第14話:始まりの街と、最初の選択
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【新章開始】です。
ここから、物語は大きく動き出しますので、ぜひお見逃しなく!
知らない天井だった。
ごつごつとした、粗い木目が、すぐそこに見える。
意識が、深い霧の中から浮かび上がるように、ゆっくりと輪郭を取り戻していく。
鼻をつくのは、消毒薬の、ツンとした独特の匂い。背中に感じるのは、硬いが、乾いていて清潔なシーツの感触。森の湿った土や、腐葉土の匂いではない。人の営みの中にしかない、匂いと感触……。
そして、視線を動かすと、壁に掛けられた槍や盾が見えた。村の集会所に似ているけれど、もっと頑丈で、物々しい。
そうだ。私は、森を抜けて、街にたどり着いて、そして……。
記憶が繋がり、自分の身に何が起きたのかを理解する。同時に、あれほどの極限状態にあった体の疲労が、少しだけ和らいでいることにも気づいた。
ノエルは、軋む体を、ゆっくりと起こした。
「…お、目が覚めたかい」
穏やかな、低い声。見ると、少し離れた木椅子に、日に焼けた顔の年配の男が座っていた。自警団の制服であろう、分厚い革鎧には、無数の傷が刻まれている。
ノエルが身構えるのを察したのか、男は椅子から立たず、ただ優しく微笑みかける。
「わしはロルフだ。ここの自警団で、もうすぐお役御免の爺さんだよ。無理はするなよ」
ロルフと名乗った男は、テーブルに置かれていた木の器を、ゆっくりと、こちらに分かるように差し出した。
「腹が減ってるだろう。これを飲むといい」
器の中には、まだ湯気の立つ、少し懐かしさを感じる麦粥。
ノエルは、差し出された器を、ただじっと見つめた。
そして、ゆっくりと、震える手でそれを受け取る。一口、また一口と、温かい粥が、空っぽの胃に染み渡っていく。涙が、滲みそうになった。
それは、故郷を失ってから初めて触れる、人の温かさだった。
気づけば、器は空になっていた。
「…さて」ロルフは、ノエルの心が少し解きほぐされたのを見計らって、静かに切り出した。
「坊や、名前は何て言うんだい?」
「……ノエル、です」
「ノエルか。良い名だ。…それで、ノエル。君の村は、どこだったかな。言えるかい?」
ロルフの言葉は、慎重で、優しい。
ノエルは、母が教えてくれた村の名前が心に浮かぶ。その、世界で一番大切な故郷の名前を、はっきりと告げた。
「…白沢村です。私の村は、白沢村といいます」
「しろさわ…?」
背後で、若い団員の戸惑う声がした。
「ロルフさん、そんな名前の開拓村、ありましたっけ…? 書類上だと、辺境第七…」
「馬鹿者! 少し黙っていろ!」
ロルフが、鋭く若い団員を叱責する。そして、すぐに優しい顔に戻ると、ノエルに向き直った。
「そうか、白沢村か。良い響きの村だな。…じゃあ、親御さんの名前は、聞いてもいいかな?」
「…父は、セド、と」
「セドだって!?」
黙っていろと言われたばかりの若い団員が、目を丸くして駆け寄ってきた。
「おい、まさか、あのセドさんか!? いつも街に木材を卸しに来てくれてた、あの! 片腕なのに、俺たちなんかよりずっと力持ちで、いっつもニコニコしてた、西の森の村の!」
西の森の村。行商の人たちが、そう呼んでいるのは聞いたことがあった。
でも、それよりも、父がこの街の人たちから、こんなにも慕われていたという事実が、ノエルの心に、小さな、しかし確かな誇りの灯をともした。
「はい。セドの娘です」
彼女は、少しだけ、胸を張って言った。
「そうか、そうか…!」
若い団員は、興奮したように続けた。
「行商人から、村が襲われたって聞いた時は、どうなることかと思ったけど…。生き残りがいたなんて、本当に…!」
生き残り。
その、無邪気で、しかし残酷な言葉が、ノエルの思考を、一瞬で凍りつかせた。
(…やっぱり、間違いじゃなかった。村は、襲われたんだ。生き残り? じゃあ、死んでしまった人たちがいるの? たくさん? お父様は? お母様は? クレアお姉ちゃんは…?)
ぐるぐると、最悪の想像が、頭の中を駆け巡る。
巡る思考の果てに、ノエルは、震える声で、最初の問いを発した。
「……私の、他に。生き残った人は、いますか…?」
その瞳に宿った、必死の色。ロルフは、その視線に、言葉を詰まらせた。若い団員は、気まずそうに顔をそむける。
その沈黙が、何よりの答えだった。
「…何人か、森へ逃げ込んだ者がいる、という話は聞いている」
やがて、ロルフが、言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。
「だが、あんたの両親のことは…すまんが、分からない。領軍も、まだ動いちゃいねえ。誰も、あの村の惨状を、確かめに行けてないんだ」
誰も、助けに行かない。
ノエルの瞳から、光が消えた。血の気が引き、握りしめた器が、カタカタと震える。
「……お姉ちゃんは」
最後の、最後の望みを、絞り出す。
「私より、少し年上の…姉が、一緒でした。ここには、来ていませんか…?」
「姉さん、か…。いや…」
ロルフは、痛ましげに首を横に振った。
「この街にたどり着いたのは、今のところ、お前さんが初めてだ」
ぷつり、と。
ノエルの心の中で、かろうじて繋がっていた最後の糸が、音を立てて切れた。
「…いや」
約束したんだ。街で会おうって。
何かあったんだ。追っ手に見つかった? 道に迷った?
私が、探しに行かなきゃ。
今すぐ。
「私が、探しに…!」
ノエルは、衝動的にベッドから飛び降りた。しかし、その足は、もはや彼女の意志に応えなかった。膝が、がくりと折れる。床に崩れ落ちる寸前、隊長の太い腕が、彼女の体を力強く、しかし優しく、支えた。
「無茶するな! お前さんのその体で、何ができるってんだ!」
厳しい、しかし、心の底から心配している声。
ノエルは、再びベッドに寝かされると、ただ、声を殺して泣いた。悔しさと、無力さと、どうしようもない絶望に、肩を震わせた。
**
どれくらい、時間が経っただろうか。
詰所の扉が再び開き、先ほどの若い団員が、一枚の羊皮紙を手に、気まずそうに入ってきた。
「…代官様からです。西の森の村の件は、職能ギルドに調査依頼を出す、と。それで、この子については…」
ロルフは、その羊皮紙を受け取ると、そこに書かれた、冷たいインクの文字に、静かに目を通した。そして、ため息とも、諦めともつかない息を、深く、長く、吐き出した。
彼は、落ち着きを取り戻したノエルに向き直ると、その羊皮紙を、そっと彼女の前に置いた。
そこには、飾り気のない、事務的な筆跡で、ただ一言だけ、こう書かれていた。
――当該の少女に対し、ニューログレインでの居住を許可する。
それは、善意ではなかった。
「お前の問題に、行政はこれ以上関与しない」という、冷徹な突き放しだった。
ノエルは、自分が「保護されるべき子供」ではなく、この街に放り出された、ただの寄る辺ない個人であることを、その一枚の紙切れから、痛いほど理解した。
「……これから、行くあては、あるか?」
ロルフが、静かに言った。
「街の教会に行けば、孤児院がある。だが、あそこに入れるのは、15になるまでだ。あんたは、もう、ぎりぎりだ。それに、街で仕事を探すにしても、木工の職人も、商会の使い走りも、ほとんどは身内や知り合いの紹介で決まっちまう。あんたみたいな、係累のない子供には、仕事なんざ、まず回ってこねえ」
社会の、冷たい現実。
全ての選択肢が、目の前で、一つ、また一つと、消えていく。
「…あとは」
ロルフは、少しだけ、言うのをためらった。
「…あとは、職能ギルドに登録する、という手もある。あそこは、実力さえありゃあ、どんな奴でも受け入れてくれる。だが、お前さんのような少女が、一人でやっていけるほど、甘い世界じゃねえ」
その言葉を聞いた瞬間、絶望の闇に沈んでいたノエルの脳裏で、何かが、カチリと音を立てて繋がった。
衝動に任せていた心に、あの、冷徹な思考が戻ってくる。
彼女は、懐の、木彫りの人形を、強く握りしめた。
――『迷ったら、任務に立ち返れ』
(私の、任務は…? お姉ちゃんと、再会すること)
(そのためには、何が必要? …情報だ。森の、そして、お姉ちゃんの、正確な情報)
(私一人が森に戻っても、得られる情報は限られている。でも、そこには、たくさんの人たちがいて、日々、森の情報が集まってくる。そこにアクセスできれば…)
(孤児院でも、街の仕事でも、それは叶わない。私に残された道は、一つだけ)
ノエルは、顔を上げた。
その黒い瞳には、もはや涙も、迷いもなかった。
そこにあるのは、自らの運命を、自らの意志で選択する、進むべき道を決めた少女の、静かな覚悟だけだった。
「ロルフさん」
彼女は、驚くほど、はっきりとした声で言った。
「職能ギルドに、連れて行ってください」
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