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【第三部開始】『辺境の軍師』~職能ギルドの受付嬢は、戦術の知識で静かに世界を救いたい~  作者: かわたん
第一部 第三章 終焉

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第9話:ふたつの星と、ひとつの場所

いつも応援ありがとうございます。


本日は、【一日二話投稿】です。

これは、二回更新の【二話目】です。先に朝の投稿からお読みください。

 世界から、色が消えた。

 匂いも、風の音も、何も感じない。


 ただ、あの鈍い光と、崩れ落ちていく大きな背中の残像だけが、瞼の裏に焼き付いて離れない。


 父は、どうなったのか。


 何も分からない。


 その思考停止は、しかし、長くは続かなかった。

 ぞわり、と背筋を這い上がってくる、明確な殺意。

 村を制圧し終えた敵兵が、次の獲物を探して、森の入り口へと意識を向け始めたのだ。


 ――逃げなければ。


 その、生存本能から生まれたたった一つの命令が、麻痺していたノエルの体を無理やり動かした。


 踵を返し、森の奥深くへと、転がるように駆け出す。


 どこへ向かうべきか。何をすべきか。

 そんなことを考える余裕はない。


 ただ、頭の中に流れ込んでくる『知識』が示す、最も追っ手から逃れやすい最適ルートを、無心で走り続ける。

 木の根を避け、ぬかるみを飛び越え、獣道ではない、しかし最も効率的に距離を稼げるラインを、まるで熟練した狩人のように駆けていく。


**


 どれくらい走っただろうか。


 肺が張り裂けそうで、足は鉛のように重い。

 追っ手の気配が一時的に遠のいたのを感じ、小川のほとりにある大きな樫の木の陰に、ずるずると身を滑らせた。


 冷たい水で顔を洗い、渇いた喉を潤す。


 そこで、ふと、視界の端に違和感を覚えた。


 樫の木の、自分の目線ほどの高さの枝に、何かが見える。


 それは、見慣れた濃紺色のリボンだった。

 クレアお姉ちゃんが、いつも髪を結んでいた、あのリボン。


 それが、不自然に、しかし解けぬよう、固く結びつけられている。


 なぜ、ここに?

 お姉ちゃんは、ここを通ったのか?

 これは、私への合図?


 思考が、急速に回転を始める。

 この場所自体に、戦略的な意味はない。隠れるのにも、籠城するのにも適していない。ならば、このリボンは、場所を示す「地図」ではない。

 きっと、何かを思い出させるための、「鍵」なんだ。


 ノエルの脳裏に、ある日の記憶が、鮮明に蘇った。



 あれは、四年前。

 森で斥候の男と出会い、自分の異質さを突きつけられて、深く心を閉ざしていた頃。

 食事も喉を通らず、誰とも口を利かず、ただ部屋に引きこもっていたノエルの手を、クレアがそっと引いた。


「ノエル、行きましょう」


 姉は、何も言わずに、ノエルを村の外れへと連れ出した。

 村人たちが誰も近づかない、木立ちに囲まれた小さな丘。そこからは、視界を遮るものが何もなく、空がどこまでも広く見渡せた。


「一人になりたいときは、ここが気持ちが落ち着くわ」


 クレアは、そう言って、ノエルの隣に静かに座った。

 なぜ悩んでいるのか、何も聞かない。ただ、黙って、一緒に空が茜色に染まっていくのを、見つめてくれた。

 夜になり、空が深い藍色に染まると、そこには、まるで手が届きそうなほどの、降るような星空が広がっていた。



 あの時、ノエルは、ただ頷くことしかできなかった。

 でも、確かに感じていた。姉の言葉にならない優しさが、凍りついた自分の心を、少しずつ溶かしていくのを。


 そうだ。あの場所だ。

 二人だけの、秘密の場所。


「……お姉ちゃん」


 ノエルは、リボンをぎゅっと握りしめた。

 お姉ちゃんは、あの丘にいる。

 あの、星の降る丘で、私を待っているんだ。


 彼女の瞳から、絶望の色がわずかに後退する。

 代わりに宿ったのは、恐怖をねじ伏せるほどの、姉に会いに行くという、たった一つの強い意志の光だった。


**


 星の降る丘は、幸いにも、敵の主な進攻ルートの反対側だった。

 ノエルは、再び追っ手の気配を慎重に探りながら、記憶の中の道を辿る。


 丘の頂上にたどり着く。そこだけは、以前と変わらない光景に包まれていた。


 ノエルの視線が一点で止まる。

 大きな岩の陰で、クレアが身を潜めるように座り込んでいたのだ。


 その服は泥と煤で汚れ、浅黒い顔には疲労の色が濃く浮かんでいる。足には、痛々しい傷を負っていた。


「……お姉ちゃん!」

「ノエル……!」


 二人は、言葉もなく駆け寄り、強く、強く抱きしめ合った。


 姉の温かい体温が、凍えていたノエルの心を溶かしていく。


 ああ、生きてる。お姉ちゃんは、生きてる。


 それだけで、十分だった。


「……お父さんと、お母さんは…?」


 震える声で、ノエルは尋ねた。

 クレアは、一瞬、その体をこわばらせた。そして、妹をさらに強く抱きしめると、努めて明るい声で言った。


「大丈夫よ。きっと、うまく逃げているわ。お父様もお母様も、強い人たちだもの。私たちも、早く合流しなくちゃ」


 その声は、ほんの少しだけ、震えていた。


 ノエルは、姉の嘘を、瞬時に察した。

 瞳の奥の、隠しきれない悲しみの色。自分を安心させようとする、不自然なほど力強い抱擁。

 その全てが、残酷な真実を物語っていた。


 涙が、溢れそうになる。

 でも、ノエルは、それを必死にこらえた。


 今、自分が泣いてしまったら、気丈に振る舞っているお姉ちゃんの心が、きっと、壊れてしまうから。


 だから、ノエルは、姉のその優しい嘘を、丸ごと受け止めるように、力強く頷いた。


「うん。そうだね、お姉ちゃん。二人で、合流しよう」


 その、あまりにも大人びた返答と、全てを理解したかのような瞳に、今度はクレアが息をのむ。


 目の前にいるのは、もう、自分が守るべき、か弱いだけの妹ではなかった。

 この、地獄のような一日を経て、同じ痛みを分かち合い、対等な覚悟で自分を見つめ返す、一人の人間がいた。


「ノエル……ごめんなさい」


 クレアの声が、震える。


「隠し事は…ダメね。私たちはもう、子供じゃないんだものね」


 姉のその言葉を合図に、二人の間にあった見えない膜が、静かに消えていく。


 クレアは妹の「心の強さ」を、ノエルは姉の「苦悩への寄り添い」を、言葉なくして理解した。

 互いの成長と覚悟を認め合った瞬間、二人は、真の意味で、対等なパートナーとなったのだ。


**


 二人は、改めて互いの手を強く、強く握りしめた。


 零れ落ちた涙を、互いの指で拭い合う。


 父も、母も……。

 故郷を、全て失った。


 しかし、絶対になくさないものが、たったひとつある。


 お互いの目の前の、姉のぬくもり。妹の強さ。


 私たちは、もう一人じゃない。

 ノエルの『知識』と、クレアの『知恵』。

 ふたつの、全く異なる輝きを持つ星が、今、このひとつの場所で出会った。


「「二人でなら、きっと」」


 どちらからともなく、同じ言葉が、誓いのように紡がれる。


 絶望の暗闇の中で、ようやく見つけた、たった一つの希望の光。


 しかし、ふたつの希望の光を嘲笑うかのように、こちらへ向かってくる残酷な悪意。


 丘の麓から、ブーツが土を踏む、無機質な音が聞こえてくる。


 木立の隙間から見える敵兵の姿。


 希望に満ちた二人の表情が、瞬時に、緊張の色へと変る。


 そして静かに視線を交わしたふたりは、強い瞳で頷き合う。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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