第11話:冷たい水と、空っぽの隙間
いつも応援ありがとうございます。
【新章開始】です。
ここから、物語は大きく動き出しますので、ぜひお見逃しなく!
≪心の準備のお願い≫
本日のお話は、登場人物にとって、少し辛い展開となります。
お読みになる際は、どうかご無理なさらないでくださいね。
※【鬱展開】を含みます。
夜通し、走り続けた。
木の根に足を取られ、何度転んだか分からない。枯れ枝が頬を掠め、細い血の筋が滲む。肺は張り裂けそうで、足はとうに感覚を失い、ただ前に進むためだけの棒になっていた。
それでも、ノエルは走り続けた。
東の空が白み始め、夜の闇が深い藍色へと溶けていく頃。ようやく、彼女は最初の合流地点である「冷たい湧水の沢」にたどり着いた。
疲労は限界を超え、精神は、まるで薄いガラスのように、今にも砕け散ってしまいそうだった。
でも、大丈夫。
姉と約束した、思い出の場所。ここまで、来られたのだから。
(お姉ちゃんも、もうすぐここに来るはず)
その、たった一つの希望だけが、彼女の意識をかろうじて繋ぎとめていた。
沢のほとり、姉とよく寄りかかって話をした大きな岩の陰に、彼女は倒れ込むように身を横たえる。冷たい苔の感触が、火照った体を心地よく冷やしてくれた。
そして、まるで糸が切れた人形のように、気を失うように、深い眠りに落ちていった。
**
目を覚ますと、木々の隙間から差し込む昼下がりの陽光が、優しく瞼を照らしていた。
どれくらい眠っていたのだろう。体中の筋肉が、悲鳴を上げている。
喉が、焼けつくように渇いていた。
ノエルは、おぼつかない足取りで沢へと近づくと、その透き通った流れに、そっと両手を浸した。
突き刺すような、水の冷たさ。
その瞬間、彼女の脳裏に、ある夏の日の記憶が、鮮やかに蘇った。
――まだ幼い頃、ここで姉と夢中で水遊びをした。太陽の光を浴びて、きらきらと輝く水しぶき。はしゃぐ自分を、クレアが優しい笑顔で見守っている。
『この沢の水、冷たくて気持ちいいね、お姉ちゃん!』
『ええ、でも風邪をひかないようにね、ノエル』
あの時の水は、火照った肌を心地よく冷やしてくれる、ただただ楽しい「遊び道具」だった。
だが、今、この手の中にある水は、どうだ。
同じ場所、同じ沢の水のはずなのに、それは心を芯から凍らせるような、痛いほどの冷たさで、ノエルの肌を、そして心を、容赦なく刺してくる。
隣に、いない。
手を伸ばせば、いつでもそこに触れられたはずの、温かい存在が。
世界から、姉の色だけが、すっぽりと抜け落ちてしまっている。
そこにあるのは、どうしようもなく広くて、冷たいだけの、空っぽの隙間。
その、絶対的な喪失感を前に、ずっとこらえていた涙が、堰を切ったように溢れ出した。
声を殺し、一人で泣きじゃくる。嗚咽が漏れないように、自分の腕を強く噛んだ。
姉に会いたい。ただ、それだけだった。
**
どれくらい泣き続けたのか、涙が枯れる頃、ノエルは、はっと顔を上げた。
「……ううん、泣いてる場合じゃない。お姉ちゃんだって、きっと、ここを目指して必死に走ってるんだから」
彼女は、自らを奮い立たせるように、強く、そう呟いた。
それからの一日は、ひたすらに、期待と不安の繰り返しだった。
(もう、あの森の角を曲がったら、お姉ちゃんが姿を見せるかもしれない)
そう思っては、じっと道の先を見つめる。
(もし、追っ手に見つかって、別の道を通っていたら?)
そう考えると、胸が締め付けられそうになる。
(もし、私が先に来すぎていて、お姉ちゃんが来るのは、もっとずっと後だったら?)
だとしたら、ここで辛抱強く待っていなければ。
(もし、来なかったら……?)
その最悪の可能性を、彼女は必死に頭から追い払った。
「ここで動いたら、すれ違ってしまうかもしれない」
その、あまりにも切実な祈りが、彼女の足を、その場に縫い付けていた。
戦術的には、非合理的極まりない行動。しかし、姉を待つ14歳の少女にとって、それは、できることの全てだった。
陽が傾き、森の影が長く伸び、やがて世界が再び夜の闇に包まれていく。
その、動けない時間の中で、しかし、ノエルの魂に宿る「知識」だけは、冷徹に、無意識に、周囲の状況を分析し続けていた。
**
月が中天に昇り、クレアが来ないことを、完全に悟る。
心が、再び冷たい絶望に沈みそうになる。
だが、その瞬間、昼間、動けずにいた間に集めていた、たくさんの「情報」が、彼女の頭の中で、一つの結論を形作っていた。
(森の入り口のほうは、鳥の声がずっと騒がしかった。でも、この森の奥は、静かなまま。獣たちも、南のほうを避けて、みんな北へ向かっている気がする……。追っ手は、まだ、森の深くまで入ってきていない。そして、何か、もっと大きなものが、南から近づいている……?)
拙い、少女の言葉による、しかし、あまりにも的確な状況分析。
その結論が、彼女の心を、絶望の淵から引き上げた。
「……待っているだけじゃ、ダメだ」
ノエルは、静かに、しかし、力強く立ち上がった。
「私が、お姉ちゃんを見つけに行かなくちゃ」
彼女は、自らの腰に結ばれていた、黒髪をまとめるためのリボンを解くと、それを、あの思い出の岩に、固く、固く、結びつけた。
後から来た姉が、必ず気づけるように。風や雨でも解けないように。
脳裏に蘇るのは、昨日の姉の姿。
あの時、姉は「私は大丈夫よ」という想いを込めて、リボンを結んだ。
今、ノエルがこのリボンに込めるのは、その逆の、しかし、同じ想い。
(お姉ちゃん、私は先に行くね。だから、あなたも、必ず来て)
それは、もう、ただ待つだけの子供ではないという決別の儀式。これからは、私が探し出すのだという、未来への、そして姉への、無言の誓いだった。
最初の希望は、空振りに終わった。
しかし、彼女の黒い瞳には、もはや感傷の色はない。
次の合流地点、「リスの住む大きな木」を目指し、冷たい月明かりの下、闇に包まれた森へと、決意に満ちた、力強い一歩を踏み出す。
ノエルの、孤独な旅が、今、本当に始まった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ここから第四章「旅路」が始まります。
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