第15話:職能ギルドと、受付嬢
決意を、新たにする。
自警団の詰所で、ロルフが淹れてくれた温かい薬湯を飲みながら、ノエルは、ただぼんやりと、彼の話に耳を傾けていた。
この街の名前は、ニューログレイン。王国の辺境に作られた新興の街で、歴史は浅いが、貿易の要所として活気に満ちているらしい。人が増えすぎて、外壁の工事が追いつかないことなど。
「職能ギルドとは、うまくやってるさ。なんせ、南に広がる魔物の森が、すぐそこだからな。あいつらがいなきゃ、この街は一日だって成り立たん」
ロルフは、雑談でもするように、ゆっくりと話し続ける。
しかしその言葉は、右の耳から左の耳へと、ただ通り抜けていく。まだ、他人の話が心に入ってくるほどの余裕は、彼女にはなかった。
「…さて、そろそろ行くか」
ロルフに促され、ノエルは、おぼつかない足取りで立ち上がった。
重い木の扉を、ロルフがギィ、と低い軋みを立てて開ける。外から、午後の柔らかな光と、人々の喧騒が流れ込んできた。
その光に、背中を押されるように、ノエルは、おそるおそる、詰所の外へと足を踏み出した。
初めて見る、ニューログレインの街並み。
その瞬間、ロルフが話していた言葉の断片が、目の前の光景と、カチリ、カチリと音を立てて繋がっていく。
太陽は西の空へと傾き、石畳の大通りには、建物の長い影が伸びはじめている。
通りは多くの人々でごった返し、荷を積んだ馬車がゆっくりと進んでいた。パンの焼ける香ばしい匂い、金属を打つ甲高い音。これが、彼が言っていた「活気」なのだと、ノエルは肌で理解した。
道の隅では、遊び疲れたのだろう、母親に手を引かれた小さな子供が、帰りたくないと駄々をこねている。
それらの、どこにでもある、ありふれた日常の光景。
ふと、どこかの家から、野菜と肉がことこと煮込まれた、温かいスープの匂いが風に乗って運ばれてきた。その匂いに、村で母が作ってくれたシチューの記憶が、不意に胸をよぎる。
心が、ぐちゃぐちゃになりそうだった。
それでも、彼女は、何かに縋るように、その光景から目を離さなかった。
絶望的な静寂に包まれた森の中では、決して感じることのできなかった、人の温もり。その、一つ一つの「生活の音」と「生活の匂い」が、彼女のささくれだった心を、少しずつ、しかし確実に、癒していく。
そうだ。ここも、私の村と同じように、人が生きている場所なのだ。
「どうだ、少しは落ち着いたか?」
隣を歩くロルフが、心配そうにノエルの顔を覗き込んだ。ノエルが小さく頷くと、ロルフは安堵したように、前方を指さした。
「ギルドは、あの広場の向かいだ。だがな、ノエル。この時間帯は、依頼を終えた連中が戻ってきて、一日で一番騒がしくなる。荒くれ者も多い。だが、根は悪い奴らじゃない。驚くんじゃないぞ?」
ロルフの言葉通り、石畳の大きな中央広場の向かいに、ひときわ大きく、どっしりとした建物が鎮座していた。
木造だが、その一階部分はレンガで無骨に補強されている。正面は広く立派だが、壁のあちこちに見える補強の跡が、この建物が長い風雪に耐え、何度も修繕を繰り返してきたであろう歴史を物語っていた。華美な装飾は一切ない。ただ、堅実さと、効率だけを重視したかのような佇まい。
あそこが、私の、新しい場所。
ロルフは、建物の前で立ち止まると、ノエルを振り返った。
「準備は、いいか?」
その問いに、ノエルは、一度だけ、ぎゅっと目を閉じた。
そして、再び目を開けた時、その瞳には、もう迷いはなかった。
彼女は、ロルフに促されるのを待つことなく、自ら一歩前に出た。
そして、自分の小さな手で、重く、冷たい両開きの扉に、そっと触れる。
ノエルは決意を込めて、自分の力で、その扉を、ゆっくりと、しかし確実に、押し開く。
開いた扉から溢れ出る人の熱気に、ノエルは少し緊張した。
**
扉の向こうは、外の喧騒が子供の遊びに思えるほどの、圧倒的な熱気と混沌に満ちていた。
汗と、酒と、そして微かな鉄の匂いが混じり合い、むわり、とノエルの肌を撫でる。
奥のカウンターの前には、依頼を終えた者たちが列をなし、持ち帰った魔物の素材や薬草の入った麻袋を、ドサリ、ドサリと床に置いている。その査定を待つ間、今日の武勇伝を語り合う者、仲間と肩を組んで、手に入れたばかりの報酬で早速一杯やろうと騒ぐ者。この「職能ギルド」という場所が、彼らにとっての仕事場であり、社交場であり、そして生活そのものであることが、一目で分かった。
併設された食堂らしき一角では、小柄だが筋肉質な男が、巨大なジョッキを片手に「あのオーガの棍棒を、この俺様がだな!」とテーブルを叩いてがなり立て、周囲がそれに野次を飛ばしては、下品な笑い声が爆発していた。壁際では、槍を手入れする長身の女性が、男たちの騒ぎにやれやれと肩をすくめている。
彼女の纏う空気は、村で見てきた母や姉のものとは全く違う、自らの力で生きる者の、したたかで、そして揺るぎない強さを感じさせた。
あまりの情報量に、ノエルは気圧され、思わずロルフの背中に隠れるように、一歩後ずさった。
「言った通りだろ? だが、怖がることはねえ」
ロルフは、そんなノエルの様子を振り返って苦笑すると、慣れた様子で人混みをかき分け、カウンターへと進んでいく。
その、喧騒の中心にある受付カウンター。その中で、ひときわ手際よく、そして冷徹に、依頼を終えた者たちを捌いている一人の女性に、ノエルの視線は自然と引き寄せられた。
「はい、次。…ああ、あんたたちか。角うさぎの毛皮、質は良いけど、少し肉の血抜きが甘いね。買い取り価格、一割減。文句あるかい?」
「へっ、へい…」
「こっち。オーガの牙、これは見事だね。依頼達成、認定。報酬はこっちの窓口で受け取りな。お疲れさん」
年の頃は、二十代半ばだろうか。そばかすの散った顔は、どこか疲れたような、現実的な色をしていた。
そしてその、シニカルだが有無を言わせぬ言葉に、列をなす者たちはあるいは舌打ちし、あるいは安堵の表情を浮かべて、それぞれの場所へと散っていく。
ロルフがカウンターに着くと、その女性は、書類から顔を上げて、初めて気さくな笑みを見せた。
「おや、ロルフさん。お疲れ様。また新人のことで、うちの若いのが何かやらかしたかい?」
「よう、ハンナ。いや、今日は逆だ。こいつの登録を頼みたくてな」
ロルフに促され、ノエルは、おそるおそる一歩前に出た。
ハンナと呼ばれた女性は、ノエルのボロボロの衣服と、その奥にある、あまりにも静かで、そして覚悟の決まった黒い瞳を一瞥すると、先程までの気さくな笑顔をすっと消した。
値踏みするような、鋭い視線。
ハンナは、ロルフに、そしてその背後にいるノエルに、静かに問いかけた。
「…西の森の村の子かい?」
ロルフが頷くと、ハンナは、ふう、と一つ、長い息を吐いた。
「ふぅん……」
彼女は、ロルフに向かって、にやりと笑いかける。
「自警団への貸しは、高くつくけどね」
そして、その視線を、まっすぐにノエルへと戻した。
「――任せときな」
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