第18話:妖精と、痕跡
第一部 第五章:黎明
第18話:妖精と、痕跡
カイの、低く、鋭い声が、カウンターの一角だけ、周囲の喧騒から切り離した。
「……おい、ハンナ。なんだこりゃあ…? まるで、軍で使う作戦地図じゃねえか」
その言葉に、ノエルはびくりと肩を震わせ、ハンナは苦虫を噛み潰したような顔で、目の前の男――Bランクパーティー『鉄の街道』が誇る、凄腕の斥候を睨みつけた。
まずい。この男は、ダメだ。その辺の、脳みそまで筋肉でできているような連中とは違う。このメモの価値と、そして何より、その『異常性』を、一目で見抜いてやがる。
「……何言ってんだい、カイ。あんた、飲みすぎじゃないのかい?」
ハンナは、努めて面倒くさそうに、カウンターの上のメモを、ひったくるようにして取り上げた。
「これは、うちの新人の、今日の野外実習のレポートだよ。あんたには関係ないだろう?」
「レポート、ねえ」
カイは、納得していない目を、真っ直ぐにノエルへと向けた。その、全てを見透かすかのような視線に、ノエルは思わず息をのむ。
「……こんな精緻な状況分析、軍の斥候学校でも、最優等生くらいしか書けやしねえ。お前さん、一体、どこでこれを学んだ?」
「……」
ノエルは、何も答えられない。ただ、俯いて、自分の膝の上で、小さな拳を固く握りしめるだけだった。
その、怯えているようで、しかし、どこか頑なな少女の姿を見て、ハンナは、まるで母親が雛を守るように、一歩前に出た。
「しつこいね、カイ。言ったろ、新人の教育だって。あんたたちみたいに、才能に恵まれた連中と違ってさ、うちの新人には、こうやって、一つ一つ、石橋を叩いて渡る方法を教え込んでるのさ。何か文句でもあるのかい?」
その、有無を言わせぬ剣幕に、カイは、ちっ、と一つ舌打ちをすると、肩をすくめた。
「…へっ、そーかい。まあ、お前の教育方針に、俺が口を出す筋合いはねえな」
カイはそう言うと、興味を失ったかのように、くるりと背を向け、仲間たちが待つテーブルへと戻っていった。
ハンナは、その背中を見送りながら、内心、冷や汗をかいていた。
(…危なかった。あいつ、絶対、納得してないな…)
**
それから、一週間が過ぎた。
ノエルは、ハンナの指導の下、Eランクの常設依頼――薬草採集や、簡単な素材の納品――を、来る日も来る日も、黙々とこなし続けていた。
サラとリリィとは、あの後も、ギルドの食堂で顔を合わせるたびに、言葉を交わすようになっていた。他愛ない会話。優しい気遣い。その、ささやかな交流が、ノエルの孤独な心を、少しずつ、しかし確実に、温めてくれていた。
だが、彼女の本当の目的は、決して揺らぐことはなかった。
依頼にかこつけて、街の周辺の地理、地形、そして魔物の生態系といった、全ての『情報』を、自らの頭脳に蓄積していく。それは、姉・クレアの足取りを掴むための、壮大なデータ収集だった。
そして、夜。寮の自室で、彼女は、もう一つの戦いを始めていた。
――『地図の妖精』。
ギルドが動いてくれないのなら、自分が動くしかない。
姉を探すために分析した「危険エリア」や「安全なルート」の情報を、新しくできた仲間と、まだ見ぬ誰かが、無駄な危険に遭わないように。そんな祈りを込めて、ギルドホールの壁の一面、大きく設置された地図の隅に、毎朝、誰にも気づかれぬよう、小さなメモを貼り付け続ける。
それは、彼女にできる、唯一の、そして静かなる抵抗だった。
ギルドホールでは、その正体不明の情報提供者が、畏敬と親しみを込めて、「地図の妖精」と呼ばれ始めていることなど、この時のノエルは、まだ知る由もなかった。
**
その日、『鉄の街道』の四人は、一週間の長期護衛依頼を終え、ニューログレインへと帰還した。
「ったく、骨の折れる仕事だったぜ」
リーダーのバルガスが、カウンターのハンナに、大きな麻袋をドサリと置いて、任務完了を報告する。
「ハンナ、西の街道筋、少し入った森がヤバいことになってる。本来この時期には見ないはずの、ダイアウルフの縄張りが、妙に南下してきてる。Cランク以下の連中が行ったら、死人が出るぞ」
斥候のカイが、プロとしての義務感から、道中で得た最新の危険情報を付け加えた。
ハンナは、その報告に「そうかい」とだけ短く答えると、黙って壁の地図を顎でしゃくった。
いぶかしげに地図へ向かったカイは、そこに、いつもの数倍の人だかりができていることに気づく。そして、彼らが、熱心に覗き込んでいる、地図の隅に貼られた、無数のメモを見て、絶句した。
「西の森、ダイアウルフの縄張り南下中。原因は、さらに南方の、大規模な魔物の移動による、生息域の圧迫と推測。特に、夜間の単独行動は、自殺行為に等しい」
自分たちが、命懸けで掴んできた「点」の情報。それが、ここでは、その「原因」の分析という「線」の情報として、既に完璧に記されていた。
「…なんだ、こりゃあ」
カイの口から、呆然とした声が漏れる。
その時、彼の脳裏に、一週間前の、あの光景が、鮮やかにフラッシュバックした。
――カウンターの隅で、ハンナと、あの新人らしき小娘が見つめていた、一枚の、奇妙な『メモ』。
――そして、自分が「軍の作戦地図みてえだ」と指摘した時の、ハンナの、不自然なまでの狼狽ぶり。
(…まさか)
カイは、自分の背筋が、すうっと、冷たくなっていくのを感じた。
(まさか、この、ギルド中を騒がせている『地図の妖精』ってのは……)
彼の思考が、一つの、信じがたい結論にたどり着く。
(――あの、小娘が、書いたってことか…?)
**
時を同じくして、ノエルは、森の中にいた。
毎日、ギルドの依頼を受けつつ、できるだけ広い地域を、一人で捜索し続けているのだ。季節は変わる。ただ寒々しく冬の風が吹き抜ける。
それは、枯れた草の間に半ば埋もれるようにして、無造作に地面に落ちていた。
木彫りの人形。
「リスの住む大きな木」のうろの中で見つけた、クレアが作ってくれた綺麗な人形ではない。
もっと不格好で、いびつな兎の人形。
ノエルが、姉の真似をして、クレアに「お守り」としてプレゼントしたものだった。
――『わあ、上手ね、ノエル。ありがとう、お姉ちゃん、これをずっとお守りにするわ』
そう言って、自分の作った不格好な人形を、宝物のように、優しく微笑んで受け取ってくれた、姉の顔が、脳裏に蘇る。
クレアが、これを手放すはずがない。
つまり、これは、「落とした」ものだ。
その事実に、ノエルの血の気が引く。
しかし、同時に、彼女の戦術眼は、その場の状況から、全く別の可能性を読み取っていた。
クレアの足跡が、一切ない。
その代わりに、前に見たのと同じ、驚くほど軽やかで、洗練された足運びの、秘匿された第三者の足跡が、一つだけ、残されている。
敵兵の痕跡は、村の周辺以降は完全に途絶えており、街の近傍には一切近づけてすらいない。
「…お姉ちゃんは、疲労で動けなくなった。でも、敵には捕まっていない。そして、あの第三者が、お姉ちゃんを…『運んで』、ここを移動した…」
姉は、誰かに救助された。
その結論が、彼女に、絶望の中の、確かな希望を与える。
だが、安堵したのも束の間、彼女の思考は、すぐに次なる、より大きな謎へと向かう。
(では、なぜ、これほど巧妙に痕跡を消す必要があるのか? この森には、敵兵以外に、一体どんな危険があるというの…?)
その時。
これまでギルドの地図に貼り付けてきた、数々の「生態系の綻び」の情報が、彼女の頭の中で、一つの、恐るべき線として繋がった。
ダイアウルフの南下。小動物の異常な避難行動。そして、この、あまりにも巧妙に隠蔽された、第三者の痕跡。
(…違う。ただの魔物の暴走じゃない。これは…『軍事行動』だ…! 誰かが、意図的に、この森の魔物を、街へ向けて『誘導』している…!)
その結論に達したノエルは、血の気が引くのを感じながら、ギルドへ、仲間たちにこの危機を知らせるため、全力で駆け出した。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
【明日は二話投稿】します!
朝と夜の二回更新です。ご期待ください!
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