00 本読む怪物、本読む冒険者
スッ、スッ。
薄明かりの下でページを捲る音だけが聞こえてくる。
ダンジョンと呼ばれる地下に張り巡らされた広大な迷宮。洞窟の岩壁に洋燈に映し出された影が揺らめいている。
古ぼけて茶けた紙を優しく捲りながら、そこにインクで書かれた小さな文字を読み取っていく。集中して俯くあまり、ずり落ちた眼鏡をくいっと元の位置に戻す。長く爪が伸び、骨張ったその手は緑色だ。
読書に耽る彼は人間たちから小鬼と呼ばれるモンスターだった。
その名のとおり、人間の子どもほどの小さな背丈の貧弱な怪物だ。生まれ故郷である地下迷宮はひ弱な彼にとって決して安全な場所ではなかった。
彼らモンスターが命を落とした後に残す素材を目当てにやってくる武装した冒険者だけでなく、強靭な肉体を持つ同族のモンスターから攻撃される。半端者の扱いだった。
そういうわけで産まれてからまずやることは武器を持つことだった。木と石で作成した斧、丸太製の棍棒、冒険者から剥ぎ取った短剣。生き延びる術を身につける必要に迫られていた。
しかし彼は異端だった。
モンスターでありながら、本を読むという行為が好きだったのだ。人間の使用する文字もその意味も正確に理解している。本を読んでそこに書かれた内容を理解することは人間が何を考えているのか知るのにとても役立った。
パタンとたった今読み終えた本を閉じ、綿のはみ出したギシつく椅子から立ち上がる。洞窟の壁の一部に嵌め込まれた本棚まで歩いていく。
本棚には彼が蒐集してきた本が詰まっている。
そのうちの一冊の背表紙を人さし指で引っ張り出して手に取った。革張りの年代物の一冊だ。
彼は人間たちがこれを『魔術書』と呼び、有り難かっていることを知っていた。
『グギャリィ、グルージャ』
そう唱えると、彼の手から激しく炎が迸る。
人語を駆使する彼にかかれば、魔術書を使用することもできた。冒険者から身を守るのに役立つ魔法を実に容易く取得できる魔術書の存在を知ってから、その蒐集に精を出すようになった。
彼はどれほどたくさんの本を読んでもなぜ冒険者と呼ばれる人間が同胞を殺すのか理解らなかった。小鬼がドロップするアイテムなど大したお金にはなるまい。ただ練習相手のように嬲り殺された。
彼の胸の内では燻る火種が煙を上げている。
***
ペラリ。ペラリ。
寝台の洋燈の下でゆっくりとページを捲る音と話し声が聞こえる。
「——いつまでも幸せに暮らしましたとさ。おしまい」
「つぎはこっちのほんをよんでぇ」
一緒に布団に入り、ムゥにせがまれて絵本を読んでいる。これで3冊めだというのに一向に眠る気配がない。
「今日はこれでおしまいっ。良い子は眠る時間です」
「ううっ。ムゥはわるいコなの〜」
がばっと掛けていた布団を跳ね上げる。
「ああ〜〜」
僕が現在進行形で大借金(三百万エルンほど)をしている魔術書店〈ノクチルカ〉でカガミから絵本をもらってから、ムゥがハマってしまい就寝前にそれを僕が読み聞かせするのが就寝前のルーティンになりつつあった。
「じゃあ、じゃあ。これ読んでぇ」
ムゥが持ってきたのは黒い一冊の本。
「僕の迷宮教典じゃないか。そこには物語は載ってないよ」
冒険者組合で貰った時はすべてのページが白紙だったけど、僕が第一階層で出会ったモンスターの情報が少しずつ書き込まれている。
「モンスターの情報が自動で記録されるなんて、まるで魔法だよなぁ。どうやってるんだろう? 不思議だ……」
僕のダンジョンでの冒険を追憶するようにパラパラとページを捲る。
スライム、ジャイアントツリーベアー、ロッククラブ、アルラウネ……。
迷宮教典についてはギルド職員の人たちもよくわかっていないらしい。
クララさん曰く、
「在庫の数が少なくなると、私たちも知らないうちにダンジョン・レコードがいっぱいに入った木箱がギルド前に置かれているんですよ。ギルド長は誰が持ってきて、どういう本なのか、正確に知っているのかもしれませんが」
ということなのだそうだ。
差出人不明なんていよいよ謎が深まるばかり。
「みてっ! ゴブリン!」
ムゥもよく知るゴブリンの描かれたページを開いて見せる。僕もこの街に来てから、何度も対戦している。くすんだ緑色の肌、痩せて肋の浮いた身体。閉じた口からも覗く長い牙。冒険者じゃなくとも知っているモンスターらしいモンスターだ。
***
彼は腕時計を見て時間を確認すると立ち上がり、部屋の隅に置かれていた木箱を持ち上げて洞窟の外へと出ていった。
その木箱は詳細不明のブラックボックスにして災厄の詰まったパンドラの函。




