第27話:繋いだ意志と、母の約束
森を、風が駆ける。
『冥府の死天王』の四人と、彼らに抱えられた一人の少女。その姿は、炎の魔道士という圧倒的な脅威から逃れる、敗走者のそれにしか見えなかった。
「おい、ひよっこ! しっかりしろ! 一体、何があった!」
カイが、腕の中で小刻みに震えるノエルに叫ぶ。
ノエルは、恐怖で震えながらも、その戦術眼だけは、死んでいなかった。彼女は、疾走するカイの肩越しに、後方の、そして側方の、魔物たちの動きを、必死に観察していた。
(おかしい…。炎の魔道士が、追ってこない…)
(それに、周りの魔物の動きが、バラバラだ。統率が取れていない…? いや、違う!)
ノエルの思考が、急速にクリアになっていく。
(統制されているのは、街の東門と、西門の二箇所だけ…! それ以外の魔物は、ただ、この森を彷徨っているだけだ。敵の行動は、同時に二箇所しか発生していない…!)
なぜ?
その問いに、彼女の魂の知識は、一つの可能性を弾き出す。
「…高価値目標(HVT)は、間違いなく『炎の魔道士』…。でも、彼の魔力だけで、これほど広範囲の魔物を、二箇所同時に、完全に制御するのは…不可能。何か、別の要因があるはず…」
ノエルは、苦しげに、しかし、驚くほど冷静に、分析を続ける。
「情報が…足りない…」
その呟きを聞いたカイが、はっとしたように口を開いた。
「情報なら、ある。昨夜、サラの小娘が持ち帰った報告だ。…奴らの群れの中に、人間がいた。そして、何か『荷車』のようなものを、必死に守っていた、と」
荷車。
その一言が、パズルの、最後のピースだった。
ノエルは、カイの腕の中で、絶叫した。
「荷車ですッ!!」
「あ!?」
「あの『荷車』が、魔物を操ってる! だから、二箇所しか、同時に動かせないんです! 叩くべきは、炎の魔道士じゃない! あれが、彼の魔力を増幅させ、魔物を操るための『装置』…! 敵の戦意を破砕するには、あれこそが、叩くべき最重要目標(HPT)です!」
その、常識ではあり得ない結論。
しかし、カイと、隣を走るエルラは、その分析の恐るべき正しさに、戦慄していた。
「…どうりで、あの化け物、ノエルを狙うのに、他の魔物を動かさなかったわけだ。できなかった、のか…!」
バルガスが、苦々しく、しかし、どこか楽しそうに、吠えた。
「へっ、面白え! やってやろうじゃねえか!」
**
やがて、一行は、森の奥深く、開けた窪地へとたどり着いた。
そこでカイは、ついに限界を迎えたノエルを、そっと、地面に横たえた。
故郷を焼かれたトラウマ。たった一人で敵地を潜入した、極度の緊張と疲労。そして、何よりも、自分の言葉を信じ、命を懸けてくれる仲間が、確かに、ここにいるという、圧倒的な安堵感。
その全てが、張り詰めきっていた彼女の意識の糸を、優しく、しかし、ぷつりと断ち切った。
「…あとは、お願い…します…」
そう言い残し、ノエルは、静かに意識を手放した。
その寝顔は、ひどく安らかで、まるで、この数日間、ずっと見続けていた悪夢から、ようやく解放されたかのようだった。
その時、森の奥から、複数の人影が、転がるようにして現れた。
「ノエル!」
ハンナだった。その声は、いつものシニカルな響きではなく、妹の安否を気遣う、姉の悲痛な叫びに近かった。彼女の後ろから、ミナ、そして、サラとリリィも、息を切らしながら駆け寄ってくる。
だが、バルガスは、そのハンナを手で制し、倒れた少女の最後の言葉を、仲間たちに、そして自分自身に、力強く告げた。
「作戦を変更する」
彼は、カイが持っていた羊皮紙の地図を広げると、二つの地点を、その大きな指で、力強く指し示した。
「カイ、エルラ! お前らは東の重要目標を! 俺とレオンは西を叩く! それぞれ、二十分で、同時にだ!」
そして、彼は、ハンナとミナへと向き直る。
「ハンナ、ミナ! お前らは、その後輩どもと一緒に、ノエルを守れ! 俺たちが戻るまで、何があっても、だ!」
その、有無を言わせぬ命令。
しかし、その言葉を遮るように、一人の少女が、震えながらも、一歩前に出た。サラだった。
「いいえ」
彼女の瞳には、もはや、かつての焦りの色はない。ただ、憧れの先輩と、そして、自らの命を懸けて仲間を救おうとした、一人の少女を見つめる、強い光が宿っていた。
「ノエルは、私たちが守ります。…後輩を守るのは、私たちの仕事ですから」
その言葉に、ハンナは一瞬、目を見張り、そして、満足そうに、ふっと笑った。
**
『冥府の死天王』と『黎明の風』が、二手に分かれて深い森へと消えていく。
残されたのは、意識のないノエルと、彼女を守るように囲む、サラとリリィだけ。
森は、不気味なほど、静まり返っていた。
その、静寂を破るように。
森の奥から、カサリ、と、枯れ葉を踏む音がした。
二人が、はっとそちらを向く。
森の影の中から、人影が一つ姿を現した。
それは、黒いローブに身を包んだ炎の魔道士。先程まで、ギルド最強の『冥府の死天王』と激しく斬り結んでいたとは、到底思えない、あまりにも静かな佇まい。
サラとリリィは、炎の魔道士と対峙するのは、これが初めてだった。しかし、その男が放つ、絶対的な強者の風格だけで、二人の体は、恐怖に縫い付けられたように、動かなかった。
サラとリリィは、すくむ足を気力のみでうごかし、ノエルの前に立ちはだかる。剣を構えるサラの手は、カタカタと震えていた。
炎の魔道士は、彼女たちを一瞥するも、興味を示さない。
彼の目は、ただ、サラたちの背後で、目を閉じたまま静かに呼吸する、ノエルにだけ注がれていた。
その、黒曜石のような髪。
(…珍しい、漆黒の髪だ)
サラは、恐怖のさなか、なぜか、その男の髪の色に、強く心を奪われていた。
そして、彼は、まるで誰かに言い聞かせるように、静かに、しかし、はっきりと、告げた。
「その娘は、白沢村のリノレアの娘だろう?」
「……え?」
「…伝えてくれ。両親は、森の民の集落で、生きている、と」
それだけを言うと、彼は、森に溶け込むように、静かに姿を消した。
後に残されたのは、呆然とするサラとリリィ、そして、意味の分からない、しかし、あまりにも重い、一つの『希望』だけだった。
やがて、『冥府の死天王』と『黎明の風』が、戻ってくる。
サラは、駆け寄ってきたカイに、「あの、炎の魔道士が…」と、今起きたことを報告しながら、ふと、意識のないノエルの顔に、視線を落とした。
炎の魔道士の、あの、夜の森よりも深い、漆黒の髪。
そして、ノエルの、月光を吸い込むような、美しい黒髪。
二人の間に、何か、運命的な繋がりを感じながら、彼女は、ただ、小さな声で、呟いた。
「…この娘も…黒髪…」
その言葉の、本当の意味を知る者は、まだ、この世界のどこにもいなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価ポイントで応援していただけると、執筆の大きな励みになります。
感想や誤字報告なども、お気軽にいただけると嬉しいです。





