第9話:ふたつの星と、ひとつの場所
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本日は、【一日二話投稿】です。
これは、二回更新の【二話目】です。先に朝の投稿からお読みください。
世界から、色が消えた。
匂いも、風の音も、何も感じない。
ただ、あの鈍い光と、崩れ落ちていく大きな背中の残像だけが、瞼の裏に焼き付いて離れない。
父は、どうなったのか。
何も分からない。
その思考停止は、しかし、長くは続かなかった。
ぞわり、と背筋を這い上がってくる、明確な殺意。
村を制圧し終えた敵兵が、次の獲物を探して、森の入り口へと意識を向け始めたのだ。
――逃げなければ。
その、生存本能から生まれたたった一つの命令が、麻痺していたノエルの体を無理やり動かした。
踵を返し、森の奥深くへと、転がるように駆け出す。
どこへ向かうべきか。何をすべきか。
そんなことを考える余裕はない。
ただ、頭の中に流れ込んでくる『知識』が示す、最も追っ手から逃れやすい最適ルートを、無心で走り続ける。
木の根を避け、ぬかるみを飛び越え、獣道ではない、しかし最も効率的に距離を稼げるラインを、まるで熟練した狩人のように駆けていく。
**
どれくらい走っただろうか。
肺が張り裂けそうで、足は鉛のように重い。
追っ手の気配が一時的に遠のいたのを感じ、小川のほとりにある大きな樫の木の陰に、ずるずると身を滑らせた。
冷たい水で顔を洗い、渇いた喉を潤す。
そこで、ふと、視界の端に違和感を覚えた。
樫の木の、自分の目線ほどの高さの枝に、何かが見える。
それは、見慣れた濃紺色のリボンだった。
クレアお姉ちゃんが、いつも髪を結んでいた、あのリボン。
それが、不自然に、しかし解けぬよう、固く結びつけられている。
なぜ、ここに?
お姉ちゃんは、ここを通ったのか?
これは、私への合図?
思考が、急速に回転を始める。
この場所自体に、戦略的な意味はない。隠れるのにも、籠城するのにも適していない。ならば、このリボンは、場所を示す「地図」ではない。
きっと、何かを思い出させるための、「鍵」なんだ。
ノエルの脳裏に、ある日の記憶が、鮮明に蘇った。
あれは、四年前。
森で斥候の男と出会い、自分の異質さを突きつけられて、深く心を閉ざしていた頃。
食事も喉を通らず、誰とも口を利かず、ただ部屋に引きこもっていたノエルの手を、クレアがそっと引いた。
「ノエル、行きましょう」
姉は、何も言わずに、ノエルを村の外れへと連れ出した。
村人たちが誰も近づかない、木立ちに囲まれた小さな丘。そこからは、視界を遮るものが何もなく、空がどこまでも広く見渡せた。
「一人になりたいときは、ここが気持ちが落ち着くわ」
クレアは、そう言って、ノエルの隣に静かに座った。
なぜ悩んでいるのか、何も聞かない。ただ、黙って、一緒に空が茜色に染まっていくのを、見つめてくれた。
夜になり、空が深い藍色に染まると、そこには、まるで手が届きそうなほどの、降るような星空が広がっていた。
あの時、ノエルは、ただ頷くことしかできなかった。
でも、確かに感じていた。姉の言葉にならない優しさが、凍りついた自分の心を、少しずつ溶かしていくのを。
そうだ。あの場所だ。
二人だけの、秘密の場所。
「……お姉ちゃん」
ノエルは、リボンをぎゅっと握りしめた。
お姉ちゃんは、あの丘にいる。
あの、星の降る丘で、私を待っているんだ。
彼女の瞳から、絶望の色がわずかに後退する。
代わりに宿ったのは、恐怖をねじ伏せるほどの、姉に会いに行くという、たった一つの強い意志の光だった。
**
星の降る丘は、幸いにも、敵の主な進攻ルートの反対側だった。
ノエルは、再び追っ手の気配を慎重に探りながら、記憶の中の道を辿る。
丘の頂上にたどり着く。そこだけは、以前と変わらない光景に包まれていた。
ノエルの視線が一点で止まる。
大きな岩の陰で、クレアが身を潜めるように座り込んでいたのだ。
その服は泥と煤で汚れ、浅黒い顔には疲労の色が濃く浮かんでいる。足には、痛々しい傷を負っていた。
「……お姉ちゃん!」
「ノエル……!」
二人は、言葉もなく駆け寄り、強く、強く抱きしめ合った。
姉の温かい体温が、凍えていたノエルの心を溶かしていく。
ああ、生きてる。お姉ちゃんは、生きてる。
それだけで、十分だった。
「……お父さんと、お母さんは…?」
震える声で、ノエルは尋ねた。
クレアは、一瞬、その体をこわばらせた。そして、妹をさらに強く抱きしめると、努めて明るい声で言った。
「大丈夫よ。きっと、うまく逃げているわ。お父様もお母様も、強い人たちだもの。私たちも、早く合流しなくちゃ」
その声は、ほんの少しだけ、震えていた。
ノエルは、姉の嘘を、瞬時に察した。
瞳の奥の、隠しきれない悲しみの色。自分を安心させようとする、不自然なほど力強い抱擁。
その全てが、残酷な真実を物語っていた。
涙が、溢れそうになる。
でも、ノエルは、それを必死にこらえた。
今、自分が泣いてしまったら、気丈に振る舞っているお姉ちゃんの心が、きっと、壊れてしまうから。
だから、ノエルは、姉のその優しい嘘を、丸ごと受け止めるように、力強く頷いた。
「うん。そうだね、お姉ちゃん。二人で、合流しよう」
その、あまりにも大人びた返答と、全てを理解したかのような瞳に、今度はクレアが息をのむ。
目の前にいるのは、もう、自分が守るべき、か弱いだけの妹ではなかった。
この、地獄のような一日を経て、同じ痛みを分かち合い、対等な覚悟で自分を見つめ返す、一人の人間がいた。
「ノエル……ごめんなさい」
クレアの声が、震える。
「隠し事は…ダメね。私たちはもう、子供じゃないんだものね」
姉のその言葉を合図に、二人の間にあった見えない膜が、静かに消えていく。
クレアは妹の「心の強さ」を、ノエルは姉の「苦悩への寄り添い」を、言葉なくして理解した。
互いの成長と覚悟を認め合った瞬間、二人は、真の意味で、対等なパートナーとなったのだ。
**
二人は、改めて互いの手を強く、強く握りしめた。
零れ落ちた涙を、互いの指で拭い合う。
父も、母も……。
故郷を、全て失った。
しかし、絶対になくさないものが、たったひとつある。
お互いの目の前の、姉のぬくもり。妹の強さ。
私たちは、もう一人じゃない。
ノエルの『知識』と、クレアの『知恵』。
ふたつの、全く異なる輝きを持つ星が、今、このひとつの場所で出会った。
「「二人でなら、きっと」」
どちらからともなく、同じ言葉が、誓いのように紡がれる。
絶望の暗闇の中で、ようやく見つけた、たった一つの希望の光。
しかし、ふたつの希望の光を嘲笑うかのように、こちらへ向かってくる残酷な悪意。
丘の麓から、ブーツが土を踏む、無機質な音が聞こえてくる。
木立の隙間から見える敵兵の姿。
希望に満ちた二人の表情が、瞬時に、緊張の色へと変る。
そして静かに視線を交わしたふたりは、強い瞳で頷き合う。
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