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【第三部開始】『辺境の軍師』~職能ギルドの受付嬢は、戦術の知識で静かに世界を救いたい~  作者: かわたん
第一部 最終章 辺境の軍師

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第24話:戒厳令と、横切る轍

 決戦を翌日に控えた夕刻。ニューログレインの街は、死んだかのように静まり返っていた。


 分厚い街門は固く閉ざされ、いつもなら人々の笑い声と活気で満ちているはずの石畳の通りには、人影一つない。家々の窓からは、不安げな灯りが漏れているだけだった。

 街全体が、来るべき嵐に備え、息を潜めている。


 その、静寂の中心。

 自警団本部の建物は、この街の最後の砦として、変わらぬ姿で佇んでいた。細部まで清潔に整えられたその様は、この組織が住民たちにどれほど信頼されているかを物語っている。


 しかし、その建物の前に停められた一台の馬車が、その信頼とは不釣り合いな空気を放っていた。


 磨き上げられた黒塗りの車体、金の装飾、そして、誇らしげに掲げられた、この街の代官の紋章。

 それは、万が一の時に、主を乗せて真っ先に逃げ出すための準備のようにも見え、人々の不安を静かに煽っていた。


 **


 自警団本部の応接室。重苦しい沈黙が、部屋を支配していた。

 領都へ向かった自警団の伝令が、虫の息で帰還したばかりだった。


「…領都の、街門警備は、普段の倍近くに増強されていました。そして…侯爵家の紋章を掲げた部隊が、領主邸の周りを、まるで監視するように…取り囲んで…」


 伝令の報告は、それだけだった。しかし、その断片的な情報だけで、代官には、全てが分かってしまった。


「領都は我々を見捨てる気だ! このままでは、我々は全滅だぞ!」


 その沈黙を、代官の甲高い怒声が打ち破った。彼は、苛立ちを隠しもせず、分厚いオーク材のテーブルを、拳で強く叩きつけた。


 彼の前に立つ自警団長は、そのヒステリックな言動にも、表情一つ変えない。ただ、静かに報告を続ける。


「はい。代官所の伝令が出発してから、丸一日が経過しております。今だ、返答は…」

「分かっておる! …おい、馬車の準備はできているだろうな! この街が落ちるとあらば、私は、私の身の安全を確保する義務があるのだぞ!」


 己の保身しか考えていない、愚かで、臆病な為政者。

 部屋の隅で控えるギルドの連絡員や、自警団の若い団員たちは、そう思って俯いただろう。


 しかし、自警団長は違った。彼の目に映るのは、絶望的な状況下で、あえて憎まれ役を演じ、全ての責任を一身に背負おうとする、孤独な男の姿だった。彼は、その代官の姿を、呆れたような、しかし、その瞳の奥では、全てを理解した、深い信頼の眼差しで見つめていた。


「…もちろんです、代官様。いつでも、ご出発の準備は」


 その言葉を聞き、代官は、ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

 その横顔に浮かんだ、一瞬の安堵と、感謝の色に、気づいた者はいなかった。


 代官邸へ戻る馬車の中。窓の外を流れる異様に静かな街を一人で眺める。そして、誰に聞かせるともない声で、静かに呟いた。


「…頼むぞ、マードック。お前たちギルドと、この自警団だけが、この街の最後の希望だ。持ちこたえてくれ…」


 その声は、もはや愚かな者のそれではなかった。

 民の無事を祈り、自らの無力さに苦悩する、孤独な為政者の声だった。


 そして、代官がわずかな希望を抱いて邸に戻れるのは、自警団のホールを見たからだった。


 街に住む民は、最後まで諦めてはいなかった。


 ニューログレインの住民たちは、古い農具や、錆びついた剣を手に、自警団の元へ、一人、また一人と、静かに集まり始めていた。増援は、来ない。だが、我々には、守るべき家族がいるのだ。


 **


 同じ頃、敵地の後方深く、闇に紛れて移動している一人の少女がいた。


 彼女が頼れるのは、魂の知識と、わずかな野営装備だけ。しかし、その動きに、一切の迷いはなかった。


(野うさぎのように…)

 開けた場所に出ると、彼女は呟きと共に、その小さな体を極限まで低くする。そして、敵の魔物が予測するであろう直線的な動きを避け、予測不能なジグザグを描くように、音もなく、しかし素早く走り抜けた。あの旅路で、野うさぎが天敵から逃げる時の動きを、彼女は完璧に記憶していた。


(私はリス…)

 魔物の群れが移動する、獣じみた気配。それを感じ取ると、彼女は大きな木の根元や、深い茂みの中に、完全に気配を消して同化する。心臓の音すらも、森の静寂に溶け込ませるように。木の実を隠すリスのように、自分の存在そのものを、この森の一部にしてしまうのだ。


 しかし、その冷静な行動とは裏腹に、彼女の心臓は、破裂しそうなほど激しく脈打っていた。


(お願い、心臓の音が、木の葉を揺らすほど大きく鳴らないで…!)


 恐怖で叫び出しそうな自分を、魂の奥底から湧き上がる、冷たい『知識』が、無理やり押さえつけていた。


 それは、孤独な旅路で彼女が生きるために身につけた、切実な生存術。そして今、その技術は、より大きな目的を遂行するための、恐るべき潜入スキルへと昇華されていた。


 作戦図は、もはや彼女の頭の中に、完璧に焼き付いている。彼女の目的は、その図面と、現実の地形との間に、誤差がないかを確認すること。そして、敵の本当の狙いを突き止めることだった。


(敵の主力が街まで攻撃前進するには、その手前のこの丘陵地帯に、必ず前方指揮所か、あるいは監視所があるはず…)


 彼女は、ギルドの古い地図には載っていない、不自然なほど開けた場所や、水の流れが変わっている沢筋を、一つ一つ潰していく。


 そして、ついに、敵が物資を運ぶために、強引に切り開いたのであろう、生々しい道を発見した。


 だが、彼女はそこに、奇妙な痕跡を見つける。


(…轍の跡。でも、補給幹線(MSR)なら、もっと縦深方向に伸びるはず。なぜ、戦場を左右に横切るように、道が続いているの…?)


 それは、複数の攻撃拠点を繋ぐための、連絡路なのだろうか。それとも。

(…小さな荷車? 予備隊の兵力転用? それも違う…)


 轍の周りには、魔物の足跡に混じって、人間のものと思われる軍靴の跡が、くっきりと残っていた。


(…数は、多くない。せいぜい、五人ほど。やはり、このスタンピードは、人間が関与している)


 敵の作戦が、通常のスタンピードとは全く異なる、高度な意図を持っていることだけは確信できた。しかし、その「なぜ?」に対する、決定的な答えには、まだ至らない。


 ノエルは、これ以上の潜入は危険だと判断する。彼女の目的は、敵の殲滅ではない。味方を勝利に導くための「情報収集」と「戦場の地ならし」だ。


 彼女は、魔物の巡回ルートから外れた、完璧な潜伏場所を見つけ出すと、まるで冬眠に入る小動物のように、その身を潜ませた。


 夜が、森を完全に支配する。


 視界は、ない。頼りになるのは、自らの聴覚だけ。


 その、静寂を破るように、それは聞こえてきた。


 カラカラ…カラカラカラ…。

 木の車輪が、石ころを弾く、乾いた音。


 ザッ…ザッ…ザッ…。

 重い軍靴が、規則正しく土を踏む音。


 グルル…フゥー…グルル…。

 それに続く、多数の、獣たちの、荒い息遣い。


 何か、重要なものが、夜陰に紛れて、移動している。


 その正体は、分からない。


 ノエルは、息を殺す。決して動かない。ただ、全ての神経を耳に集中させ、その音がどこから来て、どこへ向かうのかを、頭の中の地図と照合し続ける。


 やがて、謎の行軍の音は、ゆっくりと、しかし確実に、森の東――隘路のある方向へと、遠ざかっていった。


 森に、再び、完全な静寂が戻る。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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