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第13話:限界と、意識の芽

 あれは、嘘だったのかもしれない。

 姉が残してくれた、木彫りの人形。動物たちがくれた、ささやかな祝福。

 全ては、疲労が見せた、都合のいい幻だったのかもしれない。


 ノエルは、そう思い始めていた。


「リスの住む大きな木」を出てから、丸一日以上が過ぎていた。次の集合点である「黄色の花畑」を目指していたが、もはや自分がどこを歩いているのかさえ、定かではなかった。


 常に追っ手の気配を警戒し、少しでも危険を感じれば、大きく迂回した。子供の足なら半日もかからないはずの、慣れ親しんだ森の道。それを、彼女はほぼ二日かけて、ようやく進んできたのだ。


 服は、泥と朝露に濡れそぼり、尖った枝に引っかけた無数の裂け目が、痛々しく口を開いている。岩場で滑って捻った足首は、熱を持ってずきずきと痛み、もうまともに歩くことすらできない。引きずるようにして、ただ、一歩、また一歩と、機械的に足を前に運ぶだけだった。


 いつからだろう。傷口に治癒の光を当てることすら、忘れてしまっていたのは。


 自分の精神が、肉体の悲鳴に追いつけなくなっている。魂に宿るはずの、あの冷徹な知識の声も、今はもう、何も聞こえない。まるで、弱り切った心の奥底で、固く扉を閉ざしてしまったかのように。


 そして、ついに、最後の集合地点である「黄色の花畑」にたどり着いた。


 しかし、そこに広がっていたのは、夏の日の思い出の中にあるような、生命力に満ちた光景ではなかった。


 季節は、冬へと向かっている。花はとうに枯れ落ち、茶色く変色した茎と葉が、力なく地面に横たわっているだけだった。

 その、あまりにも寂しい光景は、今のノエルの心を、そのまま映しているかのようだった。


 森は、死んだように静まり返っている。

 姉の痕跡は、どこにもない。

 ああ、もう、だめだ。


 自分でも気づかないうちに、高熱に侵された体が、限界を告げていた。常に自信のあった体力さえも、容赦なく吸い取られていく。


 ぷつり、と。

 張り詰めていた意識の糸が、音を立てて切れた。


 彼女の小さな体は、枯れた花畑の真ん中に、抗うこともなく、静かに、ゆっくりと倒れ込んでいった。


 **


 ―――どこだ、ここは。


 ふと、視界が変わる。自分の体を見下ろしているような、奇妙な浮遊感。


 泥と、汗と、鉄の匂い。


 目の前には、自分と同じように泥にまみれた、若い兵士たちの姿があった。誰もが、絶望と疲労の色を、その顔に深く刻んでいる。


 季節は、冬の始まり。枯れた木々が、陰鬱な空を背景に、まるで墓標のように立ち並んでいた。


 ああ、これは、夢だ。

 でも、自分の夢じゃない。


 視線の持ち主は、目の前でうなだれる、若い兵隊に、静かに、しかし、腹の底に響くような声で言った。


「貴官の判断ミスで、部隊は孤立した。小隊長が『迷って』いる、その一瞬が、部下全員の命を奪うのだと、何度言ったら分かる」


 その声には、ただの叱責ではない、何か、焼け付くような熱いものが含まれていた。部下の命を預かる者としての、厳しさ。そして、この若い小隊長と呼ばれた者を、ここで潰してしまいたくないという、父親のような、不器用な優しさ。


 その、不思議な情熱が、まるで自分の感情であるかのように、ノエルの心に流れ込んでくる。


「忘れたか、我々の鉄則を!」

 声が、少しだけ大きくなる。


「『迷ったら、任務に立ち返れ』!」


「貴官の任務はなんだ! 答えろ!」


 小隊長は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、叫んだ。


「……て、敵部隊の無力化と、生存者の、確実な帰還であります……!」

「そうだ」

 声の主は、静かに頷いた。


「そうだ。そして、その任務の先には、お前たちの帰りを待つ者たちがいる。後方の仲間、その家族、恋人……。お前がここで諦めれば、その全てを悲しませることになる。我々の一歩は、常に誰かの未来に繋がっていることを忘れるな」


 そうだ。考えろ。

 諦めるな。

 お前の意志で、未来を選べ。


 これは、誰の思いなのか。

 意思とは何か。私は、誰か。

 分からない。でも、ただ一つだけ、分かることがある。


 この人も、私も。

 きっと、同じ思いで、戦っている。

 大切な何かを、守りたい。ただ、その一心で。


 **


 目を覚ますと、灰色の空が、すぐそこにあった。

 頬を、何か、生温かいものが伝っていく。

 自分の、涙だった。


 あれは、誰だったんだろう。あの、厳しい声の主は。

 でも、あの人は、私と同じだった。守りたいもののために、戦っていた。

 夢の中の小隊長の涙か、それとも、あの声の主の涙か。分からない。でも、もう、どうでもよかった。


 これは、きっと、私の涙だ。私も、諦めかけていたから。


 懐の、木彫りの人形を、ぎゅっと握りしめる。

 私は、まだ、諦めてない。


 その思いが固まった時、ノエルは、初めて、顔を上げて、周りの世界を見た。

 そして、はっと息をのんだ。


 さっきまでとは、世界が、全く違って見えたのだ。


 枯れ果てていると思っていた花畑。よく見れば、その根元には、来年の春に備える、新しい芽が、健気に息づいている。


 死んだように静まり返っていた森。耳を澄ませば、遠くで、鳥のさえずりや、小川のせせらぎが聞こえる。


 弱い心では気づけなかったものが、強い心では、確かな「情報」として、頭の中に入ってくる。


 私は誰か。

 その問いの意味は、まだ分からない。

 でも、私が何をすべきか。その答えは、もう、分かっていた。


「……止まっていては、いけない。前へ、進まなければ」


 その決意が、世界に色を取り戻させた。

 それは、冬の寒々しい色ではない。ノエルの心に灯った、希望の色彩だった。


 もう、迷わない。

 この記憶が、誰のものであっても構わない。これは、私を助けてくれる、大切な知識だ。


 私は、一歩でも、前へ進む。

 お姉ちゃんに、会うために。


 それからのノエルの行動は、驚くほど効率的だった。

 まず、熱を下げ、体力を回復させる。


「この熱と悪寒には、解熱作用のあるシラハギの根と、体を温めるショウガ草の茎を煎じたものが有効なはずだ」。明確な知識に基づいて、彼女は薬草を探し当てた。


 思い出したように、自らの手に治癒の光を灯す。その光は、以前よりも、少しだけ、強く、そして温かく感じられた。


 火を起こす。体力を消耗する生活魔法は使わない。ポケットに入れておいた、硬い石英のかけらと、ベルトの鉄の金具を打ち付ける。教えられた通りに、乾いた苔に火花を移し、小さな、しかし確かな火を熾した。


 栄養のある葛の根を掘り出し、スープを作る。

 温かいスープが、冷え切った体に、じんわりと染み渡っていく。


 私は、この知識と、一緒に生きる。


 **


 数日後。

 完全に回復し、その黒い瞳にかつてないほどの強い意志と覚悟を宿した彼女は、ついに、森の出口にたどり着いた。


 木々の隙間から、朝日の中に浮かび上がる、地平線と一体になった、黒い線のようなものが見えた。


(あれは…壁? 人が、作ったもの…?)


 期待に胸を膨らませ、荒野へと足を踏み出すと、そこには、多くの人や馬車が通ったことで踏み固められた、一本の確かな『街道』が、その黒い線へと向かって伸びていた。

 久しぶりに見る「人の痕跡」に、安堵の息が漏れる。


 街道を歩き始めると、やがて、整然と区画整理された『畑』が見えてきた。そこには、収穫を終えた作物の残骸や、土を耕した跡が残っている。

 それは、紛れもない、人々の『生活の証』だった。父も、母も、クレアも、村のみんなが、こうして土と共に生きていた。その温かい記憶が、彼女の心にじんわりと広がっていく。


 街が近づくにつれ、人々の喧騒が、風に乗って微かに聞こえ始める。馬のいななき、荷車のきしむ音、そして、誰かの笑い声。故郷を失ってから初めて聞く、人の営みの音だった。


 そして、彼女の目に、ついに街の全体像が映った。

 それは、村しか知らず過ごしてきたノエルが想像していたよりも、ずっと大きな街だった。実際は王都のように洗練されてはいない。しかしノエルの目は、そこに生きる人々の、力強い活気を見ていた。


 街は、ぐるりと壁に囲まれている。それは、立派な石だけで造られたものではなく、石と、太い丸太を組み合わせた、どこか武骨で、つぎはぎだらけの壁だった。壁そのものは薄く、兵士が上を歩けるような通路はない。しかし、等間隔に建てられた物見櫓の上には、弓を持った兵士の姿が見え、この街が常に外部の脅威に備えていることを示していた。


 門へと続く道には、多くの人々が行き交っている。荷を積んだ馬車を引く商人。収穫物を街へ売りに来たのであろう、日に焼けた顔の農夫。腰に剣を下げた、旅人らしき男たち。

 彼らの服装は様々で、誰もが、それぞれの生活のために、必死に、そして力強く生きている。


 ノエルの目に映るのは、ただの街ではない。それは、人々の『生活感』と『息吹』そのものだった。故郷を失ってから初めて触れる、文明の温かさ。一人ではない、という感覚。


 彼女の心は、安堵と、これから始まる新たな生活への期待と不安で、いっぱになる。


 ボロボロの衣服を纏い、顔には泥と煤がついているが、その口元には、確かな安堵の笑みが浮かんでいた。十五歳になったばかりの少女は、自らの足で、自らの意志で、新たな出発点となる街の門へと、最後の一歩を踏み出す。


 門を守る衛兵が、彼女の異様な姿と、その場に不釣り合いな笑顔に気づき、訝しげな表情で声をかける。


「おい?…どうした……!」


 その、久しぶりに向けられた、人間からの直接的な言葉。その瞬間、故郷を失ってからずっと張り詰めていた、彼女の心と体の緊張の糸が、ぷつりと、音を立てて切れた。


 視界が、ぐにゃりと歪む。衛兵の驚く声が、遠くに聞こえる。

 ノエルは、膝から崩れ落ちるように、その場に意識を手放した。彼女の薄れゆく意識の中に最後に残ったのは、故郷の村とは違う、石と土の、硬い地面の匂いだった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

そして第四章まで終了です!


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