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第2話:斥候と、呼吸する森

いつも応援ありがとうございます。


≪心の準備のお願い≫

本日のお話は、登場人物にとって、少し辛い展開となります。

お読みになる際は、どうかご無理なさらないでくださいね。

※【残酷な描写】を含みます。

 昨夜、遠くに聞いた咆哮が、ノエルの心を捉えて離さなかった。

 それは、村で聞くどんな獣の声とも違っていた。短く、低く、そして、まるで地の底から響いてくるような不吉な響き。他の誰も気づかなかったその音を、ノエルの耳だけが確かに拾っていた。


**


 翌朝。辺りには深い朝霧が立ち込めていたが、陽が昇るにつれて、その乳白色のヴェールは晴れ上がっていった。

 ノエルとルカは、クレアが隠したという『賢者の石』を探して、村の中を駆け回っていた。


「こっちか? いや、あっちの井戸の周りかも!」

 ルカは、子供らしい勘を頼りに、元気よく走り回っている。

 対してノエルは、ほとんど動かなかった。彼女は村はずれの小高い丘に立ち、じっと村全体を見下ろしていた。


(クレアお姉ちゃんなら、どこに隠すだろう。子供たちの誰もが簡単に見つけられず、でも、少し考えればたどり着ける場所。そして、ルカのような『正直な』探し方では、絶対に見つからない場所……)


 思考が、自然と組み立てられていく。村の構造、人々の動線、そして何より、姉であるクレアの思考パターン。それらが、ノエルの頭の中で、まるで精密な地図のように重なり合っていく。


(……あそこだ)


 ノエルは、村の広場にある、一番大きな樫の木を見つめた。その木の根元には、旅人たちが腰を下ろすための、古びた石のベンチが置かれている。一見、何の変哲もない場所だ。

 しかし、ノエルは知っていた。クレアは、村の誰もが「当たり前」すぎて気にも留めない、そういう場所を好む。


 ノエルが丘を駆け下りようとした、まさにその時だった。

 昨日と同じ、胸騒ぎ。

 森の奥深くから、何かが自分を呼んでいる。昨夜の不吉な咆哮が、幻聴のように耳の奥で響いた。


(行かなきゃ)


 理由は分からない。でも、行かなければならない。そんな、抗いがたい衝動に駆られた。

 ノエルは、ルカに「ちょっと用事を思い出した!」とだけ叫ぶと、賢者の石のことなどすっかり忘れ、一人、森の奥へと走り出した。


**


 苔むした大木の根元に、それを見つけたのは、やはり偶然ではなかったのかもしれない。

 黒い塊。

 それは紛れもなく、人だった。黒い革の装束を纏った男が、うつ伏せに倒れている。彼の周囲の土は、おびただしい量の血を吸って、赤黒く染まっていた。


 息をのむ。足がすくむ。強烈な鉄の匂いと、生々しい傷口。

 普通の10歳の少女として、当然の恐怖と嫌悪感が、ノエルの小さな体を支配した。


(逃げなきゃ。怖い。見ちゃいけない)


 踵を返そうとした、その時。男の体が、ぴくりと小さく動いた。


(……生きてる)


 その事実が、恐怖に縫い付けられたノエルの足を、地面に繋ぎとめた。


(でも、このままじゃ、この人は……)


 助けたい、という子供らしい純粋な善意と、目の前の惨状への恐怖がぶつかり合った、その瞬間。

 ふっと、頭の中から全ての感情が抜け落ちるように、消えた。


 代わりに、冷たくて静かな『知識の奔流』が、彼女の意識を満たしていく。

 意思も感情もない、ただの情報。まるで、誰かが書いた手順書を高速でめくるように、次々とやるべきことが浮かび上がっては、整理されていく。


(――傷は左大腿部。深い刺創。土による汚染。骨までの距離。出血の色と量。気候と湿度。感染症のリスクは高い。動脈は外れているが、このままではいずれ衰弱死する。優先順位、第一に洗浄、第二に止血と圧迫固定。利用可能な資源は、水筒の水、腰の袋に入っている薬草、そして……)


 自分の体が、まるで自分のものではないかのように、滑らかに動いた。

 水筒の水を少しずつ使い、傷口の土や泥を慎重に洗い流す。

 森で摘んでおいた、止血効果のあるヨモギの葉を数枚、口に含んで噛み砕く。

 その苦味も、今の彼女には感じられなかった。

 唾液と混じり合った緑のペーストを、ためらうことなく男の傷口に塗り込む。


 自らが着ていた質素なワンピースのスカートを、躊躇なく引き裂いた。

 そして、裂いた布で男の太腿を、血の流れを止めすぎない絶妙な力加減で、きつく、きつく縛り上げた。


 その一連の動きには、10歳の少女が持つはずのない、淀みのない()()()()()()()()があった。


**


 処置を終え、自分の血と泥で汚れた小さな手を見下ろした時、初めて彼女の心に、現実的な恐怖が嵐のように追いついてきた。

 息が荒くなる。心臓が早鐘を打ち始める。強烈な吐き気と、自己嫌悪がこみ上げてくる。


(怖い。何、今の私。どうして、こんなことができたの? まるで、私の体じゃないみたい……)


 自分の中に、自分ではない「何か」がいる。その抗いがたい胸騒ぎと、正体不明の力への根源的な戸惑いに、彼女は打ち震えた。


「……ぅ……」


 男が低くうめき、身じろぎした。

 ゆっくりと、彼が顔を上げる。

 歳は三十代ほどだろうか。無精髭の伸びた顔は苦痛に歪んでいたが、その瞳には、狼のような鋭い光が宿っていた。

 男は、ノエルの姿を認めると、すぐさま状況を理解したようだった。自分の脚に施された、驚くほど的確な処置に一瞬目を見張った後、彼は掠れた声で、ただ一言、問いかけた。


「追っ手は…?」


 その言葉が、ノエルの耳に届いた。

 彼女は再び恐怖で体を強張らせる。

 しかし、目の前の男を見捨てることはできなかった。

 お守りのように握りしめていた薬草の入った小さな袋を、ぎゅっと握り直す。姉のクレアが、「森へ行くなら、これを持って行きなさい」と、今朝、持たせてくれたものだった。姉の顔を思い出すと、少しだけ勇気が湧いてくる。


(怖い。でも、この人を助けなければ)


 その一心で、彼女は、再び頭の中に流れ込んでくる無機質な情報の断片を、必死に自分の言葉に翻訳しようと試みた。

「……わからない。でも、たぶん、東の沢沿いからは、来ない……と思う。あそこは、昨日、雨が降ったから、きっと、ぬかるんでる……から」


 それは、怜悧な戦術分析などではない。たどたどしく、自信なさげな、一人の少女の必死の推測の言葉だった。


 男は、その言葉に息をのんだ。

 王国軍最高の斥候長である彼にとって、東の沢が昨日の雨でぬかるんでいることなど、当然の前提知識だ。追っ手も、それを避けるだろう。

 問題はそこではない。


 なぜ、この森の奥深くにいる、ただの村娘が?

 なぜ、深手を負った自分を見て、最初に考えることが「追っ手の進路」なのか?

 なぜ、そのか細い腕で、あれほど的確な止血処置ができたのか?


 男は、目の前の少女が「変身」したなどとは思わない。ただ、理解ができないのだ。

 この、深い森の静けさと、目の前の少女の無垢な佇まい。そして、その二つとはあまりにも不釣り合いな、彼女の口から紡がれる【戦場の論理】。

 その奇妙な調和と断絶が、男の長年の経験則を根底から揺るがし、得体の知れない畏怖を抱かせる。


(……人里離れた深い森には、時折、人の理を超えたものが生まれるという。それは、妖精か、あるいは……)


 男の脳裏に、幼い頃に祖父から聞かされた、古い伝承が蘇る。

 ――魂は、器を選ぶ。だが稀に、古き魂が、新しい器に()()することがある。それは、英雄の再来か、あるいは……。


 ノエルは、自分の言葉が正しいのか分からず、不安げに男の顔色をうかがった。

 その子供らしい仕草と、彼女が示した戦術的思考のギャップに、男は言葉を失う。


 彼は、ただ静かに、少女に問い返すしかなかった。


「……君は、名を、何という」

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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