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第12話:ひとりの誕生日と、動物たちの祝福

 冷たい湧水の沢で姉との無言の約束を交わしてから、半日ほどが過ぎていた。


 森は、すっかり冬の始まりを告げる空気に満ちている。豊かな緑を誇っていた木々の葉はほとんど落ち、今はただ、寒々しい枝が空に向かって伸びているだけだ。

 地面を覆う落ち葉を踏みしめる、かさ、かさ、という乾いた音だけが、ノエルの孤独な足音に寄り添っていた。


 沢から次の集合点である「リスの住む大きな木」までは、子供の足でも半日とかからない、慣れ親しんだ道だ。疲れるほどの距離ではない。

 しかし、一人で歩くには、その道のりは、あまりにも長く、そして静かすぎた。


(お姉ちゃんなら、ここで何て言うかな)


(この木の実、お姉ちゃんも好きだったな。でも、こっちの赤いのは、酸っぱいから嫌いだって言ってた)


 ふとした瞬間に、クレアとの温かい思い出が蘇り、そのたびに、ノエルの足取りは少しだけ重くなった。


 一人でいることには、もう慣れなければならない。だが、孤独に慣れることだけは、どうしてもできそうになかった。


 昼過ぎ。視界の開けた先に、ひときわ大きく、枝を広げた樫の木が見えた。間違いない。第二の集合点、「リスの住む大きな木」だ。

 ノエルの心に、淡い期待が灯る。今度こそ、姉さんが待っていてくれるかもしれない。

 しかし、その期待は、木に近づくにつれて、冷たい不安へと変わっていった。


 そこに姉の姿はなかった。

 誰かが待っていた痕跡も、新しい焚き火の跡も、何も、ない。


 ああ、また、だめだった。

 心が、ずしりと重くなる。ノエルは、木の根元に、とぼとぼと力なく座り込んだ。

 空を見上げる。灰色の雲が、太陽の光を遮り、世界はどこまでも寒々しい。


 その時、ふと、彼女は思い出した。

 去年の、収穫祭が終わって、少し寒くなってきた頃のこと。


**


(……そういえば、そろそろ、私も十五歳になるんだ)


 この国では、もう、大人の仲間入りをする歳。


 その言葉の響きとは裏腹に、ノエルの心は、冷たい風に吹かれるように、寂しさでいっぱいになった。


 脳裏に、去年の、家族みんなで祝ってくれた光景が、あまりにも鮮やかに蘇る。


 ―――


 収穫祭が終わって一月ほど経った、ある日の食卓。


 そこには、少し不格好だけど、木の実と蜂蜜で甘く飾られた、小さなケーキが置かれていた。クレアと母さんが、二人でこしらえてくれた、特別なケーキ。


 父さんが「ノエル、もうそんな歳か」と目を細め、母さんが「さあ、みんなで食べましょう」と優しく微笑む。クレアは「今年は、去年より上手に焼けたのよ」と、少し得意げな顔をしていた。


 家族みんなに囲まれた、温かくて、甘い、幸せな一日。


 ―――


「……うっ」


 もう、二度と戻らない光景。


 その、あまりにも幸せな記憶が、ノエルの心の最後の砦を、いとも簡単に打ち砕いた。

 こらえきれない嗚咽が、喉から漏れる。


「……ううっ、……ひっく……」


 世界でたった一人、この森の中で、誰にも知られることなく、大人になろうとしている。

 その、どうしようもない寂しさと悲しさに、彼女は、ただ子供のように、声を殺して泣いた。


 しかし、その涙は、長くは続かなかった。

 彼女は、自分の涙で濡れた手を、ごしごしと乱暴に拭う。


「……ううん、泣いてる場合じゃ、ない」


 その声は、まだ震えていた。でも、その奥には、新しい決意の色が、確かに宿っていた。


「もうすぐ、十五歳。もう、大人だ。これからは……私が、お姉ちゃんを助ける番なんだから。……しっかり、しなくちゃ」


 誕生日という、子供から大人への境界線。

 それが、彼女に感傷に浸ることを許さず、前を向くための、力強い意志を芽生えさせたのだ。


**


 顔を上げたノエルは、気持ちを切り替えるように、改めて木の周辺を冷静に観察し始めた。


「お姉ちゃん、何か、痕跡を残してくれていないかな……」


 希望を胸に、彼女は、木の周りをゆっくりと歩く。そして、ある場所で足を止めた。

 木の根元、一番大きなうろ。

 一見、何の変哲もない、ただの木の穴だ。


 しかし、ノエルは知っていた。

 まだ幼い頃、クレアと二人で、この木でよく遊んだ。

 その時、二人だけの「宝物」――綺麗な鳥の羽根や、変わった形の石ころ――を、このうろの中に隠していたのだ。


「ここなら、他の子には絶対に見つからないわ。私たちだけの、秘密の宝箱よ」

 そう言って笑った、姉の顔を思い出す。


(お姉ちゃんがここに来たなら、きっとここに何かを残すはず。ただの木のうろにしか見えなくても、私にだけは「ここを見て」って伝わる、二人だけの暗号なんだ……!)


 ノエルは、震える手で、うろの中にそっと手を入れた。


 指先に、硬くて、冷たい木の葉とは違う、何か、滑らかな感触が触れる。

 木の葉に、丁寧に、何重にも包まれた、小さな何か。


 ゆっくりと、それを取り出す。

 包みを開いた瞬間、ノエルの時間が、止まった。


 そこにあったのは、見覚えのある、小さな木彫りの人形だった。

 かつて、ノエルが病気で寝込んだ時、クレアが、退屈しないようにと、夜なべして彫ってくれた、不格好な、兎の人形。

 その背中には、二人の名前の頭文字が、小さく、しかし確かに、刻まれている。


「お姉ちゃん……!」


 その人形を、ぎゅっと、胸に抱きしめる。

 姉の温もりが、まだ、そこに残っているような気がした。


「お姉ちゃん……! ここに、来てたんだね! よかった……!」


 姉が生きていると、信じていた。でも、こうして確かな「証」を手にすると、安堵と、喜びと、そして、今までの寂しさの全てが、再び涙となって溢れ出した。


 でも、それは、さっきまでの悲しい涙とは違った。温かくて、しょっぱくて、そして、心の底から嬉しい、幸せな涙だった。


 その時、カサリ、と近くで音がした。

 はっと顔を上げると、一匹のリスが、すぐそばの枝から、くりくりとした黒い瞳で、こちらを見つめていた。その頬は、冬に備えて集めた木の実で、パンパンに膨らんでいる。


 ノエルが動かずにいると、リスは警戒を解いたのか、ちょこちょこと彼女の足元まで下りてきて、まるで「よかったね」とでも言うかのように、小さな鼻をひくつかせた。


 見れば、木の周りには、リスだけでなく、普段なら森の奥深くにいるはずの、臆病な角うさぎや、森ネズミたちが、不自然なほどたくさん集まってきている。

 まるで、この「宝物」を、みんなで守っていてくれたみたいだ。


「……ありがとう。みんな」


 ノエルが、涙声でそう呟いた、その時。

 その言葉を合図にしたかのように、動物たちは、静かに森の奥へと散っていった。


 最後に、一羽の角うさぎだけが、こちらを一度だけ振り返り、そして、闇の中へと消えていく。


 それは、まるで、動物たちがくれた、ささやかな「祝福」のようだった。


**


 一人になったノエルは、改めて人形の周りの地面を、注意深く観察した。

 喜びで我を忘れていたが、そこには、確かな情報が残されていた。


 姉の足跡。そして、それを追うように残された、複数の、硬い軍靴の跡。

 しかし、奇妙なことに、敵兵の足跡は、この木の少し手前で、まるで何かを恐れるように不自然に途絶え、引き返していた。


 そして、その先。

 クレアの足跡と、常に一定の距離を保ちながら並走するように、もう一つ、別の足跡が続いている。

 それは、敵兵の重い軍靴の跡とは全く違う。ほとんど地面に跡を残さない、驚くほど軽やかで、洗練された足運び。


(お姉ちゃんは、生きてる。でも、誰かと一緒……? 敵じゃないみたいだけど……一体、誰と…?)


 希望と、新たな、そしてより大きな謎。


 その時、ノエルはふと、先ほどの光景に、ある違和感を覚えていたことに気づいた。


(でも、何で、あんなにたくさんの動物たちが、ここに集まっていたんだろう……。本来、縄張りも違う生き物たちが、あんなに近くに。なんだか、嫌な感じがする……)


 その素朴な疑問が、彼女の魂の知識の扉を、静かにノックする。

 頭の中に、この森の、巨大な地図が広がる。動物たちの、本来の生息域が、色分けされるように認識される。


(みんな、南の方角を警戒していた。南……あの、魔物の森の方角から、何か、すごく大きくて、怖いものが、近づいてきてるのかもしれない……)


 それは、もはや分析ではない。年相応の、子供じみた直感。

 しかし、その直感は、恐ろしいほどの確信を伴って、彼女の心を震わせた。


 ノエルは、力強く立ち上がった。

 その表情には、もう子供の面影はない。


(お姉ちゃんは、生きてる。でも、ぐずぐずしていられない。この森に、何か、とてつもなく悪いことが起ころうとしている)


 一刻も早く、街へ。

 情報を集め、態勢を立て直さなければ。


 希望と、新たな危機感を胸に、ノエルは、人形を懐にしまい、しっかりと前を見据える。

 空は、いつの間にか厚い鉛色の雲に覆われ始めていた。


 冬の始まりを告げる冷たい風が、容赦なく、彼女の小さな体を叩きつけていた。

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