最28話:新しい仲間と、新しい制服
戦闘の喧騒が嘘のように静まり返った、翌朝。
ギルドの寮の一室で、ノエルは、ゆっくりと目を覚ました。窓から差し込む朝の光が、部屋の埃をきらきらと照らしている。穏やかで、平和な光だった。
自分の手が、誰かの、少し硬くて、温かい手に、しっかりと握られていることに気づく。
視線を移すと、ベッドの脇の椅子に、ハンナが座ったまま、静かな寝息を立てていた。彼女は、ノエルの手を握ったまま、疲れ果てて眠ってしまったようだった。
「……ハンナ、さん」
ノエルのか細い声に、ハンナは、はっと目を覚ました。
「…ノエル!気がついたのかい!」
その声は、いつものシニカルな響きではなく、心の底からの安堵に満ちていた。
「よかった…。本当に…」。彼女は、そう言うと、ノエルの額に手を当て、熱がないことを確かめる。その手つきは、驚くほど、優しかった。
「…大きな怪我をするヤツも、命を落とす者もいなかった。街も、守られた。…全部、あんたのおかげだよ」
その、ストレートな感謝の言葉に、ノエルはどう反応していいか分からず、ただ、視線を彷徨わせた。
自分がしたことは、ただ、仲間を助けたかっただけだ。サラとリリィの、あの屈託のない笑顔を、失いたくなかっただけ。その一心だった。
その時、まるでその想いが届いたかのように、部屋のドアが、遠慮がちにノックされた。
「…失礼します」
顔を覗かせたのは、サラだった。その表情には、いつもの快活さはなく、少しだけ、緊張の色が浮かんでいる。
「ハンナさん、私、少し見てますから、顔でも洗ってきたらどうです?」
「…ああ、そうさせてもらうかね」
ハンナは、少し照れくさそうに席を立つと、部屋を出ていった。
一人になったノエルは、サラの顔をまともに見ることができない。自分が立てた作戦のせいで、彼女たちを、あんなにも危険な目に遭わせてしまった。その罪悪感が、胸に重くのしかかっていた。
そんなノエルの気持ちを察したのか、サラは、決意を固めたように、ノエルのベッドのそばに膝をついた。
「ノエルちゃん…。あの後、炎の魔道士が、また現れたの。それで…」
サラは、あの日、炎の魔道士から託された言葉を、一言一句、間違えないように、丁寧に、丁寧に、ノエルに伝えた。
「――『両親は、森の民の集落で、生きている』、と」
ノエルの、黒い瞳が、大きく、大きく、見開かれる。
父様が? 母様が? 生きている…?
その、信じがたい、しかし、あまりにも甘美な響き。それは、彼女の凍りついていた心の奥底に、熱い、熱い希望の光を灯した。
すぐにでも、会いに行きたい。この手で、父様と母様の温かさを、もう一度確かめたい。
しかし、同時に、冷徹な思考が、彼女に問いかける。
(森の民の村って、どこにあるの? 炎の魔道士は、なぜ、それを私に…? これが、罠である可能性は?)
希望と、拭いきれない疑念。彼女の旅は、まだ、終わっていないのだ。
戻ってきたハンナは、ノエルの瞳に、先程までとは違う、何か、燃えるような強い光が宿っていることに気づいた。そして、彼女は、まるで自分に言い聞かせるように、いつものシニカルな顔に戻って、わざとぶっきらぼうに言った。
「…ま、無茶するんじゃないよ、このひよっこが。これから、このギルドのこと、仕事のやり方、処世術、その全部を、あたしが徹底的に教えてやるから。覚悟しな」
しかし、そのハンナの目は、ずっと、優しく笑っていた。
部屋の外から、ギルドの祝勝会の、馬鹿騒ぎのような喧騒が聞こえてくる。
「…まずは、あのバカ共のところに、顔を出すよ」
**
ギルド併設の食堂は、街の勝利を祝う者たちの熱気で、むせ返るようだった。
「いやー、昨日の『黎明の風』は、マジで神がかってたぜ! でも、本当に凄かったのは、最後の最後だよな!」
第一線で共に戦った若者が、興奮気味に、昨日の戦闘の武勇伝を語っている。
「ああ! 装置が壊れた途端、あれだけいた魔物どもが、まるで烏合の衆みてえによ! あれは、笑っちまうくらい、見事なもんだったぜ!」
「それもこれも、死天…『鉄の街道』の旦那たちが、あの化け物みてえな兵士どもを、たった六人で、二手に分かれて、同時に叩いてくれたおかげだろ!」
冒険者たちの武勇伝と、酒と、笑い声。その熱狂の輪から少し離れた場所で、ノエルは、ハンナに勧められた温かいスープを、一人、静かに飲んでいた。
その時、人混みをかき分けるようにして、一人の女性が、こちらへまっすぐに歩いてくるのが見えた。
ミナだった。その腕には、すやすやと眠る、小さな赤ん坊が抱かれている。そして、彼女の足元には、おぼつかない足取りで、小さな女の子がしがみついていた。
ミナは、ノエルの隣に静かに腰を下ろすと、慈愛に満ちた目で、腕の中の赤ん坊を見つめた。
「この子は、まだ生まれて半年。上の子は、ようやく二つになったわ」
そして、彼女は、その優しい瞳を、まっすぐにノエルへと向けた。
「この子たちの未来も、あなたが、命を懸けて守ってくれたものよ。…ありがとう、ノエル」
その、あまりにもストレートな感謝の言葉に、ノエルは、どうしていいか分からず、ただ、俯いてしまう。
ミナは、そんなノエルの戸惑いを、全て分かっているかのように、ふふ、と優しく微笑むと、腕の中の赤ん坊を、そっと、ノエルの方へと差し出した。
「よかったら、抱いてみてくれる?」
「え…で、でも、私なんかが…」
「いいから」
横から、ハンナの手が伸びてきて、ノエルの背中を、ぽん、と優しく押した。
振り返ると、そこには、ハンナだけでなく、少し離れた場所から、サラとリリィも、優しい笑顔でこちらを見守っていた。
ノエルは、おそるおそる、震える手で、その小さな命を受け取った。
腕の中に伝わる、柔らかな温かさ。確かな、命の重み。すう、すう、という、安らかな寝息。
故郷を失ってから、ずっと空っぽだった彼女の心の中に、その温かさが、じんわりと、じんわりと、染み渡っていく。
その時、誰かが叫んだ。
「おい、見ろ! 『黎明の風』と、うちの新しいお嬢様方のお通りだぜ!」
その声を合図に、酒場の冒険者たちが、一斉に、彼女たちへと温かい喝采を送る。
ノエルは、その、耳を聾するほどの祝福の声と、腕の中に広がる、確かな温もりの中で、初めて、心の底から、そう思った。
(ここが、私の、新しい居場所なんだ…)
しかし、その熱狂の中にいるはずの冥府の死天王―――『鉄の街道』の姿は、ここにはなかった。彼らといくつかのパーティは、戦闘の後始末のため、今も森に残っていた。
**
ギルドマスターの執務室では、残敵掃討の任を終え、戻ってきた『冥府の死天王』の四人が、マードックと向き合っていた。
「…今回の勝利は、表向きは、ギルドの総力と、俺の指揮の賜物、ということにしておく」
マードックの言葉に、バルガスたちが静かに頷く。
「あんな小娘が、この街を救ったなどと知れれば、英雄になる前に、どこぞの馬鹿に利用されるのがオチだ。だから、うちで預かる」
いくつかの取り決めと、情報の統制を話し終え、バルガスたちが、ギルドホールへと続く階段を降りていく。
彼の目に、ある光景が飛び込んできた。
カウンターの隅で、ハンナが、少し大きめの、真新しい受付嬢の制服の袖を、ノエルのために、優しく折ってやっている。
恐る恐る、それに袖を通すノエルの姿。
その、ハンナとお揃いの制服が、彼女の新しい居場所を、何よりも雄弁に物語っていた。
**
数日後。王都、偵察機動大隊の一室。
大隊長であるダリウス・アイゼンの執務室は、静寂に包まれていた。彼の胸には、三ツ目の白鴉の紋章が、静かに輝いている。
彼は、二つの報告書を、見比べていた。
一つは、ニューログレインのギルドから届いた、公式のスタンピード報告書。戦闘の経過と、ギルドの勝利を淡々と伝えるだけの、ありきたりの内容だ。
そして、もう一つ。彼が放った「鴉」から、特殊な経路で届けられた、極秘の報告書。
そこには、ノエルの狼煙、炎の魔道士の出現、そして、その魔道士が最後に残した「伝言」までもが、克明に記されていた。
(…この戦術、この思考…。間違いない。あの時の少女、『レイヴン』だ…!)
ダリウスが、確信と共に顔を上げる。
目の前には、リナという名を与えられた、20歳ほどの女性が次の資料を持って立っている。
「大隊長、次の会議の資料です」
ダリウスは、目の前の、どこか懐かしい雰囲気を持つ、聡明な幕僚を見る。
少し前に、ニューログレインの西の森で保護された、記憶のない女性。そして彼女の、類稀なる分析能力。
彼の頭の中で、全てのピースが、一つの、恐るべき可能性へと、収束しようとしていた。
(…まさか。いや、しかし…)
彼は、リナに悟られぬよう、冷静さを装い、静かに告げた。
「ああ、そこに置いてくれ、それと…」
そして、心の中で、新たな道筋を決心する。
「…今日からお前は、俺の参謀だ。」
(まずは、このリナの出自を、徹底的に洗う必要があるな…)
ノエル、クレア、ダリウス。
三つの運命は、まだ、互いがすぐそこにいることに気づかないまま、しかし、確実に、再び、交錯を始めていた。
――第一部・完――
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
第一部完結です!
頑張って書き切りました!
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