プロローグ
お手に取っていただきありがとうございます。
もしよければ、第7話まで読んでみてください。
このプロローグは、少し短めです。
その日も、依頼を終えた者たちの熱気が、ホールを満たしていた。
受付カウンターに、ドスン、と猪型の魔物の巨大な牙が置かれる。
光を吸い込む、鴉の濡れ羽色のような黒髪。少しぶかぶかの、身体に合っていない制服を着た少女は、小動物のようにびくりと肩を揺らした。
「お、お疲れ様です! す、すぐに査定しますので!」
慌てて分厚い記録台帳を開き、インク壺を手に取るが、緊張で指が滑り、真新しいページに、ぽつりと黒い染みが落ちてしまう。
青ざめて、潤んだ瞳でそれを見つめる、どこにでもいる、少し不器用なだけの少女。
――だが、彼女の脳は、その動揺する感情とは全く別の領域で、常に、この場に存在する全ての情報を、無差別に、そして冷徹に、記録し続けていた。
カウンターに来るまでの、あの斥候の歩き方。重心のブレから推測される、左脚への僅かな負荷。
ブーツの縫い目に付着していた、薬草の微細な欠片。
ホールに入って来た時の、彼の視線の動き。最初に壁の依頼ボードではなく、カウンター奥の先輩受付嬢の顔色を窺った、ほんの一瞬の躊躇い。
それらは、まだ、意味をなさない、ただの情報の断片。
顔を上げた彼女は、先輩受付嬢に「あんたは、本当に…!」と深いため息と共に叱られ、カウンターの隅で依頼報告書の整理を命じられた。
その中に、赤インクで『失敗』とスタンプが押された報告書が混じっていた。
依頼を受けたのは、先程のパーティ。
その『失敗』という二文字を目にした瞬間、それが引き金となった。
これまで無秩序に記録され続けていた無数の情報の断片が、彼女の頭の中で、音もなく、しかし必然的に、一つの論理構造へと組み上げられていく。
斥候の微細な負傷、任務外の薬草、先輩への視線、そしてこの『失敗』報告。
四つの事実が、矛盾なく一本の線で繋がる、唯一の解。
――彼らはギルドに秘匿した別任務で森の奥深くまで侵入し、想定外の脅威に遭遇、そして負傷。この報告書は、その事実を隠蔽するための、巧妙な偽装工作である。
結論に至るまで、ほんの数秒。
一連の思考を終えた少女は、その報告書を、まるでインクの染みの方がよほど重大事であるかのように、悲しげな瞳でちらりと見やった後、無邪気に首を傾げてみせる。
そして、その『失敗』の報告書を、他の書類と同じファイルへと、何事もなかったかのように、淡々と綴じた。
今日も彼女は、『記憶の意思』を完璧に抑え込む。
その瞳の奥に、世界の全てを情報の断片として解体し、再構築する、静かなる観測者の貌を隠す。
彼女が、その冷徹な分析能力を身につけることになった、全ての始まり。
それは、五年前。
記録に残らない『西の森の事件』と、そしてその後に続く、あの忌まわしき日から、繋がっている――。
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