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第17話:初めての女子会と、熱風の残り香

 職能ギルドでの、二日目の朝が来た。


 ノエルは、誰よりも早く目を覚まし、誰よりも早く、行動を開始していた。午前中は、昨日と同じ座学講習。ハンナが叩き込むギルドのルールや、周辺の森の基礎知識。その全てを、彼女は一言も聞き漏らすまいと、真剣な表情で記憶に刻みつけていく。


 だが、その心は、別の場所にあった。


(早く。一刻も早く、実習を終えて、依頼を受けられるようにならなければ。時間が、ない……)


 姉の安否が、常に彼女の思考の根底に、重く、冷たい澱のように沈んでいる。その焦りが、ノエルの心を苛んでいた。


 午前の講習が終わり、休憩の時間。

 ノエルは、ギルド併設の食堂の、一番隅にあるテーブルで、一人、硬いパンと薄いスープだけの遅い朝食をとっていた。朝の喧騒が嘘のように、この時間はギルドホールに残る者は少ない。まるで時が止まったかのように静かだった。


 食事の味など、ほとんど感じない。ただ、生きるために、無心でパンを口に運ぶ。


 頭の中では、午前中にハンナが説明した、あまりにも初歩的すぎる魔物の知識を、魂に宿る、より高度な『知識』で、無意識に訂正し続けていた。


(違う。オークの弱点は、ただ心臓を狙うだけでは不十分。重要なのは、その突進力を利用し、自滅させる地形へと誘導すること…)


 しかし、そんなことを指摘できるはずもない。自分は、ただのEランクの見習い。無知で、非力な少女を演じなければ、この場所で生きてはいけないのだ。

 その、どうしようもない現実と、焦りが、十五歳の少女の眉間に、深い皺を刻ませていた。


 **


「おーい、新人ちゃん! そんなとこで、一人で難しい顔してないでさ、こっちで一緒に食べなよ!」


 不意に、明るく、そして屈託のない声が、ノエルの思考を中断させた。


 顔を上げると、少し離れたテーブルから、二人の少女が、にこにことこちらに手招きしている。昨日、ハンナの講習を受けている時に、ちらりと見かけた顔だった。


 戸惑うノエルに、もう一人の、おっとりとした雰囲気の少女が、優しく微笑みかける。


「なんだか、すごく悩んでるみたいだったから…。よかったら、ご一緒しませんか?」


 姉以外の同年代の少女との、そんな他愛ないやり取りに、ノエルはどう反応していいか分からず、ただ、小さく頷くことしかできなかった。


 二人は、Dランクパーティー『黎明のそよ風』だと言った。ポニーテールが活発な印象の剣士サラと、編み込みの髪が優しい雰囲気の弓使いリリィ。辺境の村出身の、仲の良い二人組だった。


「私、サラ! こっちはリリィ! あんた、昨日登録した子だろ? ギルドは初めてだと、色々分かんないことだらけだよなー。なんでも聞きなよ!」


 サラは、持ち前の姉御肌で、ぐいぐいと距離を詰めてくる。


「サラちゃん、そんなに一気に話しちゃ、困っちゃうよ。…はい、これ、昨日焼いたクッキー。よかったら、どうぞ」


 リリィは、そんなサラを優しく窘めながら、小さな布の包みから、木の実のクッキーを一枚、ノエルの前にそっと置いた。


 その、計算のない、純粋な善意に、ノエルの心が、少しだけ、温かくなるのを感じた。


「…ありがとうございます」


 少し話をしただけで、ノエルの心は暖かくなった。そして、ノエルの指導係がハンナだと知ると、サラは、ぱあっと、顔を輝かせた。


「え、ハンナ先輩が!? いいなー! あの人、昔は『熱風(ねっぷう)のハンナ』って呼ばれて、すっごい剣士だったんだよ! 私たち、昔、オークに襲われたところを、助けてもらったことがあるんだ! その剣、まるで炎みたいで、すっごく、すっごく、カッコよかったんだから!」


 あの、口うるさくて、いつも面倒くさそうな顔をしている受付嬢が?

 ノエルは、サラが語る、ハンナの意外な過去に、ただ、目を丸くするしかなかった。


 その時だった。

 近くのテーブルで飲んでいた、ベテラン冒険者たちの会話が、不意に、ノエルの耳に突き刺さった。


「…しかし、西の森の村の件は、ひでえ話だよな。女子供まで、ほとんど皆殺しだったって話じゃねえか…」

「おい、よせ! その話は、ギルドじゃ禁句だ! ハンナさんに聞かれたら、またぶん殴られるぞ!」


 その言葉を聞いた瞬間、ノエルの血の気が、さっと引いた。持っていたスプーンが、カチャン、と音を立てて床に落ちる。


「え…」

 サラとリリィも、しまったという顔で、慌ててノエルの顔を覗き込んだ。


「あ、あの! ノエルちゃん、大丈夫!?」「き、気にしちゃダメだよ! ああいう人たち、話を大げさに盛るのが好きなだけだから!」


 ハンナがギルド内でその話題を徹底的に禁じていることを、この時のノエルはまだ知らない。それは、無神経な好奇の目から、たった一人の生き残りである少女を守るための、彼女なりの、不器用で、しかし精一杯の防壁だった。


 だが、今のノエルには、その真意を知る由もなかった。


 **


 午後の野外実習は、重い空気の中で始まった。


 サラとリリィは、実習へ向かうノエルに、「これ、あげる! 私たちのお古だけど、こっちのほうがマシだから、使いな!」と、丈夫な革手袋と、よく手入れされた採集用のナイフを、半ば無理やり押し付けてくれた。

 その優しさが、今は、少しだけ、痛かった。


 街のすぐ近くの森。ハンナは、ラフな普段着のままだったが、その腰には、鞘に納められた、使い古されたロングソードが、確かな存在感を放っている。防具も着けていないのに、その佇まいには、一切の隙がなかった。


「いいかい、ノエル。森ってのは、優しい顔して、平気で人の命を奪う。常に、五感を研ぎ澄ませな」


 ハンナの言葉を、ノエルは、いつも以上に真剣に受け止めていた。


 実習が始まって、しばらく経った頃。ノエルは、地面に残された、ある痕跡に気づき、足を止めた。


「…どうした?」

「…おかしい、です。この爪痕…この辺りには生息していない、ダイアウルフのものです。それに、この糞。まだ、新しい…」


 ハンナも、即座に危険を察知した。その顔から、いつもの面倒くさそうな色が消える。


「…よし、今日のところは引き上げるよ! まっすぐ街に戻る!」


 ハンナが撤退を指示した、その瞬間。

 ノエルの魂の知識が、警鐘を鳴らす。


「…待ってください」

 その、あまりにも的確で、断定的な響きに、ハンナは思わず言葉を失った。


「まっすぐ街へ戻るのは、危険です。ダイアウルフは、既に私たちが通ってきた道を塞ぐように、回り込んでいるはず。風下である、南西の、あの岩場を抜けるのが、最も安全なルートです」


 ハンナは、目の前の少女の瞳を見た。

 そこには、かつての相棒、『(なぎ)のミナ』が、絶体絶命の状況で見せたのと同じ、戦場の全てを見通すかのような、静かで、しかし絶対的な確信の色が、宿っていた。


(……冗談じゃない)


 ハンナは、声に出さず、ただ、心の中で呟いた。


(こいつは、ただの勘や、付け焼き刃の知識で話しているんじゃない。これは…戦場の空気を知る者の、『目』だ。…とんでもない化け物が、このギルドに紛れ込んじまったもんだ…!)


 **


 ギルドホールに戻り、カウンターの隅で、ハンナとノエルは、二人きりの「反省会」を始めていた。周囲の喧騒が、二人の間の緊張感を、より一層際立たせる。


「…単刀直入に聞くよ、ノエル。あんた、一体何者だい? さっきの判断、どうしてできた?」


 ハンナの、真剣な問い。

 ノエルは、自分の能力をどう説明していいか分からず、ただ、言葉に詰まった。


 そして、言葉で説明するよりも早く、彼女の手が、魂の知識に従って、勝手に動いた。彼女は、懐から羊皮紙の切れ端を取り出すと、インクペンで、先ほどの森の状況を、驚くほど精密な地図として、描き出す。


 そこには、地形、風向き、魔物の予測進路、そして、自分たちが実際に通った、唯一の安全なルートが、完璧に記されていた。


「…こう、なっていたから、こう、しました」


 その、常識を超えたメモを前に、ハンナは言葉を失った。


 これは、ただの勘ではない。戦場の全てを、神の視点から俯瞰しているかのような、異常なまでの戦術眼。彼女は、自分がとんでもない「才能」と、そして「危険物」を預かってしまったのかということを、改めて痛感する。


 ハンナが、そのメモをどう処理すべきか、思案に暮れている、その時。

 近くのテーブルで飲んでいた、Bランクパーティー『鉄の街道』の斥候カイが、その尋常ならざる雰囲気の二人に気づき、興味本位で、カウンターの上のメモを、ひょいと横からのぞき込んだ。


 カイは、そのメモを一瞥するなり、その表情から、いつもの皮肉な笑みを消した。


「……おい、ハンナ。なんだこりゃあ…? まるで、軍で使う作戦地図じゃねえか」


 カイの真剣な声と、ノエルの驚いた顔、そしてハンナの苦虫を噛み潰したような顔。


 その三者の視線が交錯した。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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