、本当の『部隊運用』は、そんな単純なもんじゃねえ」
カイは、近くにあった羊皮紙の切れ端と、炭の欠片を手に取ると、そこに、雑な陣形図を描き始めた。
「例えば、こういう地形で、敵が守りを固めているとする。お前なら、どう攻める?」
それは、ただのチェス盤から、作戦を語る『戦術原則の図示』へと、戦いの舞台が移った瞬間だった。
ノエルは、その雑な地図を、じっと見つめると、静かに、しかし、はっきりとした声で、最初の問いを投げかけた。
「…その作戦の『目標』は、何ですか?」
「あ? 目標だぁ? そんなもん、敵の殲滅に決まってんだろ」
「では、我々の『任務』は、敵部隊の撃滅ですか? それとも、特定の『緊要地形』の獲得ですか?」
ノエルの、あまりにも専門的すぎる問いに、カイの眉が、ぴくりと動いた。
「…な、何言ってやがる。とにかく、敵を叩くんだよ。主導権を握り、奇襲をかけ、戦力を集中させる。戦闘の鉄則だろうが」
「はい。しかし、そのために、我々が投入できる『有形無形の戦闘力』と、残された『時間』は? そして、敵の戦力、配置、予測される行動は? …適切な状況判断と情報見積り―――戦場情報準備(IPB)が、まず必要です」
ノエルの口から、淀みなく紡がれる、聞いたこともない言葉の数々。
カイの額に、じわりと、冷たい汗が浮かんだ。周りの空気も、先程までの和やかなものから、何か、異様なものへと変わり始めている。
「それに、その布陣では、『攻撃の要則』に反しています。主目標に戦力を集中させるのは正しいですが、側面からの反撃に対する『警戒』がおろそかになっている。これでは、主力が敵陣に突入した瞬間、側面を突かれて、逆に包囲殲滅されかねません」
ノエルは、カイの手から、そっと炭を受け取ると、白紙の羊皮紙に、流れるような線で、新たな図を描き始めた。
「防勢作戦においては、まず我に『優位な戦場』を決定して、地形を最大限に活用し、こちらの戦闘力を集中できる撃破地域への誘致導入を作為します。そして、攻勢作戦においては、特定目標領域評価(TAE)により、『機動』と『火力』を連携し、敵に対応の暇を与えない状況を作為するのが定石です。作戦は、常に『簡明』で、指揮系統の『統一』が取れていなければ、現場は混乱します」
彼女が描く図は、カイが描いたような、ただの陣形図ではなかった。
それは、時間と、地形と、部隊の能力、その全てを計算し尽くした、有機的で、流動的な『作戦概念図』だった。
カイは、何も言い返せない。彼の経験則は、ノエルが語る、体系化された冷徹なドクトリンの前に、完全に無力だった。
隣のテーブルで、その様子をニヤニヤしながら見ていたバルガスが、わざと大きな声で言った。
「おーい、カイ! どうした、黙り込んじまって! さっきまでの威勢はどこ行ったんだぁ?」
「……うるせえ!」
カイは、顔を真っ赤にして、叫んだ。
そして、ばっと、勢いよく立ち上がると、ぎこちない動きで、叫んだ。
「あ、ああ! そうだ、思い出した! 急ぎの用事があったんだ! またな!」
そう言い残し、カイは、まるで何かに追われるように、ギルドホールを駆け抜けて、外へと飛び出していった。
その、あまりにも分かりやすい『物理的撤退作戦』に、ホールは、爆笑の渦に包まれた。
ノエルは、そのカイの背中を、静かな目で見送りながら、誰に聞かせるともなく、小さな声で、ぽつりと、呟いた。
「……追撃戦闘の主眼は、敵を戦場に拘束し、撃滅することにあります。有利な状況を最大限に活用すべき、ですが……」
その、あまりにも冷徹で、的確すぎる呟き。
それを、たまたま隣で聞いてしまったエルラは、背筋が凍るのを感じるのだった。
(…この子、本気でカイを『追撃』しようと考えてるわ…)
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