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第16話:月光と、お日様の匂い

「新規登録かい。こっちに来な」


 ハンナは、ノエルをカウンターの隅へと導くと、分厚く丈夫な羊皮紙の「登録用紙」と、それとは対照的な、安っぽくざらついた紙に、木版で雑に刷られたらしい「ギルド規約」を、彼女の前に置いた。


「まず、こっちに必要事項を書きな」

 ノエルは、差し出されたインク壺とペンを、強く握りしめる。


 名前の欄に、「ノエル」と記す。年齢は「十五」。

 しかし、「出身」の欄で、彼女のペンが、ぴたりと止まった。ロルフとのやり取りが、脳裏をよぎる。この街では、誰も知らない名前。でも。


「…書きたくなきゃ、書かなくていいし、適当でもいいよ。誰も気にしたりしないさ」

 ハンナが、面倒くさそうに言う。


 だが、ノエルは、静かに首を横に振った。そして、自分の中で決して消したくない、たった一つの故郷の名前を、震える手で、しかし一文字ずつ、はっきりと書き込んだ。


 ――『白沢村』。


(これは、私と、母さんと、お姉ちゃんだけの、本当の村の名前。誰にも、消させない)


 そんな、ささやかな、しかし譲れない抵抗だった。


 次に、「後見人」の欄。迷わず、父の名を記す。「セド」。その名を記す時だけ、彼女の背筋は、ほんの少しだけ、誇らしげに伸びた。


「…後見人の欄は、十五に満たない子供が書くもんだよ。あんた、もう成人だろ?」


 ハンナの言葉が、静かに突き刺さる。ノエルは、自分がこの社会では「成人」として扱われると同時に、その瞳の奥では、まだ「子供」として見られているという、矛盾した現実に気づいた。


 そして、最後に書かれた一文。


 ――以下の規約に同意し、ギルドでの全ての活動は、自己の責任において行うことを誓います。


 自己責任。


 その四文字を、ノエルは、自らの未来の全てを賭けるように、強く、強く見つめた。そして、覚悟を決めたように、すっと息を吸い込むと、署名の欄に、彼女の名前を記した。


「あんた、職能ギルドは初めてだろ?」

 ハンナは、署名された用紙を受け取ると、慣れた口調で、滑らかに、しかし一切の甘えを許さない現実を、彼女に叩き込んでいく。


 その淀みなく紡がれる言葉。一つ一つが、冷たい楔のように、ノエルの心に打ち込まれていく。


 一つ、あんたは今日から見習いのEランクだということ。


 一つ、受けられる依頼は、当面、薬草採集みたいな戦闘のないものだけだということ。


 一つ、死んでもギルドは一切関知しない、自己責任の世界だということ。


 そして、最後に。一年以内にDランクに上がれていなければ、待っているのは、脱退か、死か、そのどちらかだということ。


 ハンナはもう一度登録用紙を確認する。出身の「白沢村」という文字と、「西の森の村の生き残り」というロルフの言葉を、頭の中で結びつけていた。彼女は、「ちょっと待ってな」とだけ言うと、カウンターの奥へと消えていった。


 階段を上がった二階の奥。ギルドマスターと彫られた、ひときわ分厚い扉を躊躇なくノックする。


「ギルマス、西の森の村の子だ。私が預かる。特例で、マンツーマン講習と寮の即時使用を認めてほしい」


 部屋の奥から、地の底を這うような、低い声が返ってきた。「…面倒事はごめんだぞ」

「分かってる。こいつは、面倒事になる前に、私がきっちり躾けるさ」

「…好きにしな。自警団への『貸し』は、きっちり記録しとけよ」


 **


 ハンナの半ば強引な直談判によって、ノエルのための特例講習が、その日のうちにギルドの裏手にある訓練場で行われることになった。乾いた土の匂いと、無数に矢の刺さった的が、ここが戦う者たちの場所であることを示している。


 ハンナは、手近な薬草を指さし、その効能を説明する。古い魔物の絵図が描かれた羊皮紙を広げ、その弱点を語る。


「これは、解熱効果のあるシラハギ。こっちの赤い実は、毒草だ」


「この獣道にある、単純な輪縄。これは新米狩人がよく使う罠だが…」


 ハンナの説明を聞きながら、ノエルの脳裏で、別の声が響く。


 ――違う。シラハギの根は、化膿止めにも使える。あの赤い実は、少量なら強力な下剤として、敵部隊の行動を阻害する。


 ――違う。その輪縄では、大型の獣には切られる。対人用の逆茂木を応用し、獣の進行ルートそのものを限定させ、より確実な罠へと誘導すべきだ。


 ノエルは、流れ込んでくる魂の知識を必死に押し殺し、ただ黙って、ハンナの言葉に頷くだけの、覚えの悪い劣等生を演じ続けた。しかし、ハンナが罠の結び目を指さした時、彼女は無意識に、その構造の欠陥を分析するような、鋭い視線を向けてしまっていた。


「…なんだい、その目は」

 ハンナは、その一瞬の視線の変化を見逃さなかった。


「何か、言いたいことでもあるのかい?」

「……いえ、何も」

 ノエルは、はっとして視線を伏せた。だが、ハンナの心には、(…本当に、何も知らないのか? まるで、物事の本質を、その構造ごと見抜くような目をしやがる…)という、拭いがたい違和感が、確かに刻み込まれた。


 **


 西の空が茜色に染まり、一番星が瞬き始める頃、ようやくハンナは講習の終わりを告げた。


 その日の講習を終え、ハンナに連れられて新人用の寮へと向かう。


 ギルドホールを横切った時、ひときわ大きな体躯を持つ、熊のような男が率いる四人組と、すれ違った。

 彼らに気づいた若い団員が、憧れの眼差しで声をかける。


「あ、『冥府の死天王』だ! かっけー!」


 その瞬間、斥候らしき痩身の男が、殺気のこもった視線で若い団員を睨みつけた。


「…あ? 誰が死天王だ、殺すぞ」

「まあまあ、カイ。子供の言うことだろ」


 リーダーらしき大男が、ガッハッハと笑って窘めるが、その目の奥は一切笑っていない。本物の戦場を知る者だけが纏う、死の匂い。ノエルは、息をのんだ。


 ハンナが、そんな彼女にだけ聞こえるように、小声で毒づいた。

「あれが、この街の英雄様さ。今は『鉄の街道』なんて呼ばれてるがね。…名前のセンス以外は、まあ、一流だよ」


 ギルドホールを出て、別棟になっている寮へと向かう。扉を一枚隔てただけで、あれほどの喧騒が、くぐもった、しかしどこか温かいざわめきとなって聞こえてくる。


 ノエルは、その音に耳を澄ませた。


 あの喧騒は、最初は怖かった。でも、今は…なぜだろう。村の収穫祭の夜を思い出すような、懐かしい音に聞こえる。孤独だが、一人ではない。大きな共同体の中に、今、自分は確かにいる。そんな、不思議な親近感を、彼女は感じていた。


 新人寮の、がらんとして、少し埃っぽい、しかし雨風はしのげる簡素な部屋に到着する。


「ベッドはこれ、水場はあっち。いいかい、ここを使えるのは三ヶ月限定だからね」


 ハンナは、そうぶっきらぼうに告げると、踵を返した。


 部屋を出て行こうとする、その直前。

 彼女は、ふと、思い出したように振り返ると、持っていた布の包みを、ノエルのベッドに、ぽいと無造作に投げた。


「あ、それ。あんたの服、見てるこっちがみすぼらしくなるからさ。私のお古で悪いけど、それに着替えな。洗濯くらいは、自分でできるんだろうね?」


 顔を少しだけ赤らめ、悪態をつくように早口で言うと、ハンナは、今度こそ足早に部屋を去っていった。


 一人、残された部屋で。

 ノエルは、その布の包みを手に取った。


 中には丁寧に畳まれた、清潔なチュニックとズボン。そして、そこからは、ほんのりと、お日様のような、優しい匂いがした。


 故郷を失ってから、誰かに「物」を与えられたのは、初めてだった。


 ノエルは、その古着を、ただ黙って、ぎゅっと胸に抱きしめる。

 その、不器用で、しかし確かな温もりに、彼女の強張っていた口元が、ほんの少しだけ、緩んだ。


 それは、本当に、本当に、小さな微笑みだった。


 決意を新たにする。三ヶ月。この街で、このギルドで、私は生き抜かなければならない。姉と、再会するために。


 その時、ふと、彼女の脳裏に、今日、登録用紙に書いた、父の名前と、故郷の記憶が蘇った。そして、その記憶の断片が、不意に、別の記憶のピースと、音を立てて繋がる。


 ――五年前、商人の護衛として村に来た、あの無口で、強くて、怖かった男の人の、革鎧の匂いと、鋭い眼光。

 そして、彼を指して、行商人が誇らしげに言った、あの言葉。


『腕利きの「冒険者」でして』


 冒険者。


 母が語ってくれた、おとぎ話の中の、キラキラした存在。


 でも、あの人は、キラキラなんてしていなかった。今日、ギルドホールで見た、あの人たちと同じ。自らの力だけで、世界と渡り合っている者の、鋭くて、孤独な匂いがした。


(…ここに来たのは、間違いじゃなかった)


 絶望の中で、やむを得ず選んだはずの道。

 それが、遠い記憶の中で、微かな「憧れ」と結びついた、その瞬間。

 ノエルの胸の中に、確かな希望の灯が、静かに、しかし力強く、灯った。


 彼女は、部屋の隅に置かれていた、一本のロウソクに火をともす。か細い炎が、がらんとした部屋を、ぼんやりと照らし出した。

 窓の外では、冷たく澄んだ月が、静かに街を見下ろしている。


 ノエルは、懐から、あの木彫りの人形を、そっと取り出した。姉が、自分のために作ってくれた、たった一つの宝物。


 その人形を、月光が差し込む窓際に、まるで祭壇に捧げるかのように、丁寧に、丁寧に置いた。


 明日への、そして、まだ見ぬ姉との再会への、新しい決意を胸に、彼女は、新たな一日が始まるのを、静かに祈った。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


毎朝7時更新を始めました。なお、第23話まで予約しているので安心してください(笑)

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