第22話:黎明と、風
いつも応援ありがとうございます。
≪心の準備のお願い≫
本日のお話は、登場人物にとって、少し辛い展開となります。
お読みになる際は、どうかご無理なさらないでくださいね。
※【残酷な描写】を含みます。
朝日が、広大な森の東から登る。その光が、夜の間に地面に這った戦場の霧を、ゆっくりと黄金色に染め上げていく。
遠くに見えるニューログレインの外壁は、ここからでは小さな黒い線にしか見えない。
深い森の中、小高い丘の上で、ノエルは周りの状況を俯瞰していた。
彼女の瞳には、一切の感情が浮かんでいない。ただ、冷徹な観測者として、眼下に広がる全ての事象を、情報として取り込んでいく。
遠くで一斉に飛び立つ鳥の群れ。魔物たちが移動することで巻き上がる、微かな土煙。風に乗って、かろうじて耳に届く金属音と、獣の咆哮。
あそこで戦闘が起きている。実際に人が、その正義を懸けて傷ついている。
その場所は、ここからは遠いが、ノエルの頭の中にある作戦図のポイントと、寸分の狂いもなかった。敵の勢力も、ただの尖兵による擾乱。ギルド本体の被害は、まだ最小限だろう。
「もうすぐ…」
ノエルが、ただ、そう呟いた。
彼女の視線が、右に転じられる。そこは街から見て南側。
突然、森の切れ目で、新たな戦端が開かれた。それもまた、彼女の予想通り。昨日、彼女が壁の地図に描き込み、カイたち『鉄の街道』に託した、迎撃ポイントだった。
「ちゃんと、バルガスさん達が、動いてくれた…」
その声には、わずかな安堵が滲んでいた。
そしてまた、視線を正面に戻す。
そこは、最初の戦闘が続いている場所。ギルドの作戦では、最も危険な陽動部隊として配置されてしまった、『黎明のそよ風』の戦場だった。
ノエルの、観測者としての時間は終わった。
ここからは、彼女自身が、この戦場の駒となる。
彼女が描いた、巨大な罠の、最後の歯車を、自らの手で動かすために。
ノエルは一度、深く、静かに息を吸い込んだ。
そして、覚悟を決めたように、森の斜面を駆け下り始める。
敵の本格的侵攻まで、残り一日に迫った朝だった。
**
森の中は、夜の間に降った雨で、湿った土と腐葉土の匂いが立ち込めていた。
斥候任務を受けたCランクパーティー『黎明のそよ風』のサラとリリィは、その匂いとは別の、獣じみた悪臭に顔をしかめていた。
「サラちゃん、これ以上は危険だよ。敵の気配が濃すぎる。一度戻って、ギルマスに報告しないと…」
リリィが、周囲を警戒しながら、不安げに声をかける。
しかし、先頭を進むサラの足は止まらない。昨日、念願のCランクに昇格したばかりの彼女は、手柄を立てようと少し気負っていた。
「大丈夫だって、リリィ! 私たちも、もうただのDランクじゃないんだから。それに、ここで敵の尖兵の位置を正確に把握できれば、ハンナ先輩たちも動きやすいでしょ?」
その、焦りにも似た気負いが、彼女の判断を鈍らせていた。
茂みを抜けた先、少し開けた場所に、それはいた。数十匹はいるだろうか。ゴブリンとオークの混成部隊が、まるで出撃前の軍隊のように、不気味な静けさで集結している。
「……!」リリィは息をのみ、即座に撤退の合図を送ろうとした。
だが、サラは、その数に怯むどころか、好機と捉えてしまった。
「リリィ、見て! ゴブリンの一団は、まだこっちに気づいてない。あそこだけでも叩けば、後の本隊が楽になるはずだよ!」
「無茶だよ、サラちゃん! 罠かもしれない!」
リリィの悲痛な制止も、今のサラの耳には届かない。彼女は、ゆっくりと剣の柄に手を掛けた。
**
ニューログレイン東門の分厚い門は固く閉ざされ、そこには、街の命運を賭けた防衛線が構築されていた。
街の外壁の後ろに急遽一晩で増築された矢倉には、緊急招集された街の自警団が、弓と槍を構え、万が一にも防衛線が突破された場合に備えて、緊張した面持ちで待機していた。
その前方の森の外縁の近く。
ギルドマスター・マードックを中央に、Cランクの冒険者パーティーが三つ、横一列に陣を構える。彼らの任務はただ一つ、この防衛線を死守し、一体たりとも魔物を門に近づけさせないこと。
しかし、彼らの表情には、覚悟とは別の、焦りの色が浮かんでいた。
斥候として先行させた『黎明のそよ風』からの報告が、まだない。
敵の正確な規模も、主力の位置も分からぬまま、ただ、静寂の中で敵の第一波を待ち構える。その、息の詰まるような時間が、経験豊富なベテランたちの神経をすり減らしていく。
「…ちっ、遅いな、あいつら」
最前線に立つハンナが、忌々しげに吐き捨てた。
その姿は、いつものシニカルな受付嬢のものではなかった。体にぴったりとフィットした黒革の軽鎧。腰には、鞘に収められた、使い古されたロングソード。それは、彼女が現役だった頃の、戦うための装備だった。
「ほう」
隣に立つマードックが、その巨体から、感心したような、それでいてからかうような声を漏らした。
「その格好もひさしぶりに見たな。もう、解散してから三年か? 似合ってるぞ、『熱風のハンナ』」
「うるさいね、爺さん。昔の名前で呼ぶんじゃないよ」
ハンナは、照れを隠すように、そっぽを向いて悪態をつく。
「それより、あの子たちはまだかい。まさか、ヘマしたんじゃ…」
彼女の言葉が、現実のものとなる。
森の奥から、報告の狼煙ではない、獣の咆哮が響き渡った。
次の瞬間、森の木々を薙ぎ倒すようにして、緑色の津波が、防衛線へと殺到してきたのだ。
「来たか! 全員、構えろ!」
マードックが、地の底から響くような声で叫ぶ。
「絶対に門に近づけさせるな! 後はないぞ!」
戦闘は、唐突に始まった。
先陣を切ったゴブリンの群れを、Cランクパーティーたちが巧みな連携で屠っていく。しかし、後続のオークたちの突進は、あまりにも重い。
ハンナは、剣にうっすらと炎のような熱気を纏わせると、オークの群れへと単身突っ込んだ。彼女の剣が閃くたび、オークの硬い皮膚を焼き斬り、断末魔の叫びが上がる。
だが、敵の数は、あまりにも多すぎた。
「…おかしいな」
一体のオークを両断したマードックが、眉をひそめた。
「報告にあった規模にしては、数が少なすぎる。それに、動きが単調だ。まるで、ただの陽動みてえだ…」
その、マードックの戦術的な違和感。
それに、戦場が答えを返す。
「――グルルルオオオオォォッ!!」
森のさらに奥から、地を揺るがす咆哮が轟いた。
オークの群れを、まるで子供を掻き分けるかのようにして、それは現れた。
身の丈3メートルはあろうかという、オーガ。その手には、大木をそのまま武器にしたような、巨大な棍棒が握られている。
戦場の空気が、一変した。Cランク冒険者たちの顔に、絶望の色が浮かぶ。
「Cランクは纏まってオークを潰せ! オーガは俺がやる!」
マードックが叫び、オーガへと一人突進していく。
その背中を見送りながら、ハンナは、押し寄せるオークの群れを前に、奥歯を強く、強く、噛み締めた。
ギルドの防衛線は、オークの群れの猛攻を受け、じりじりと後退を始めていた。なんとか大きな怪我人を出すことなく食い止めてはいるものの、Cランクパーティたちの顔には、疲労の色が濃く浮かび始めている。
防衛線の隙間をすり抜けた数匹のゴブリンが、門へと緊迫する。
「一番隊、放て!」
矢倉の上から、自警団の声が響く。放たれた矢が、ゴブリンたちの喉を正確に射抜いていく。
しかし、自警団の矢の数にも限りがある。この防衛線が崩壊すれば、街は終わりだ。
「くそっ、キリがねえ!」
ハンナは、悪態をつきながら、オークの棍棒を剣で受け流す。その衝撃に、腕が痺れる。
一人で複数のオークを相手にするのは、引退して久しい彼女の身体には、あまりにも荷が重かった。
一体を斬り伏せた、その一瞬の隙。
別のオークの棍棒が、彼女のがら空きになった脇腹を狙い、唸りを上げて振り下ろされる。
(しまっ――!)
防御が、間に合わない。
死を覚悟した、その瞬間。
ヒュッ、と。
風を切り裂く、乾いた音。
ハンナに迫っていたオークの眉間に、一本の矢が根元まで深く突き刺さり、巨体が、うめき声も上げずに崩れ落ちる。
ハンナが、驚いて背後を振り返る。
そこには、3年前に脱いだはずの、古びた皮鎧を窮屈そうに身にまとった親友の姿があった。その手には、かつて戦場を共にした時と何一つ変わらない、静かな輝きを放つ短弓が握られている。
「ミナ…! あんた、その格好…!」
「あら?右目を狙ったはずなんだけどな」
ミナは、にっこりと、悪戯っぽく微笑んで見せた。
「似合ってない? やっぱり、ちょっとキツくなったかしら。それより、受付嬢で身体がなまってるのは、あなたの方みたいね」
「うるさいね! あんたこそ、ちゃんと戦えるのかよ!」
軽口を叩き合いながらも、二人の背中は、吸い寄せられるように、ぴたりと合わさる。
「ヘマするんじゃないよ!」
「ふふ。こんなところで『凪のミナ』が死ぬなら、この街はとっくに壊滅しちゃってるでしょ?」
伝説のコンビ『黎明の風』、一日限りの復活。
ハンナの熱風の剣が、炎の壁となって敵を薙ぎ払い、ミナの凪いだ矢が、その壁の隙間を寸分違わず射抜いていく。
近くで剣を振るCランクパーティが、戦場で舞う二人を見て、次々に士気を回復させる。
「あの二人、『黎明の風』…だよな? すげぇ…やっぱ伝説だぜ…」
『黎明の風』の完璧な連携は、崩壊寸前だった東門の戦線を、圧倒的な力で押し戻していった。
マードックの渾身の一撃が、ついにオーガの首をもぎ取る。
勝利の雄叫びが上がる中、ハンナとミナは、血と泥に汚れながらも、互いの無事を確認し、力強く頷き合う。
しかし、彼女たちの視線は、安堵ではなく、新たな決意を宿して、森の奥深くへと向けられていた。
「あの子たちを、助けに行くよ!」
本当の戦いは、まだ終わっていない。
伝説の風は、今、仲間を救うため、再び戦場を駆け抜けようとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価ポイントで応援していただけると、執筆の大きな励みになります。
感想や誤字報告なども、お気軽にいただけると嬉しいです。





