第10話:繋いだ手と、離れえぬ心
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≪心の準備のお願い≫
本日のお話は、登場人物にとって、少し辛い展開となります。
お読みになる際は、どうかご無理なさらないでくださいね。
※【鬱展開】を含みます。
思考する猶予は、一秒もなかった。
丘の麓、木立の隙間から敵兵の斥候が姿を現したのを認めた瞬間、ノエルとクレアは、まるで一つの生き物であるかのように、同時に駆け出していた。
どちらが指示したわけでもない。ただ、互いの瞳に宿った、同じ色の覚悟が、二人を動かしていた。
ノエルが、一瞬だけ先行する。
彼女の視線は、眼前に広がる森の地形を、まるで一枚の地図のように読み解いていた。
右手の岩場は足場が悪い、左手の斜面は身を隠しやすいが速度が落ちる。ならば、選ぶべき道は一つ。中央を真っ直ぐに、しかし追っ手の視線を遮る木々を縫うように抜けていく、獣道ですらない最短ルート。
クレアは、そんな妹の背中を、完璧な信頼をもって追いかける。
彼女の役割は、ノエルが示した道筋の中から、さらに最適解を導き出すことだった。ノエルの直感的なルート選択に対し、クレアは自らの経験と知識で「なぜ、その道が最適なのか」を瞬時に理解し、補強していく。
(あそこの下草は露で濡れている。踏めば音が立ちにくい。三本目の樫の木を越えれば、小川のせせらぎが私たちの足音を掻き消してくれるはず)
それは、まさに熟練した遊撃部隊の動きだった。
戦術を本能で理解する妹と、その意図を論理で補強する姉。四年間、言葉にはせずとも互いの思考を探り合い、寄り添い続けてきた姉妹だからこそ可能な、奇跡の連携。
後方から聞こえる追っ手の怒鳴り声が、徐々に、しかし確実に遠のいていく。
いける。この二人でなら、きっと、どこまでだって逃げられる。
ノエルの胸に、そんな熱い確信が芽生え始めていた。姉の手を強く握る。その温もりが、恐怖を溶かしていく。
その、安堵と希望が生まれた、まさにその時だった。
「……っ!」
すぐ後ろを走っていたクレアの足が、不自然にもつれる。彼女は、咄嗟に木の幹に手をついて、かろうじて転倒を免れた。
「お姉ちゃん!?」
「大丈夫……少し、足が……」
その声は、気丈に振る舞ってはいるものの、明らかに痛みをこらえている色をしていた。
納屋での攻防で負った、足の怪我。治癒魔法で応急処置はしたものの、休む間もない逃走で、その傷が限界を訴え始めていたのだ。
追っ手の声が、再び、少しだけ近づいてくる。
クレアの額に、脂汗が滲む。ノエルの心臓が、嫌な音を立てて脈打った。
二人の連携という完璧な歯車に、現実という名の、たった一つの砂粒が噛み込んだ瞬間だった。
**
川辺の、深い茂みの中に、二人は身を潜めていた。
クレアの的確な判断だった。これ以上の逃走は、傷の悪化を招き、結果的に二人とも捕まる。ならば、一度完璧に潜伏し、追っ手の第一波をやり過ごすのが最善策。
ノエルも、その判断に異論はなかった。
湿った土の匂いと、腐葉土の匂いが混じり合う。すぐそばを流れる小川の音が、心臓の鼓動を隠してくれる。二人は、身を寄せ合い、呼吸すらも殺して、ひたすらに闇に溶け込んでいた。
やがて、ブーツが土を踏む、無機質な音が近づいてくる。二人、いや、三人のようだ。
姉妹は、互いの手を、さらに強く握りしめた。
「ちっ、どこ行きやがった。面倒な真似させやがって」
すぐ近くで、吐き捨てるような男の声がした。
「まあ、焦るなよ。どうせ、あの化け物の『目』からは逃げられんさ。時間の問題だ」
別の男が、嘲るように答える。その声には、敬意など微塵もなく、むしろ自分たちとは違う存在への、明確な蔑みが含まれていた。
ノエルは息をのんだ。化け物、という言葉が、胸に冷たく突き刺さる。
クレアは、そんな妹の肩を、そっと抱き寄せた。
「それよりよぉ」最初の男が、下卑た声で続ける。
「上の連中は、なんでこんな辺鄙な村一つに、あの魔族野郎まで投入して、ここまで徹底的に『掃除』させたがるんだかね。意味が分からん」
「知るかよ。なんでも、昔、この辺りでウチの国の連中が、別の傭兵団に酷い目に遭わされたとかいう因縁があるらしいぜ。その報復なんじゃねえの」
「へぇ…。まあ、どうでもいいが、命令は『若い女は生け捕り』だ。特に黒髪のほうは、傷一つ付けるなとのご達しらしいからな。見つけたら、手柄は山分けだぜ、忘れるなよ」
「おうよ。しかし、なんでまたそんな子供を? 大方、例の五年前の事件でウチの傭兵どもを壊滅させたっていう、森の民の生き残りじゃねえのか? 見た目も、それっぽいしな」
「さあな。俺たちにゃ関係ねえ。とにかく、黒髪の小娘を捕らえれば、このクソみてえな任務も終わりだ」
男たちの足音が、遠ざかっていく。
しかし、姉妹の世界は、もはや元の静けさには戻らなかった。
茂みの中の暗闇は、先程よりも、比較にならないほど深く、そして冷たく、二人を包み込んでいた。
ノエルは、全身が震えるのを、必死で抑えていた。
黒髪のほう。それは、間違いなく自分のことだ。
私が、狙われている。
五年前の事件? 森の民? 何も分からない。でも、たった一つだけ、残酷なほどに明確な事実が、彼女の頭脳を貫いていた。
(私が、いるから。私が、お姉ちゃんと一緒にいるから、お姉ちゃんが、危険に晒されている)
クレアもまた、同じ真実にたどり着いていた。彼女は、震える妹の背中を、ただ、強く抱きしめることしかできない。
自分の足の痛みが、妹を標的とする敵の存在が、二人が共に生き延びるという、たった一つの希望を、無慈悲に打ち砕いていく。
**
敵兵が完全に遠ざかり、森に再び静寂が戻った時。
その静寂は、もはや安らぎではなく、決断を迫る、重苦しい沈黙となっていた。
先に口を開いたのは、ノエルだった。その声は、震えてはいたが、驚くほど冷静な響きを帯びていた。
「……お姉ちゃん。私、一人で行く」
ノエルの頭脳は、既に結論を導き出していた。彼女の魂に宿る『知識』が、冷徹に最適解を弾き出していた。
(敵の標的は、私。ならば、私が囮となることで、お姉ちゃんの生存確率は飛躍的に向上する。私の持久力と、この森の知識があれば、単独での撹乱行動は可能。二人で行動を続けた場合の生存確率は、極めて低い。論理的な最適解は、分離すること…)
だが、その冷たい論理に、心が悲鳴を上げていた。
(でも、そんなこと…! お姉ちゃんを、一人になんて、できるわけないじゃないか…!)
そんな妹の葛藤を、全て見透かしたかのように、クレアが、静かに、しかし、有無を言わせぬ強い意志で口を開いた。
「ノエル。行きなさい」
「いやだ! 絶対にいやだ!」
ノエルは、子供のように首を横に振った。涙が、堰を切ったように溢れ出す。
そんな妹の姿に、クレアの脳裏に、ある光景が鮮やかに蘇った。
納屋の中で、自分たちを逃がすために、敵兵の前に立ちはだかろうとしていた、母の、あの強い瞳。
あの時、母は、自分に何を託そうとしたのか。
――未来を。生き延びて、幸せになるという、未来を。
クレアは、自分がもう、守られるだけの子供ではないことを悟った。
母が自分に託したそのバトンを、今度は自分が、愛する妹に手渡す時が来たのだ。
彼女の瞳に、ただの優しい姉ではない、家族の意志と未来の全てを受け継いだ、一人の強い女性の光が宿る。
**
クレアは、ノエルの両肩を、強く掴んだ。そして、涙で濡れたその瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「聞きなさい、ノエル。これは、感傷じゃない。二人ともが生き残るための、唯一の作戦よ」
その言葉は、姉としての「命令」だった。
「私が、ここで敵の注意を引く。あなたは、その隙に行きなさい」
「そんなの無茶だ! お姉ちゃんの足じゃ…!」
「だからよ。だからこそ、私がここに残るのが、最も合理的でしょう? 敵は、動けない私に気を取られる。その隙に、あなたなら、必ず逃げ切れるわ」
二人の間で、最後の、そしてあまりにも悲痛な作戦会議が始まった。
それは、涙を必死にこらえながら、互いの生存確率を、コンマ1%でも上げるための、軍師たちの軍議だった。
「…分かった。でも、必ず、合流する」ノエルは、しゃくりあげながら言った。
「ええ、もちろんよ。約束だもの」クレアは、優しく微笑んで見せる。
「第一合流目標は、『冷たい湧水の沢』。もし、どちらかが来なければ、待たずに次へ」
「第二目標、『リスの住む大きな木』」
「第三目標、『村道からそれた黄色の花畑』。……あそこなら、見晴らしがいいから、お互いを見つけやすい」
「ええ、そうね。そして、最終離脱目標は…」
「「一番近い街」」
二人の声が、重なった。もし、途中のどこですれ違っても、必ず、あの街で落ち合う。それが、二人の揺るぎない約束となった。
合流地点は全て、かつて二人が笑い合った、思い出の場所だった。それは、ただの作戦ではない。失われた日常と、それでも信じたい未来とを結びつける、希望の道標だった。
クレアは、ノエルの手を、そっと離した。
「さあ、行きなさい。ノエル」
ノエルは、姉の顔を、その瞳を、心のフィルムに焼き付けるように、じっと見つめた。そして、力強く、一度だけ頷くと、姉に背を向けた。
涙を振り払いながら、街へと続く、ただ一つの道を、走り出す。
一度も、振り返らなかった。
振り返ってしまえば、姉の、そして母の覚悟が、無駄になってしまうから。
この作戦を、完璧に遂行するために。
彼女の胸の中にあるのは、悲しみだけではない。
姉と再会し、二人で生きるという、明確な目的。
そして、そのための、熱く、燃えるような希望が、十四歳の少女の小さな心臓を、今、力強く、力強く、動かしていた。
ノエルの、孤独で、しかし、決して一人ではない旅が、ここから、始まる。
これで第三章は終了です。
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