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第3話:潜在する戦場と、純粋な心

「……君は、名を、何という」


 男の問いに、ノエルはびくりと肩を震わせた。

 自分の名前を、教えるべきか。教えなくても、いいのか。そんな、子供らしい逡巡が彼女の心をよぎる。しかし、それよりも早く、頭の中を駆け巡る『知識の奔流』が、別の答えを囁いていた。


(違う。問われているのは、名ではない。所属だ。敵か、味方か。あるいは、ただの村人か。男は、私の()()を探っている)


「……ノエル。ただの、ノエル」

 か細い声で、彼女はそう答えるのが精一杯だった。


「ノエル、か」

 男は、まるでその名を記憶に刻み込むかのように、静かに繰り返した。そして、再びノエルの瞳を真っ直ぐに見据える。

「追っ手は、何人いるか分かるか。装備は? 目的は、俺の命か、それとも俺が持つ『()()』か」


 矢継ぎ早の質問。そのどれもが、10歳の少女に投げかけるべき言葉ではない。しかし、ノエルの心は、もはや恐怖を感じていなかった。質問の一つ一つが、彼女の中の『知識』を刺激し、思考を強制的に加速させていく。


「わからない……でも、足跡は三つ。一つは重くて、二つは軽い。だから、たぶん、屈強な男が一人と、身軽なのが二人。目的は……」

 ノエルは、男の背にある、使い古された革の背嚢に目をやった。それは、ただの荷物入れではなかった。重要な情報を運ぶために、幾重にも防水と衝撃対策が施された、軍用の通信筒メッセンジャー・ケースだ。なぜ、それが分かるのか、ノエル自身にも分からない。でも、知っていた。

「……あなたの、背中の、それ」


 男の目が、鋭く光った。


**


 その頃、村では、クレアが一人、家の前で落ち着かない様子で空を見上げていた。

 空は、もうすっかり夕暮れの色を失い、深い藍色に染まり始めている。一番星が、瞬き始めた。

「ノエル……遅いわね」


 賢者の石探しに出かけたルカは、とっくの昔に「見つからない!」と根を上げて帰ってきた。しかし、用事を思い出したと言って森へ向かった妹が、まだ帰ってこない。母は「あの子のことだから、夢中になってるのよ」と笑っているが、クレアの胸には、言いようのない不安が広がっていた。


(あの子は、時々、どこか遠くへ行ってしまう)


 それは、物理的な距離の話ではない。一緒にいても、隣で笑っていても、ふとした瞬間に、ノエルの瞳が、自分たちの知らない世界の色を映すことがあるのだ。

 今日の『賢者の石探し』もそうだった。あれは、妹の特異な才能の正体を探るための、姉としてのささやかな試みだった。しかし、その結果分かったのは、自分の知らない妹の一面が、まだたくさんあるという事実だけだった。


「クレアお姉ちゃん!」

 後ろから、ルカの声がした。

「ノエル、まだ帰ってないのか?」

「ええ……。ルカは、ノエルが森のどっちの方へ行ったか、知らない?」

「ううん。でも、あいつなら大丈夫だよ。森のことは、俺たちよりずっと詳しいからな!」

 ルカの屈託のない言葉に、クレアは力なく微笑んだ。

(ええ、そうなんでしょうね。でも、私が心配なのは、森のことじゃないのよ……)

 妹が、その才能ゆえに、いつかこの村の小さな幸せから、遠く引き離されてしまうのではないか。クレアの胸をよぎる不安は、妹への深い愛情の裏返しでもあった。


**


「……そうだ。俺の目的は、この『情報』を、無事に王都へ届けることだ」


 男は、ノエルの洞察力に、もはや驚きを隠さなかった。

「追っ手は、これを奪うか、俺ごと葬るか、どちらかだろう。いずれにせよ、連中は俺の足取りを追っている。このままでは、夜が明ける前に見つかる」


 どうするべきか。男が思考を巡らせるよりも早く、ノエルの口から、信じられない言葉が紡がれた。


「なら、()()を。私が、あなたの痕跡を消しながら、別の方向へ偽の()()を残す。あなたは、その隙に、川を南へ下って」

「何だと? 小娘一人で、囮になるというのか」

「囮じゃない。(よう)(どう)。敵の思考を誘導して、時間を稼ぐだけ。あなたは、重要な『情報』を持ってる。生きて、それを届けるのが、あなたの()()。違う?」


 任務。

 その言葉を聞いた瞬間、男の背筋に、ぞくりと悪寒が走った。

 なぜ、この少女は、軍人が使う専門用語を、さも当たり前のように口にするのか。


「……君は、なぜ、そんな言葉を知っている」

「言葉……?」

 きょとんと、ノエルは首を傾げた。彼女には、自分が今、どれほど異常なことを口にしているのか、全く自覚がなかった。ただ、頭の中に浮かぶ、最も合理的で、最も生存確率の高い『手順』を、口にしているだけなのだ。


 男は、言葉を失った。

 目の前の少女は、妖精などではない。もっと異質で、もっと根源的で、そして、もっと危険な「何か」だ。

 彼の脳裏に、幼い頃に祖父から聞かされた、古い伝承が蘇る。


(――魂は、器を選ぶ。だが稀に、古き魂が、新しい器に()()することがある。それは、英雄の再来か、あるいは……)


 男は、震える声で、目の前の少女に最後の問いを投げかけた。

「君の言う『陽動』、成功する確率は?」

「わからない。でも、何もしなければ、確率は、ゼロ」


 その答えを聞いて、男は、覚悟を決めた。


「……分かった。信じよう。だが、死ぬなよ、ノエル。俺は、君を『(レイヴン)』と呼ぼう。闇に紛れ、吉報を運ぶ賢い鳥だ」


 男はそう言うと、ノエルが示した南の川へと、足を引きずりながらも、確かな足取りで消えていった。


**


 一人、森に残されたノエルは、彼が消えた闇を見つめ、ただ静かに、その場に立ち尽くしていた。

 西の空に残っていた最後の茜色が、山の稜線に完全に吸い込まれ、辺りは急速に夜の気配に満たされていく。


 これから自分が為すべきことの重大さも、その行為がもたらす意味も、まだ、何も理解していなかった。

 ただ、早く家に帰って、クレアお姉ちゃんの顔が見たい。

 その、子供らしい純粋な想いだけが、彼女を村へと続く道へと駆り立てた。


 家の戸口に、小さな明かりが見えた時、ノエルは心から安堵した。

「ノエル!」

 待ちわびていたクレアが、家から飛び出してくる。

「遅かったじゃない! 心配したのよ!」

 姉の腕の中に飛び込み、その温かい体に抱きしめられると、ノエルは、今日一日の緊張が解けていくのを感じた。


 しかし、クレアは、妹を抱きしめたその腕の中で、表情を凍らせる。

 ノエルの服から、微かに、しかし確かに漂ってくる、鉄錆のような匂い。

 それは、クレアの知らない、血の匂いだった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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